「〜♪〜〜♪」
 
鼻歌を歌いながら景気よく床を擦る。デッキブラシがタイルと擦れあう音が、私は大好きだ。ただひたすらにその音を聞き続けて、気が付けば仕事は終わっていた。額から垂れる汗を拭って全体を見回す。
 
鏡やシャワーの擦り洗いはもう終わらせてある。桶や椅子も後は洗剤を洗い流すだけ。床を流すのと一緒にやればいい。そして、床を流し終わったら――
何回やってもこの瞬間だけは、わくわくする気持ちが抑えられない。バルブを一気にひねると、蛇口から滝のようにお湯が湧き出した。
 
おはよう、私の城。今日こそ一緒に、沢山のお客さんを迎えよう。
達成感と一緒に飲み干したコーヒー牛乳は今日も格別だった。
 
 
 
「筈なんだけど、なー」
 
 
足をぶらぶらさせながら外を見遣る。ザーザーと降る雨は、いつまで経っても止む気配がない。あーあ、これで何日連続だろう。梅雨だから仕方ないとは分かっているけれど、今日こそは晴れると思ってたんだけどな。実際、昼前まではいい天気だったし。
 
梅雨。街の人がみーんなずぶ濡れになってしまう時期。折角体を清めても帰りにずぶ濡れになってしまうと分かっていて銭湯に来る人は、いない。うち駐車場ないしなぁ。
 
今日も誰も入らないで店を閉めるのか…。そう思い外を見ると、軒先に数日ぶりの人影があった。うちの常連さんとは違う、高くてひょろっとしたシルエット。あの詰襟は確か、烏野の制服だ。雨に降られてしまったのだろうか、タオルでガシガシと頭を拭いているけれど、そのタオルも明らかに濡れそぼって雫を垂らしていて、役に立っているとは思えない。思わず乾燥機から洗い立てのタオルを取り出して外へ向かった。ガラリ、古めかしい引き戸の音に彼が振り返る。
 
 
「…何ですか」
 
 
不機嫌そうな視線に射抜かれて、私はすくみ上がった。さ、最近の子供は発育いいなぁ…!背が高いなぁとは思っていたけど、実際同じ高さに立つとかなりの身長差だ。迫力がありすぎて、正直、声を掛けたのを若干後悔している。いやでも折角タオル持ってきたんだし。
 
 
「雨宿り、ですか」
「そうですけど何か。金出さないと雨宿りもしちゃいけないの、この店」
 
 
ああもう何か怒ってるし。カルシウム足りてないんじゃないのこの子。
 
 
「そういうんじゃなくて!あの、風邪引くといけないから、どうぞ」
「………」
「お金とかいいんで。1枚も10枚も洗うの一緒だし」
 
 
そこまで言ってようやくタオルを受け取ってくれた。「…ドウモ」と小さく呟いた声を聞き逃しはしない。
 
 
「なんだ、お礼言えるんじゃない。いい子いい子」
「ハァ?」
「ごめんなさいすみません謝るから睨むのやめて怖い」
 
 
機嫌を悪くして殴られたりしたら困る、と平謝りすると、彼は一瞬目を丸くしてそっぽを向いた。
 
 
「…初対面の人を睨みつけるとか不良デショ。目が悪いからこういう目付きになるだけ」
「あれ?コンタクトとか眼鏡は…あー、濡れちゃってるからね。なるほどね」
 
 
それが分かっていれば案外怖くないかもしれない。ちゃんと見るとなかなか整った顔立ちをしている。そのせいもあって目を眇められると怖いんだな、と納得したその瞬間、隣で小さなクシャミ。
 
 
「寒い?」
「…今のはそういうんじゃないですから」
「いや強がらなくていいし。冷えてきたもんね、寒いでしょ」
「タオルありがとうございました、じゃ僕帰るんで」
「いやいやいや待って!!」
 
 
ガシリと腕を捉えるとまた冷ややかな視線が向けられた。いや違う、これは眼鏡のせいだ。自分に言い聞かせて口を開く。
 
 
「どうせだからさ、お風呂、入ってかない?」
「…は?新手のキャッチセールス?言っときますけど僕今日お金持ってないんで」
「お金とか取る気ないし。今回だけタダにしといてあげるから」
 
 
ね?と言い聞かせると、不思議そうな顔。
 
 
「なんでそこまでするの?」
「んー、今日人来ないしさぁ。折角掃除してお湯入れてるのに誰も入らないなんて勿体ないでしょ」
「………」
「人恋しいなー、なんてね」
「…後から払えって言われても無視しますケド」
「そうなったら殴って番台のお金盗っていいよ」
 
 
何それ、と笑った顔は、大人びた外見とは違って年相応だと思った。
 
 
「中に入る前に上着脱いで。床ビチャビチャになっちゃうから」
「優しいんだか優しくないんだかどっちなの」
「優しいかもって思ってもらえてお姉さん嬉しいなー。見たとこ運動部っぽいけど、着替えれるTシャツとかジャージとかある?」
「まぁ、一通り」
「じゃあ制服を無理に乾かさなくてもいっか。まあ詰襟だけは水気飛ばしといてあげるから、ゆっくり温まってきな」
「…一応言っときますケド、覗かないで下さいね」
「その手があったか!」
「………」
「いや、あの、嘘だからそんな冷たい視線向けないでよ。覗かないから、ホントに」
 
 
上着を受け取り顔の前でひらひらと手を振ると、今にも馬鹿にしてきそうな、もしくは笑い出しそうな、そんな変な顔をしつつも脱衣所へ向かった。さて、私はこの水分の塊を何とかしないとね。
 
 
 
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ペタリ、音を立ててフローリングを歩く。風呂を上がったはいいけど、さてこれからどうしようか。タイル状に組み合わされたガラスから外を見ると、勢いは少し弱くなったものの、まだまだ雨は止みそうにない。この雨の中を帰るのかと思うと自然と溜息が漏れた。
 
 
「溜息つくと幸せが飛んでくんだって。知ってた?」
「…何ドヤ顔してるんですか。ていうか背後に立つなら一声掛けてくれません?」
「今掛けたじゃん」
「そうじゃなくて――…何じっと見てるの気持ち悪い」
 
 
頭のてっぺんから爪先までジロジロ見られてたまらず非難すると、目の前の人はフッと笑った。
 
 
「んー?水も滴るいい男だなぁ、なーんてね」
「さっきも濡れてたデショ」
「あれは濡れ鼠って感じで惨めだったから」
 
 
惨め…。自分に負けず劣らずズバズバ言うなこの人、と思っていたら、頬に急に冷たい物が当たった。反射的に飛び退く。
 
 
「!?」
「あはは、いい反応!若いっていいなぁ」
 
 
見れば、頬に当たったのはコーヒー牛乳の瓶だった。いる?とニヤニヤ笑う顔にイラッときて、返事せずに受け取った。
 
 
「"若い"とか"お姉さん"とか言うアンタは何歳なの」
「段々タメ口になってない?まぁいっか。…えっとね、確か今年で、23?」
「…へー」
「何その薄い反応」
「いや、妥当だなと思って」
「…なんか貶された気がする」
「気のせいじゃないですかオバサン」
「オバっ…!?まだアラサーですらないし!!撤回して!!」
 
 
ハイハイ、と軽くいなして話を聞けば、倒れて入院したお爺さんの代わりに銭湯を切り盛りしているらしい。「まぁ大学卒業したけど就職できなかったし、昔からここ好きだし、結果オーライじゃない?」と笑ってはいるけど、にしては客が少な過ぎやしないかと心配になる。今度山口でも連れて来てやろうか、と考えが至ったところで呆然とした。
――なんで自分の中でまた来ることになってるんだ。
 
 
「…雨、もうすぐ止みそうだね」
 
 
その言葉にハッとして外を見ると、確かに向こうの空が少し明るくなっている。なんだ、思っていたより早く帰れそうだ。やっとこの煩い人から解放されるのか、と思い隣に視線をやると、何とも言えない表情で外を見ていた。…迷子の子供とか捨てられた子犬って、こういう顔をしていたような気がする。
 
 
「よかったね、あんまり遅くならなくて。夕ご飯食べ損ねたら困るし」
「…まぁ、そうですね」
「あれ、また敬語復活した。よく分かんないね」
「オバサンが子供っぽいからデショ」
「だからそれ案外傷つくんだけど。…うーん、子供っぽい、かな」
 
 
その喋り方とか、無造作に束ねた髪とか、その縋りたそうなのを我慢してる眼とか。十分子供っぽいと思うのだけれど。とても自分と8歳も離れているとは思えない。
 
 
「ああそうだ、はい、これ。完全には乾かなかったけど、多少はマシじゃない?」
 
 
手渡された学ランはかなり水分が抜けて、ドライヤーとかで地道に乾かせば明日には着れそうだった。
 
 
「…ありがとう、ございます」
「やだな、確かにお礼言えるのはいい子だけど、そこまで殊勝になられるとちょっと気持ち悪いよ」
「…アンタも結構言うよね、オバサン」
「それ止めてってば。――…名前。名字名前っていうの、私」
 
 
だからこの銭湯は名字湯って名前なんだよ、と、名前サンは誇らしげに笑った。
 
 
「…月島蛍、です」
「ケイ?どういう字?」
「……ほたる、って漢字ですけど」
 
 
つきしま、けい。そう口の中で転がすように呟いて、微笑む。
 
 
「いい名前じゃん。名は体を表す、ってね」
「………」
「蛍くん、よかったらまた来てよ。ここんとこずっとヒマだから話し相手が欲しいんだ」
「客として誘わなくていいの?」
「まぁそれは、蛍くんの気が向いたらでいいんじゃない?」
「…お人好しも度を過ぎると馬鹿だよね」
「褒めてくれてありがとう」
 
 
悪戯っぽく笑う彼女を鼻で笑って、室内をぐるりと見回した。――また雨が降ったら来ようかな、なんて、変に胸がくすぐったくなることを考えながら。
 
 
 
 
 

 
 
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脳内不法侵入罪様に提出



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