story | ナノ







 ざわざわと木々が揺らめいて、そうして直ぐに空から雨が落ちてきた。
雨粒が頬を濡らし服と肌の間に潜り込む。冷たいそれに反射的に肩を震えさせると、鞄から億劫な動きで折り畳み傘を引き抜いた。
歩く度にがさりとスーパーのロゴが印刷されたビニル袋が音を立てる。心地好い雨音、けれども次第に強まる雨足に早く帰ろうと歩みを進めた。



 鞄のサブポケットに突っ込んであった自宅の鍵をおもむろに取り出し、鍵穴に差し込むとカチャリ、重たい音を立てドアを開けた。
誰も居ないと思っていたのにドアを開くと突に聴こえてきたメロディ。ほんのり漂うコーヒーの香りに同居人は帰ってきてるのか、と声をあげる。


 「三郎、お帰りなさい」


三郎が帰ってきてどれ程時間が経ったのかは知らないが、随分とくつろいでいるようだった。
その証拠に同棲を始めたときに良いものをと張り切って買ったコンポから聴こえてくるメロディは、ビートルズのラヴミードゥのもので。あいつがビートルズを聴くときはリラックスしているか、現実逃避をしているときに限るから、まあ、精々帰宅して二時間経つか経たないか、そんなものだろう。


 「帰ってる。腹減った」


もそもそとゆっくりとスニーカーを脱ぎ、そう大して長くない廊下を歩きひょっこりとリビングに顔を出す。案の定先日気になったからと買っていた官能小説を読んでいる同居人、……要は私の彼氏様がふてぶてしくソファーに腰掛けていた。


 「お腹空いたなら自分で何とかしたら良いのに」


 「疲れて帰ってきた旦那に手料理も出さないのか」


 「まだ旦那じゃあないわよ」


 「……じゃあ結婚するか?六月だし、ジューンブライドだ」


 キッチンのシンクに買ったばかりのごぼうを袋から取り出し適当に置こうとした。
さらりと冗談を投げ掛けつつも、今日は炊き込みご飯にでもしてやるかと三郎の好物を頭の中に浮かべていたときだった。とにかく突然だったのだ。


 「い、いま何とおっしゃいましたか……」


 「だから、私が旦那になってやるよ」


 結婚しよう。


 雨のにおいとごぼうの土のにおい。

私が夜景を背に、と期待をしていたプロポーズは、自宅と言う何とも残念な場所で受けてしまったのだった。




 バックミュージックはラヴミードゥ。私の片手には土まみれのゴボウ。三郎の手には官能小説。シュールでカオスな空気。
嬉しい反面少し……いや、かなり酷いシチュエーションに戸惑った私は何を思ったのか、役所に行こう、と彼の手と印鑑もろもろを掴みそこそこ暗くなった夕方の街を駆けたのだった。
 理性のぶっ飛んだ人間は何をするのか分からないな、とは全てを終わらせた後、再び家に着いたとき、先の雨でびしょ濡れになりながらも朗らかに笑った三郎の談だ。
役所からの帰り道、やってしまったなあとちょっぴり不安に思っていたから、いざ家に帰り三郎の顔を見ると、幸せで蕩けてしまいそうだと胸があたたかくなった。




 かくして私たちは結婚をしたのだが、如何せん籍を入れたのが突然すぎたため周りからは非常に驚かれるはめになるのであった。




 「なまえと三郎が結婚かあ〜」


 「やっと結婚したんだな……めでたいのだ」


 「ってかなまえちゃん俺と結婚するうってちっさい頃約束したくせにぃ!俺は!?」


 「えっ!?行き成りすぎねぇ!式は、式は何時!?」


現に今も、私と三郎と、二人の共通の幼馴染みたちから質問攻めにあっていたりする。
新婚だからと言って新居に引っ越すわけでもなく毎度お馴染み3LDKのそれなりに良いマンションに集まり、プチパーティ。
みんなで適当に持ち寄ったお菓子やおつまみ、アルコール。それらを煽るように飲み食いするだけなのだか、これが楽しい。
みんなに結婚の報告をしようと、無理矢理我が家に招集をかけ、レッツパーティ。
話を折らないようにと気を使い、少し場が白けたときに私が結婚しました!なんて報告したせいでまたざわざわと部屋が喧しくなった。


 「はいはいはいお静かに〜」


ダイニングから一升瓶を抱えてきた三郎がどうどう、と周りを押さえながら私の横に座る。そのとき、ちゃっかり私の腰に巻き付いていた勘右衛門をひっぺ返しているのを見て、幼馴染みにも容赦ないんだなあと旦那様のガードの固さに何だか笑えた。



 「鉢屋なまえさんへの質問は鉢屋三郎を通してくださーい。挙手ののち、発言してくださーい」



三郎は私の肩を抱き寄せ、口の端を上げつつ辺りを見渡した。所謂どや顔で。



 「三郎のどや顔うぜえ!」


最初に反応したのは八左ヱ門。ごもっともな意見だが、質問じゃないからと言う理由で三郎にピーナッツを鼻に詰められて撃沈。


 「俺らのなまえちゃんのハジメテは三郎ですか!?」


 「帰れシスコン」


別に兄妹じゃないけど、少し私に対して過保護な勘右衛門は下世話過ぎる話題に耳に焼酎を入れられ退場。

続く兵助は晩飯に豆腐が入っているかと言った電波な質問を。三郎は呆れながら昨晩は麻婆豆腐だったと答える。
すると兵助はにこにこしながら、やっぱりお前らは良いカップルだ!と缶を煽った。
訳の分からない、けれど兵助らしい遠回しなお祝いの言い方に三郎と顔を見合わせ、大爆笑。
そうこうしているうちに、撃沈していた八左ヱ門が復活し、退場していた勘右衛門が再登場。
ぎゃんぎゃんと三郎に文句を言う二人を尻目に唯一先程から発言していない雷蔵がハイ、と挙手をした。


 「なまえ、幸せになれる?」




 思えば私たちは小学生の頃からずっと一緒だった。
中学に上がり、成長期を迎え、身体は大きくなるのに、心は大きくなれずに泣いていた私。そんなとき、私は私で良いと優しく支えてくれたのはこのメンバーだった。



 「いつか幸せになるための準備を今はしているんだ。
だから、今はちょっと辛いかもしれないけど、きっと大丈夫。本当の幸せを、いつか見つけられるから。」



この言葉を私にかけてくれたのは雷蔵だった。この話をすると「陳腐な言葉だったかもね」なんてにこにこしながら照れてしまうので、あまり話題に出さないようにしているのだが、実は私は、今日までこれを信じて生きてきた。

 そんな雷蔵が真剣な顔で、幸せになれる?とか言うなんて、ずるい。めちゃくちゃずるい。

思わず熱くなった目頭に、つんと来た鼻の奥に、いつも優しい雷蔵に、いつも諭してくれる兵助に、いつも世話を焼く勘右衛門に、いつも暖かくしてくれる八左ヱ門に。
そして、すべてをくれる三郎に嬉しくて、悲しくて、幸せで、泣き出しそうになる。


 「今も、昔も、これからも、ずうっと、しあわせだよ」


耐えきれなくなった涙が零れる。
気付いたらリビングからは私の嗚咽しか聞こえなくて、とても恥ずかしくなった。
そんな私の心を知ってか、みんなは柔らかく笑いだし、各々で優しい言葉を私にくれる。

やっぱり雷蔵だけじゃないや。みんながみんな、めちゃくちゃずるい。



 「まだもう少しだけ、俺らのなまえちゃんだね」



 「お前ぜってー人のヨメに手ぇ出すなよ」



勘右衛門の冗談に、半分本気、半分冗談気味な声音で返した三郎は、そう言うと、泣きじゃくる私の肩をもう一度、抱き寄せた。