story | ナノ








 彼が似合うと褒めてくれた真新しい赤いパンプスを見つめていると、裾をレースであしらったお気に入りのシフォンワンピースが目に入り、私はふいにため息を吐きたくなった。
きらびやかな建物に背中を預け、化粧品独特の胸焼けしそうな臭いに顔をしかめる。見掛けだけは上品な、下品な花の香りに鼻を摘まみたくなる衝動に駆られながらも一人この場に佇む私。

「ばかみたい…」

周りの喧騒から取り残されて、目に見える程落ち込んで、誰か私を助けてくれないかと視線を這わせる。
けれどもそんな都合の良い優しさをくれる人をそう簡単に見つけられるはずも無く、私は虚しく感じながらも静かに目を伏せた。



 「明日、午後七時にミュージカルホールで」

ミュージカル、一緒に観に行こう。
掴み所のない、ふわふわとした性格をしているせいか、彼はいつも突拍子もない行動する。
昨夜も突然私の家に無理矢理上がり込んできたと思ったら、もてなしたお茶とお茶菓子を飲み食いするなり、それだけを言って挨拶もせずに帰って行った。

「ミュージカルホール……」

ミュージカルホールと言えばライモンシティにでん、と構える輝かしい建物が頭を過るのだが、彼の言うミュージカルホールは、あのミュージカルホールで良いのだろうか。

「ミュージカル、ホール」

そう言えば以前私は彼の前でミュージカルを観に行きたいとぼやいたことがある。一人ではなくて、異性と、デートをするために一度言ってみたいと。もしかすると、彼はその言葉を覚えていて、今、私をデートに誘ったのだろうか。

あのNが、私を……!!?

胸の奥底から沸き上がる高揚感。常日頃、異性より異種だと言わんばかりにポケモンを愛でる彼が、私を、デートに。
そう考えると何とも言い難い優越感、快感が私の身を包んだ。そのお陰で眠たいけれど冴えきってしまった頭を持て余すことになってしまうのだが、その時私は、眠れないことを全く気にしなかった。
ただ、彼のことを恋しく思っていた。形容し難い幸せを全身で感じていた。初めて恋を自覚した夜だった。

 しかし次の日の朝、つまり今朝、私は驚くべき出来事を知ることになる。

 「号外号外ー!」
スクールに行く途中である。妙に慌ただしく騒がしい駅の構内で一際慌ただしく騒がしい声を上げる大人が居た。黒縁の眼鏡をかけ、この地方では割りとメジャーな新聞社のロゴがプリントされたブルーのジャンパーを羽織った男性だ。
男性は慌ただしく動き回り、人々に新聞を押し付けていく。何のニュースかは知らないが、私も新聞を受け取ってやろうと野次馬根性がチラリと芽生え、男性の方へ歩み寄ろうと一歩踏み出した時だ。

「号外号外ー!あのプラズマ団が解団!イッシュを救ったのは十五歳の少年!プラズマ団のボスは未だ行方が分からず、幹部は全員逮捕!号外号外ー!」

男性から聞こえた言葉が余りにも衝撃的でつい石のように体が固まってしまった。

「え……?」

プラズマ団というのは、ここ最近イッシュ地方を脅かしていた宗教染みた組織のことである。ポケモンはヒトから解放されるべきだと主張し、それを人々に強要させる迷惑な組織だ。この一月、組織の凶暴さが特に目立ち、街の人々は酷く彼らに怯えているようだったが、しかし、その元凶であるプラズマ団が解団したらしいというニュースが出回り、人々は大層喜んでいるようだった。
今ならその時の様子をこうして冷静に思い出すことが出来ているのだが、軽くパニックに陥っていた私はもう一度「えっ」と間抜けな声を出すことしか出来ず、興奮した周りが見えていない人の波に飲まれ、そのまま新聞を手にすることは叶わなかった。



 ちゃちな表現だが、まるで今の私の気分は胸に穴が開いたような気分である。
至る所でプラズマ団の解団の話を聞いていると嫌でもこうなってしまった。プラズマ団の消えたボスについての憶測も聞いた。どれもその人を侮辱する、聞くに耐えない言葉だった。
「部下を捨てて逃げるだなんて」
「ポケモンの解放と銘打っても、所詮お金の為に動いていたんだな」
「金だけじゃねえよ。女と酒もさ!自分が楽しむために俺らの家族を拐って裏で売り捌いていたんだろうよ」
「最低だな」
「行方不明って聞くけどよ、どこかで死んでれば良いのに」

違う、プラズマ団の王は、彼は、Nはそんな人じゃない。
そう、声を大にして言ってしまいたかった。彼を知らず、彼を否定する人々に彼の半生を、彼の夢を、彼の思いを話してしまいたかった。
けれど出来なかった。例え私から見た彼が被害者であれ、世間から見た彼は加害者で。例え私から見た彼が守るべき存在だとしても、世間から見た彼はあくまで遠ざけるべき存在で。例え私から見た彼が正義だとしても、世間から見た彼は悪であるから。
確かにNは、プラズマ団の王であったことに違いはないのだから。



 頬に冷たいものが触れた。水のようなものだった。いったいどこから落ちてきたのだろうと目を開き、空を仰ぐ。
嗚呼、無知でありたかった。彼が王であったことも、そんな彼がここには来ないであろうことも悟らずに、ただ彼を待ち続けていたかった。
知っているから、気付いてしまったから、私は昨夜感じた感情をすべて、捨てなくてはならないのだろうか。諦めて、この恋心に蓋を閉じ、そうして他の人に恋をするのだろうか。
あの寂しくも、暖かい、優しい人を捨てて。






 あれから六年の時が経った。
私は彼が消えたあの日、彼を探し続けると決意した。
そうして当時十七歳だった私は、その次の年にスクールを卒業し、ミュージカルホール専属のデザイナーとしてポケモンたちの衣装を作りながら、消息を絶った彼を懸命に探す未来を選んだ。
だが私は一年、二年と時間が経つにつれ、彼を探すことを諦めるようになっていった。(そこには多くの葛藤があったのだが、それは敢えて語らないでおく)
そして彼が居なくなって五年目の春、彼を探すことを諦めた私は以前からアピールされていたホウエン地方から来たと言うとある男性と、結婚を前提に付き合うことにしたのだ。

 あの人は魅力溢れる素敵な男性だった。
気が利く上に料理を始めとした家事の類いを完璧にこなし、仕事人であった私を持ち前の優しさで包んでくれる人だった。
人肌が恋しいく寂しくなったときは私の名前を呼び、優しく抱き締めてくれた。
仕事が上手くいかず、悔しく、悲しいときには美味しい食事を準備して、そっと寄り添ってくれた。
本当に、本当に、素敵な男性であった。
あの人は悟い人でもあったから、私の心が自分に向いて居ないことにすぐ気付いた。しかしあの人は何も言わず、私を優しく支えてくれていた。
──どこか私と同じ臭いを感じさせながらも。

「君は、僕と居るべきじゃない」

「君は、"彼"を探すべきだ」

けれどある日あの人はついに吐いてしまった。あの人は優しい人だけど強い人ではなかったから。本当はいつまでも"彼"を探し続けている私に、疲れたといった様子でそう囁き、私の元から去っていった。

「どうか、君は、幸せに生きてくれないか」

「────必ず、」

あの人は今、生きて幸せに過ごしているのだろうか。それとも既に亡くなっていて、それでいて幸せに過ごしているのだろうか。死後の世界や魂など、スピリチュアルなことは信じていないが、なぜか私は後者のほうだろうと確信していた。なんとなく、けれど彼はそう言う人だったから。



 あの人とも別れ、再び仕事と彼を探すことを両立させる毎日が訪れた。
 あの日、彼が居なくなって七年後、まだ肌寒い春の時である。

 今日は一段と寒い日だ、と朝一番に思うほど冷えた雨の日だった。
六時に目を覚まし、洗面所に向かい、台所へ向かう。そうして朝食を済ませ、一時間後、職場であるミュージカルホールへ行く。
途中、軽く目にした新聞の日付を見て七年前の今日、彼が居なくなった日だと気付いた。
「Nは、生きてるのかしら」
生きてるのなら、もう一度、一度だけで良いから、心の底から彼に会いたいと強く思う。
あの日ように何かがほんのりと私の頬を濡らした。



「先輩、お先、失礼します」

「お疲れ様〜」

針を片手にサテン生地のリボンを縫い上げる先輩に一声かけて、作業場を出る。
特に修羅場でもない今日は、仕事が無いに近く、こうして定時ぴったりに帰ることが出来た。雨も降っているし、今日は重い荷物を持って帰る気分にはならないな、と最近オープンしたばかりのレストランに向かおうと足を向ける。
そうして傘立てに放置してある傘を取り、疲れたなあとコンクリートの地面を見つめながら歩みを進めた。




 十七歳だった私は、変わってしまった今の私を見て、なんと言うだろうか。そう思い、視線を足元に向けた。仕事用のおとなしめなワンピースに、黒のストッキングで包まれた足。そして身に付けているものの中で唯一派手な色をした古くなった赤いパンプスが視界に入る。
もうあの頃好んでいたレースをあしらったワンピースを着ることは無いのだろう。もうあの頃好んでいたピンクのバッグを持つことも無いだろう。
それは趣味が変わったせいなのか、大人になったせいなのか、正直よく分かっていないけれど。
 傘を叩く雨の音を心地好く感じながら歩いていた。
──ふいに赤いパンプスの先に、真っ白なスニーカーの爪先が見えた。見覚えのあるそれに、私の体は反射的に固まってしまう。

「久しぶり」

傘より上の位置から、久しく聞いてない、ずっとずっと探していた声が降る。

「……七年振りよ。」

「正確には七年と一日振り」

「馬鹿、どちらにしても遅すぎる……何年待ったのよ……」

そう言うと一時は諦めていた女が何を言うと言わんばかりのため息が上から降ってきた。

──良かった、変わってない……。

「えぬ、」

震える唇から小さく漏れた彼の名前。
それと同時に彼も私の名前を漏らした。

「いい加減、君の顔が見たいよ」

その声に、そう言えば傘で顔が隠れたままだったことを思い出す。
そしてそっと傘を持ち上げ視界を開けた。
七年振りに見た彼の顔は、変わらぬ優しい笑みを浮かべていて、

「ねえ、ミュージカル、一緒に観に行こうか」

囁かれた言葉はずっとずっと、待ち望んでいたもので、

「駄目とは言わせないけどね」

「ばか……!」

私は傘を投げ出し、愛しい愛しい彼を抱きしめた。





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