story | ナノ
いつもひょうひょうとしていて、掴み所のない綾部先輩が今日は妙に鬱々とした雰囲気をさらけ出していた。
この人が苛立ち以外の感情を態度に表すのは珍しいと、気になって後ろからそろりと近寄ると、先輩は勢いよくこちらを振り返り、びいどろみたいな大きな目を少し潤ませながら弱々しくわたしを抱き寄せた。
「今夜、空けてて。慰められに行くから」
「……はい」
──何かあったな、これは。
ぼんやりと頭の片隅で考える。どうしてこんなに情緒が不安定なのだろう。
卒業された先輩方の誰かが亡くなったのだろうか、それとも……。
抱き寄せられたとき、ほんのり香った薬の臭いに、考えたくもない最悪なことが頭を過り、そうして塵を掃き捨てるように考えることを止めた。
「先輩。今夜しっかり、部屋で待ってますね」
多分わたしは今、静かに先輩を支えるべきなのだろう。そう思いそうっと先輩の背に腕を回す。
先輩は、小さく、弱々しく、わたしの名前を呟いた。
学園は今日も平和にまわっていた。
三年は組のよい子たちは、今日も土井先生の胃を痛めさせ、五年ろ組の迷子コンビは裏々々々山で元気に歩いていたらしい。くのいち教室の皆は保健委員長代理のあの人の名前をまた思い出せていなかった。
しかし、体育委員長と会計委員長は喧嘩もせず、次の実習がどうのと深刻そうに話していたらしい。
そういえば火薬委員長のあの人は、普通くのたまを見付けては彼女たちの髪の毛を弄っているのに、くのたまにはちらりと視線を寄越すだけだったとも聞いた。
今日は六年生の皆が変だ。
恐らく、その原因の中心には綾部先輩が居て、それはあまり良いことではないのだろう。
綾部先輩、綾部喜八郎先輩。
びいどろのような綺麗な目をしたわたしの先輩。
きっともう、駄目なんだろうなあ。
大雑把に引いていた布団の上に倒れ込むと、見慣れた板目が視界に入り、けれどもそれはすぐにぼやけてしまった。
「何人にばれてると思う?」
先輩の気配を感じた。
どこからか部屋に入った綾部先輩は、入ってくるなり寝転がっていたわたしの上に跨がり、ぽたりとびいどろから涙を溢す。
「分かりませんけど、わたしはさっき会ったときに」
「……かなしい」
平坦な声だった。素直に自分の気持ちを吐いているようだし、わたしの気持ちを確かめているようにも聞こえた。
「ねえ、先輩」
「なあに」
びいどろからはたくさんの涙が溢れだす。
ただわたしはそれを見ていることしか出来ない。
ただ先輩を見守ることしか出来ない。
「今夜は、たくさん。お話しましょうか」
わたしの不安は杞憂では済まなかった。さっきの薬の臭いは気のせいではなくて、先輩は取り返しのつかない大きな怪我を負ってしまい、先生方にに忍の道を諦めるしかないと言われたらしい。
いや、正確にはトラパーとしての道を諦めるように、と言われたようだ。
蛸壷を掘ることが出来ないほど、腱を痛めたんだ、と綾部先輩は途切れ途切れに呟いた。
「やめるんですか」
すると、綾部先輩は眉を寄せ、またびいどろから涙を溢れ出させる。
「やめるよ」
聞いてから馬鹿だなと思った。
分かりきったことを、わたしは何を聞いたのだろう。
多分、先輩は春を待たず、この学園を去るつもりで、多分、先輩は忍になる夢を忘れるつもりなのだろう。
だから彼はわたしにすがりつき、たくさんの涙を流している。
だから彼の仲間は戸惑っていた。
分かりきっていたのに、なんてことを聞いたのだろうか。
けど、ただの憶測に綾部先輩から言われた事実が加わったことで、不思議とわたしは素直にそれを受け入れることが出来たのだ。
「先輩、わたしかなしいです」
今度ははっきりと、薬品の臭いが鼻を付く。
泣かないように努めていたのに、目がかあっと熱くなってしまい、どうしようもなくふがいな気持ちになって、鼻の奥までつんと痛む。
かなしいです。と伝えたかった二回目の呟きは、無理矢理飲み込むしかなかった。
先輩の巣立ちは、桜なんかまだ咲かない、冷たい風が肌をつんざくような寒い日のことだった。
最後の別れに来るからと言った先輩を自室で静かに待っているとすっと襖が開く音がして見知った気配を察する。
「おはようございます。綾部喜八郎先輩」
「おやまあ、おはよう。
まったく、そんなに畏まらなくて良いのに」
「そんなこと言って、今畏まらないといつ畏まるんですか」
遠くで始業の鐘が鳴った。
綾部先輩が居ない学園が回り始めた合図。
「先輩。先輩」
瞬間、泡のようにわたしの胸に溜まっていた気持ちが弾けた。
先輩に会えなくなる事実が、刃物になってわたしの心をめちゃくちゃにする。
そのなかにはたくさんの先輩が恋しい、愛しいという気持ちが詰まっているのに。
それでも、それでも。
最初に薬の臭いを感じたときから悟っていたのに。先輩の口から怪我のことを聞いたときにはっきりと分かっていたのに。
けれどもわたしは分かっていなかった。綾部先輩が他の先輩方と一緒に学園を去れない本当の意味を。
「先輩、離れたくないんです。先輩と、まだ、繋がっていたいんです」
綾部先輩がこうして居なくなると言うことはこれから先、もうわたしたちの道はすれ違えないことを暗に意味しているのだ。
お互い忍の道を選ぶのなら、まだ交われたかもしれない道も、もう。
「嫌なんです。嫌なんです。好きです、先輩が。先輩じゃないと駄目なんです」
わたしは綾部先輩を追うことを目標にしていた。わたしが本気でくのいちを目指そうとしたのもこの人が居たから。
いつもいつも、何を考えているのかわからないびいどろみたいな目の奥にある思慮深さに惹かれていた。
だから少しでも近付けるように、わざと大人ぶって強がっていた。
今のわたしは、先輩によって作られたと言っても過言じゃない。
わたしは綾部先輩を慕っている。それは尊敬からでもあるし恋慕からでもあるし恩愛からでもあった。
綾部先輩はわたしの全てなのに。
これから先、先輩と交われない。先輩が居ないわたしの未来が来るなんて、そんなもの。
耐えられるわけがないのだ、最初から。
「ねえ、なまえ」
今度はわたしがぼろぼろに泣き崩れ、あの日とはすっかり立場が変わってしまった。
先輩、先輩、とぐずり続けるわたしに耐え兼ねたであろう先輩は小さな小さな溜め息を吐く。
きっとちょっぴり苛立ちを交えた困惑気味な表情をしているに違いない。
そう思うと、更にさらに涙が込み上げて来る。
──わたしは恋慕う人に最後まで追い付けなかったのだ。
「なまえ。もう……、あまり泣かないで聞いてよね」
「はい、あやべせんぱい……」
ごしごしと袂で目元の涙を拭った。
潤む視界で少し見えた綾部先輩はやっぱり少しだけ苛立ちを交えた困惑気味な表情をしていた。
「やっと見てくれた」
「だってぇ……」
「まあ、最後の最後まで格好つかない子だねえ」
ゆっくりと綾部先輩がわたしに手を差し伸べる。
けど、わたしはそれを掴む勇気がなくて、どうしても躊躇ってしまう。
「おいで、なまえ」
そんな気持ちに気付いた先輩は、無理矢理わたしの右の手を取ると力強く自らの元へ引き寄せた。
「せんぱっ、腕!」
「大丈夫、だからねぇ、話を聞いて」
どくどくと先輩の血が全身に流れている音が聞こえる。随分と大きく流れるそれに先輩も平常心ではないことを感じさせられた。
しばらく二人、動かずに、話さずに、体を寄せ合い沈黙を守る。
やがて落ち着いた頃、先輩はわたしの名前を呼ぶと静かに語りかけるように口を開いた。
「僕はお前が好きだよ。
お前には僕の分までこの道で生きて欲しいんだ。
良いことなんて少ない生き方だけど。
でもねえ、僕は怖いの。お前が僕を忘れることが。誰かに僕の夢を忘れられることが。
分かるでしょ?なまえなら。ずっと見てきた綾部喜八郎の気持ちが。
だから、だから、僕を追いかけるような真似だけは絶対にしちゃ駄目だよ。
忍だった僕を殺さないで。
分かった?なまえ。お前とお前の夢はぶれずに有りのままで居るんだよ」
最後だからか、今日の綾部先輩はいつもよりずっと饒舌だった。
わたしは少し落ち着いた頭で先輩の言葉の一つ一つを飲み込むようにしっかりと消化していく。
先輩を追い掛けてきたこの五年間。もう二度と来ない時間。
今でも思いもしなかった別れに悲しくて、苦しくて、胸が張り裂けそうで。
だけども時間は過ぎていく。
「卒業だよ」
僕も、お前も。
わたしと先輩の卒業は桜なんかまだ咲かない。いつか望んだ春を無くしたかなしい朝のことだった。
また会う日まで。様に提出