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「一之瀬君…」

麻酔で眠っている一之瀬君の頬に触れる。一之瀬君の頬っぺたは冷たくて、でも軟らかくて。まるで死んだばかりの人の様。
でも小さく上下している胸を見る限り、それは杞憂だと分かった。
小さく、小さく寝息が聞こえる病室。まだ朝早い所為か聞こえる物音は少ない。いつ一之瀬君が消えてもおかしくないくらい静かだ。

「秋ちゃん秋ちゃんって、追いかけてばっかりで。土門君にも頼らなくちゃ。隣に居る人は秋ちゃんだけじゃないでしょ」

こうも静かだとマイナスな思考に陥りそうだったから私は一之瀬君に向けて一之瀬君に対しての愚痴を吐く。一之瀬君は人を頼らないタイプの人。だから自分で全部溜め込んで吐き出せないまま爆発するんだ。馬鹿みたいに。

「ダメだよ、そんな事したら。秋ちゃんも土門君もキャプテンもディランも監督も皆みんな傷つくよ」

いつも私は二三歩下がった所でそんな一之瀬君を見ていた。頼って、とか話を聞くよ。何て事言えるわけが無かった。
今回もそのパターン。ぼろぼろになりかけている一之瀬君の体の事を知っているのに見て見ぬ振りで一之瀬君と接していた。
練習控えなよ、監督とキャプテンにもきちんと話さないと。そんな一言もかけられずただただ二三歩下がったいつもの場所に居た。
こんなとき秋ちゃんなら何て言うのかな。一之瀬君の気持ちを汲み取って何も言わないのかな。やめてって試合をしないでって言うのかな。

「一之瀬君は、いつも私に背中を向けるよね。本当面白いくらいに」

私が二三歩下がってみている所為で私は一之瀬君の背中しか見たこと無い。並んだことが一度も無い。どんなにハグをしてもキスをしても、一之瀬君は私の隣に並んでくれない。私だって勇気があれば並ぶことくらいできるのに。一之瀬君は気付いてくれないんだ。私がいつも隣に居るとばかりに思ってるんだ。だって心では秋ちゃんを追いかけてるから。本当の私を、見たことが無いんだ。

結局一之瀬君に愚痴を言ってもマイナス思考になってしまった。こんなのじゃダメなのに。
「一之瀬君が隣に居ない事と私が二三歩下がっている事はお互いに非がある所為だと思うんだ。」

少しだけ、一之瀬君の体がピクリと動いた。心なしか睫毛も不規則に動き出したみたい。


「何のために、私たちは付き合ってるの?」

また、ピクリと動いた、あぁ起きたんだね。

「おはよう、一之瀬君」

ふと目を開けた一之瀬君。ふにふにして冷たい頬っぺたには涙が流れている。

「起きたばっかりなのに突然ごめんね、別れようよ」

彼と同じように私の頬っぺたにも涙が流れている。

落ちた林檎はもう売れない


私は林檎。一之瀬君は林檎の木。腐って落ちた林檎なんて木は興味が無いはずで。
きっと一之瀬君は私の事はすぐに忘れるんだろう。

小さく首を動かした一之瀬君を見て私はそう思った。





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