熱病と共に

「スピッツくん」

 そう言っておっとり笑うあの人が好きだった。
 あの夏が、蘇る。空気やら温度やら匂いやら全部ひっくるめて、鮮やかに。俺の前髪を、ぬるい風がふわりとさらった。殺人的な気温の炎天下のグラウンド。真っ青な空には、絵の具のチューブからそのまま出したみたいな白さの雲が湧いている。
 うだるような暑さのなか、ジャグを引きずるように運んでいたあの人の華奢な二の腕とか、汗で首筋に張り付いた繊細な髪のアーチだとか、ただ黙って話を聞いてくれた時の隣から感じた優しい空気感だとか。
 俺は今、なぜかグラウンドにいた。そして目の前では、あの人が笑っている。一年前と変わらない笑顔で、一年前と変わらない指定ジャージを着て。が、俺は不思議なことにこれは夢なんだと理解していた。きっと明晰夢ってやつだろ。嬉しさ半分、がっかり半分。
 そんなことを思いながらなおも向き合っていると、場面が急に暗転した。
 意識が、覚醒とまどろみの間を頼りなく漂う。まるで船の上にいるようなゆらゆらした心許ない感覚。すると、今度は本当にボートの上にいた。公園の池に浮かんでいるような安っぽい小さなボートに、俺たち二人だけ。しかしやはり、あの人はジャージのままだった。
 俺は岸の方を見る。このままオールを漕いで岸へ向かえば、覚醒へと進むことがなんとなくわかっていたから、もう少しここにいたいと思った。
 たとえ夢でもかまわねぇ。
 現実ではもう会うことは叶わないあの人が、夢の中であろうと姿を見せてくれたからだ。
 しかし、暑い。さっきのグラウンドが暑かったのはわかるが、ここの気温はどうだ。水の上なのに異常に暑い。どうせ都合のいい夢だからあの人だけでいいのに、おまけみたいにうだるような暑さがまとわりつく。けどあの人はあいかわらず穏やかに笑っていた。思わず、暑くねぇのかなんて心配してしまう。
 が、その時、対岸からたぷんと小波がきた。それを合図に、ボートは不思議な引力に導かれるように岸へと引っ張られていく。
 もっとここにいたいのに、何か強い力がかかったように抗えない。ボートがどんどん引っぱられていった。
 ……もっとここにいさせてくれ。
 あの人が困ったように笑った。俺も情けなく笑ってから、オールを漕いで必死に抵抗する。
 だが、俺の願いもむなしく、急にざばんと大きな波がきた。
 するとあの人は悲しそうに目を伏せた。
 ……ちくしょう。

「覚めんな!」


 叫んで目を開けると、そこに白い天井があった。瞬きを数度繰り返すと、ぼんやりした意識が徐々にはっきりしてくる。マヌケなことに、俺は自分の大声で目が覚めたらしい。無意識下でも俺の声はデケェってことだ。

「……つーかなんだぁ? この異常な暑さ」

 上体を起こすと、室内からむっとするような暑さを感じた。枕元の目覚まし時計は、きっちり五時をさしている。起きるには早く、二度寝するには中途半端な時刻だ。
 寝ぼけまなこのまま、階段づたいにベッドの下へ降りる。全身にじっとり汗をかいていた。Tシャツの裾をぱたぱたさせて腹に風を送りながら、クーラーへ視線をやると、powerのランプが消えていた。おおかたタイマーの設定時間を間違えたんだろう。

「くっそ、暑くて起きちまったじゃねーか」

 一人悪態をつくも、タイマーを設定したであろう下級生は、まだ気持ちよさそうに夢の中だ。
 二度寝したらヤバそうな気がしたので、仕方なくそっとドアを開け外に出た。
 夏の日の出は早い。早朝の空はもうすでに白みがかっていた。空気を入れ替えるみたいに、朝の新鮮な空気を吸って、吐く。軽く伸びをする。
 大丈夫。昨日の試合の疲れは全く残っていない。
 この夏の初戦。シードのうちは二回戦からの試合だった。丹波はあんな状態だが、一年生は意外に堂々とプレーしてたし、滑り出しは上々だ。
 俺は近くのベンチに腰掛けた。次第にその存在を主張する太陽は、午後の暑さを否応なしに約束させる。日が昇って新しい一日がはじまるのをぼぅっと見届けながら、俺は昨日の夢を反芻していた。
 夕べ、あの人が夢に出てきた。
 どうせならもっと見ていたかったのに、うまくいかねぇもんだ。
 一人ため息をついて思う。当然のことながらあの人は生きているから、会いにいこうと思えば会いに行ける。ただそのための理由も、勇気も、俺には一ミリなかった。
 はぁ、ポンと目の前に現れねぇかなぁ……。


 そんなことを思い悩んでいたのは数時間前。
 朝練を終えた俺は、いつものように食堂で朝飯をかっこんでいた。きぬさやと豆腐の味噌汁に、きゅうりとワカメの酢の物。焼鮭。それからひたすら飯、飯、飯。朝から豪勢なメニューだが、俺らにとっちゃガソリンみたいなものだ。食わなければ身体がもたない。
 俺がずずっと味噌汁をすすっていると、

「何かいいことあった?」

 亮介が鮭の身を崩しながら俺に視線を寄越す。

「別に……」
「ふぅん。ずいぶんしまりのない顔してるから」
「ほっとけ!」

 意味深に笑う亮介に、これ以上反論する気も起きず、俺は飯碗を持って立ち上がる。

「今日はペース早いじゃん」
「まぁな」

 適当に濁して炊飯器の方へ向かった。いつも一番におかわりする増子より早いとか、俺どんだけだよ。
 心の中でひとりごちて思う。俺にとってあの夢がいいのか悪いのかはわからない。ただ、やはり顔を見られたことはうれしく、少しやる気になったのは事実だ。
 とにかくまずは食うぞ、と気合を入れ飯をつごうとした時、炊飯器の置いてあるテーブルの近くに割烹着のおばちゃんを見つけた。
 あ? こんな人いたっけか。
 ふと首をひねる。食堂のおばちゃんは皆、おおらかで優しい人ばかりだ。ついでに言うと見た目もおおらかーー直接的に言うとどやされるーーな人ばかりなんだけど、新入りだろうか。他のおばちゃんと同じく割烹着を着て、頭に三角巾をつけていたが、すっと伸びたまっすぐな背中からは若さを感じた。上こそもっさりした格好だが、下は細身のデニムに包まれた脚がすらりと伸びている。夏休みだから食堂も増員したのかもしれない。その人は醤油さしに醤油を補充している最中だったが、動作はどことなくぎこちない。
 俺はこほんと一つ咳ばらいをして、その背中に声をかけた。

「おかわりお願いします!」
「はい!」

 よく通る声が気持ち良い。
 俺が飯碗を差し出すと、その人がくるりと振り返った。

「あ、スピッツくん?」
「……は?……」
「久しぶり!」

 今の俺はきっと、テレビのリモコンの停止ボタンを押されたみたいな状態だっただろう。しばらくその顔を見て、動けなかった。
 これはもしかして夢の続きか? だとしたもう起きなきゃヤベェんじゃねぇか?
 そう疑って顎のヒゲをちょいと引っ張ってみる。
 痛ぇ……。地味に痛ぇ。これは本物の痛みだ。

「何してるの?」

 夢にまで見たあの人が不思議そうに俺の顔をのぞきこむ。すると、今朝の暑さがぶり返したみたいに全身がカッと熱を持ち始めた。
 これは夢でもなんでもねぇ、現実だ。
 自分に言い聞かせて、控えめに深呼吸。
 久しぶりすぎて何をしゃべっていいのかわかんねぇ。
 言いたいことは山ほどあるはずなのに、喉がからからに渇いていがらっぽい。そして、やっとのことで声を振り絞ったその時ーー

「なまえさ……」
「なまえ先輩!!」

 俺の声をさえぎるように、背後から大きな声が投げられた。振り返ると、声の主は藤原だった。真面目で責任感の強い藤原は、いつも他のマネージャーより少し早めに来る。
 だが今は、落ち着いた性格のこいつらしくなく、ぱぁっと目を輝かせて俺の脇を駆けていった。

「なまえ先輩、なんでここにいるんですか?」
「貴子! 久しぶり!」

 再会を喜ぶように、二人はちょうど胸高さでぱちんとハイタッチをした。

「食堂で働いてたフミさん知ってるでしょ? 」
「はい。でも、先週ぎっくり腰になって休んでるって聞いてますけど」
「フミさんは私の伯母なの。それで、出られないフミさんの代わりにピンチヒッターで私が来たってわけ。びっくりした?」
「当たり前じゃないですか! 卒業したなまえ先輩がここにいるんですから」
「ごめんごめん。ちょっと驚かせたくって」

 へへっと笑うなまえさんに、藤原は「もー」と文句を言いつつうれしそうだ。
 すると、このやりとりを見ていた他の連中が続々と押しかけてきた。まずキャプテンである哲が、すっと前に出る。

「なまえさん、お久しぶりです」
「あ、結城くん。しばらく見ない間にキャプテンが板についてきたね。朝練見てたよ」
「自分はまだまだです……」
「またまた、そんな謙遜を」

 哲が真面目くさったように首を振る。

「登場の仕方がなまえさんらしいですね」

 クスリと笑って言ったのは亮介だ。

「小湊くん! あ、弟さん見たよ。すごい良いスジしてるね」
「俺からしたらまだまだですけどね」
「はは、あいかわらず厳しいなぁ」

 最初は数人だったのが、徐々に人数が増えてその輪が広がっていく。そうだ、なまえさんの周りはいつも人が絶えなかった。
 何も知らずにポカンとした顔で席に着いているのは、なまえさんと入れ違いに入ってきた一年生だけだ。
 なまえさんは俺たちの一コ上の先輩で、東さんたち世代のマネージャーだ。今年の春卒業したばかりで、そんなに経っていないはずなのにすでに懐かしく感じた。
 今やもう、なまえさんの周りには再会に喜ぶ二、三年生で溢れていた。途中から夏川や梅本らも到着し、女子特有の高い声で盛り上がる。
 ほどなくして、その輪の中から出てきた亮介が俺の隣へ並んだ。

「……純、鼻の下伸びまくってる」
「うっせ!」

 強がってみたものの、今の俺の顔はきっと亮介の指摘どおりだろう。俺はその輪を眺めながら、熱に浮かされたような頭で思った。
 正夢ってほんとあんだなって。

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