未来の彼がやってきた!

「樹」

 私がそう呼ぶと、彼は決まっていつも、一瞬悲しげに目を伏せた。何故か。私にはその原因がなんとなくわかっていた。

「なまえさん」

 樹は、私のことをそう呼んだ。
 「『さん』なんかいらないから」と言っても、彼は首を振って、自分はまだまだだからと、おかしな謙遜をする。その姿は苛立たしくもあり、いじらしくもあり、愛おしくもある。
 私は現在は高校三年生で、樹の二学年上。彼はいわゆる“年下”だった。「さん」付けで呼ばれると、その事実を明確に突きつけられているようで、少し悲しかった。
 彼が頼りないと感じるわずかな年の差は、大人になればきっと、ほとんど気にならなくなるに決まってる。けれど私がそれを言い聞かせたところで、真の意味で彼を諭すことなどできはしないのだろう。

「年下って頼りなくない?」

 先日、久しぶり会った友人に言われた言葉だった。彼女が今付き合っているのは大学生で、一度年上と付き合うと、学校の男子がひどく幼く見えるのだという。
 私は年上と付き合ったことがないから、その真意のほどはわからないけれども、きっとそうなんだろう。でも、私は樹にそんなものは求めていない。ただ、手のひらに乗るほどの小さなその願いを、聞き届けてくれるだけでいいのに。
 共に過ごしていると見え隠れする小さな遠慮みたいなものが、時折、たまらないほど許せなくなる。でもそれは彼のせいではないし、元来の優しい性格からくるものだということはわかっていた。
 だから私は自分が許せなかった。樹にそんな風に思わせてしまう自分を、許せなかった。

 ▽

 書店の匂いが好きだ。それに包まれると、なんとなく心が落ち着いてくる気がする。
 その文庫本を手に取ったのは、きっと書店に入る前に道で猫とすれ違ったせいだろう。表紙の猫のイラストにすぐ目を奪われた。それと樹が、樹たちが特別な思いを寄せる「夏」という言葉が、タイトルに入っていたから。言わずと知れた名作だから、作者名とタイトルは把握していたものの、あらすじまでは知らなかった。いつもは書店の隅で主のように当たり前に存在して、静かに埃をかぶっているだけであろうそれが、フェアのためか珍しく平積みされていた。
 ――これにしよう。私はなんとなく不思議な縁を感じて、迷うことなく手に取りレジへ向かった。

 日曜日の駅前は人で溢れ、天気がいいせいか一様に皆、幸福そうに見える。
 私は小さなトートバッグに先ほど購入した文庫本を入れ、一人歩いていた。あそこの公園ならきっと、今の時間でも落ち着いて本が読めるはずだ。
 空を見上げる。吸い込まれそうなほど、高く澄みきった青。きっと今頃、樹もこの空の下で汗を流しているんだろう。
 今日がオフなのだと話してくれた樹に、けれど私はすぐさま、言った。

「じゃあ自主練だね」

 悲しげに目を伏せた彼は、はい、とだけ。
 そんな顔をさせたくないから言ったのに、なぜそんな顔をするの。
 寸前までせり上がった言葉をぐっと飲み下す。わかっていたはずなのに。また、息苦しい水の中で、小さな遠慮という気泡がぽこりと生まれる。また、私が名前で呼ばれる日を遠ざける。
 公園に着き、陽だまりをたっぷり吸い込んだ乾いたベンチに腰掛けると、スカート越しに温かさが伝わってきた。周囲には、きゃっきゃとはしゃぐ子供と、それを見守る母親。犬の散歩をする男性。離れたベンチで新聞を読む老人。この公園は緑が豊かで広いから、人が多くても騒がしくない。設置された温かみのある木のベンチは、一つ一つが離れた配置になっていた。
 どんなお話なんだろう。さっそく買ったばかりの文庫を開く。新しい世界の扉を開けるように。



「――隣、いいですか?」

 突然、隣から落ち着いた男性の声が降ってきた。ぷつりと、世界が一旦閉ざされる。読み始めてから何分くらい経っただろう。

「はい、どうぞ」

 衣擦れの音と、ベンチがギシッと鳴る音。それらを聞きながら、ふと隣へ視線をやった瞬間。あ、と漏れそうになる声を、寸前で飲み込んだ。
 「樹」と。思わず言ってしまいそうになるほど、隣に座った彼は、横顔が樹そっくりだった。直前で思いとどまったのは、その見た目がどう見ても二十代半ばあたりに思えたからだ。けれど彼の纏う雰囲気は、樹の持つそれと限りなく近い気がした。とても不思議なことに。
 彼は膝の上で軽く手を組んで、目の前の景色をぼうっと眺めていた。
 私は視線だけで周囲のベンチを見回す。いくつか空いているところはあるのに、なぜここに座ったのだろう。そもそも彼は一体――

「ハインラインですか?」
「え......」

 彼がゆっくりこちらに顔を向けた。短い前髪の下の三白眼と、その印象を和らげるやや太めの眉。正面から見ると、彼はますます樹に似ていた。
 私は唐突にかけられた言葉につかの間困惑するも、膝の上の文庫本だと思い至り、

「お好きなんですか?」

 無意識にそう応えていた。
 すると彼は懐かしそうに目を細めて、文庫本に視線を落とした。

「高校の時に憧れてた人が、好きだったんです」
「ええ」
「俺自身はそういうの全く読まないんですけど。でもそれだけは読みました」
「そうだったんですか。......おもしろかったですか?」

 すると彼は一瞬口をつぐみ、ひと呼吸おいてから言った。

「......すいません。ちょっと見栄を張りました。本当は最後まで読んでないんです」
「......なぜですか?」
「その時は毎日きつい練習してたから、途中で寝ちゃうことが多くて。半分くらいまで読んで断念しました」

 練習。何の練習だろう。
 ――野球ですか?
 寸前まで出かかった言葉を我慢した。自分でも理由はわからない。
 それにしても、本のおもしろさなんか人それぞれだから適当に答えればいいのに、眉を下げて謝る姿は、どことなく彼の人の良さを思わせた。
 彼は柔らかく微笑んで、

「ほら、憧れの人と話合わせたくて同じ本読んじゃう、みたいな」
「わかります。でも続かなかったんですよね」
「はい。俺は、もっとこう、俗っぽいものが好きで」
「ええ。『でも、それを知られるのが恥ずかしい』」

 言葉を引き継ぐと、彼は恥ずかしそうにはにかんだ。

「......はい」

 樹は以前、自分はとあるアイドルグループの女の子のことが好きなのだと、決死の覚悟で告白してきたことがあった。きっと私が引いたりするとでも思ったんだろう。別に、私にも好きな芸能人くらいいるし、そんなことはなんでもないことだった。それを伝えると、樹が心底安心したような顔をしたから、むしろそちらの方が驚いたくらいだ。
 私は手元の文庫本をそっと撫でた。

「これ。あらすじ知らなくて買ったんですけど、SFものだったんですね」
「ああ、俺も表紙とタイトルで想像してたから、中身読んでびっくりしました」
「――未来から彼がやって来るなんて、なかなかロマンチックですよね」

 反応を確かめるために、彼の様子をそっと盗み見たけれど、

「そうですね。でもあそこまでの執念、ちょっと怖いなぁとも思います」

 特に何かを示すことはなかった。
 隣へひそかに視線をやって、彼は一体何者なんだろうと考える。先ほどまでタイムスリップものを読んでいたことで、現在の目の前での不思議な出来事に私はいささか興奮していた。やっぱり彼は樹そっくりだ。十年後の樹、と言えばしっくりくる。だけど私は一体、彼に何を期待しているんだろう。そもそも現実にそんなこと起きるはずがないのに。
 しばしの沈黙のあと、堪えきれずに口を開いた。

「やり直したい過去とか、あります?」

 そうっと爆弾を投げ込んだ気分だった。
 見ず知らずの人にこんな失礼なことを尋ねるなんて、普段の自分ならありえないのに、彼があまりにも樹に似ていたから思わず口走ってしまった。小説に感化されたせいなのかもしれない。
 そうすると、意外にも彼は咎めることなく、そうだなぁ、と斜め上を見てのんきに考え込んだ。それから、ぽつりぽつりと静かに話し始めた。

「俺、高校の時スポーツしてて。ここらじゃ名門と言われる学校に入ったんです」
「はい」
「中学の時それなりに結果出してたから、なんとかなるだろうって思ってたんですよね。......でもそれが全然ダメで。俺と同じポジションの先輩は、プレーはもちろんリーダーシップもある人で全く敵わないんです」

 一度深く瞬きをして、続ける。

「一緒に組んだ相手は、ワガママでプライド高くて振り回されっぱなしだし。まぁでも、実力は確かなんだけど」

 私は相槌を打ってから思わず笑った。話の中の人物たちに、大いに心当たりがあったから。

「ただ追いつきたくて。そりゃもう毎日なりふり構わず必死でした。それとその頃、付き合ってる人がいたんですけど......」

 その時、コロコロと。どこからともなく目の前にゴムボールが転がってきた。彼はすっと腕を伸ばしてその動きを止める。
 顔を上げると、少し離れたところに母親と五、六歳くらいの男の子がいた。男の子はボールを投げてくれと言わんばかりに、こちらに両手を振っていた。彼がすぐにボールを拾い上げて、男の子に向かってゆっくり下投げすると、それはゆるく放物線を描いて、無事手の中に収まる。
 彼の半袖のシャツから覗く腕は逞しく、現在グラウンドで汗を流す樹のそれを思わせた。
 それから、私たちは手を振って親子を見送った。

「えっと、どこまで話しましたっけ......っていうか退屈じゃないですか? こんな話」

 私は首を振って先を促す。
 彼は頷いて再び話し始めた。

「そう、その時付き合ってた人がいて。まぁ、最初に言った憧れの人にあたるんですけど」
「ああ、小説の人」
「そう、小説の人。その人には、追いつきたいというか、釣り合うようになりたかったんですよね。あの時の自分のこと今思い出すと、必死すぎて、うわぁってなります」
「そんなものですか?」
「うん、まぁ、歳取るとね」
「まだお若いじゃないですか」

 彼は、はは、と控えめに笑った。
 フォローしたつもりなのに、軽くかわされた気分だった。

「長々と引っ張っちゃいましたけど、結局、うわぁって過去でも今思うとね、大切なんです。だから俺は、やり直さなくていいかな」
「そう......ですか」

 公園の木々が、爽やかな風を受けて一斉にザワザワ鳴った。それが収まってから、私は口を開いた。

「......私の話も、少しいいですか?」

 彼が、はい、と微笑む。

「今付き合ってる人が、ちょうどそんな感じなんです。遠慮とか、しなくていいのに。いつも気を遣ってばかりで」
「そうですね。気持ちがわかるから、俺にも何とも言えないですけど......。そうだな、もっと思ったことを素直に伝えてみたらいいんじゃないかな」
「素直に、ですか」
「そう」

 唐突に、年上と付き合うってこんな感じか、と思った。頼りがいがある。落ち着いている。相談したら正しいアドバイスをくれる。けれど。けれど私は――
 その時突然、トートバッグの中の携帯が震えた。隣の彼は目線だけでどうぞと促す。私はディスプレイに表示された“樹”の名前を見た瞬間、はやる気持ちで通話ボタンを押した。

『なまえさん? 突然すいません。今、時間ありますか?』
「樹? どうしたの?」
『えっと、今日は自主練なんですけど、ちょっとだけ時間ができて。それで、少し会えないかなと思って』
「............」
『......すいません、迷惑でしたよね。忘れてください』
「――今、あの公園にいるの」
『え?』
「今すぐ来て。そう、五分以内に」
『五分っ?!』
「無理ならいいわ」
『っ、もう走ってます!』

 すぐにぷつりと通話が切れた。
 しばらく携帯を見つめたあと隣を見ると、いたずらっぽく笑う彼と目が合った。

「『思ったことを素直に』。さっそく実行しちゃいました」
「うん。それでいいと思います。......でも、あそこから五分なんてかなり厳しいですよ」

 困ったように言う彼に、笑顔だけで応える。彼がなぜ、樹がどこから走ってくるか知っているのか、そんなことはもう気にならなかった。
 しばらく二人でぼぅっと公園の景色を眺めていた。暖かい陽射し。木の葉が揺れる音。時が止まったような空間に、ただ身を委ねる。すると。
 遠くの方でかすかに、「なまえさん!」と呼ぶ声が聞こえた。

「うわ、すごい必死ですね。彼」
「はい。......でも、大好きなんです」

 彼が音もなく立ち上がる。

「俺はもう行きますね」
「はい。お話できて、楽しかったです」

 私の言葉に彼は頷き、踵を返して歩き出した。

 ――じゃあね、なまえさん。

 木々が鳴る音だったのか、それとも。彼の去った方から、私を呼ぶ声が聞こえた気がしたけれど、もう振り返らずに、目の前で「なまえさん」と呼ぶ彼を笑顔で迎えた。


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