落合コーチとマネージャー 2
「なんかの動物みたいですね」
年の瀬もさし迫ったとある午後。誰もいないグラウンドにて。
ベンチに腰掛けた落合コーチは眉を下げ、怪訝そうにこちらを見た。その手は、暖をとるためにストーブへと向けられている。
「私のことか?」
「はい」
私は落合コーチから二人分ほど離れた所に座り、持っていた水筒を逆隣に置いた。ちなみにこの二人分とは、引退した増子先輩二人分くらいを指す。
「その白い耳当て」
「――ああ」
そう言ってコーチは、自身の頭につけた白い耳当てに手をやった。中年のややくたびれた顔立ちには、どことなく可愛らしすぎて不釣り合いなそれ。
「なんかって何の動物?」
「うーん。なんだろう……」
私はしばしの間考えこんだ。白いからウサギとか白クマか。――いや、違う。私は先ほど耳当てを指して動物みたいだと言ってみたものの、よくよく考えてみると全体の印象が動物っぽいのだ。
そう、例えば野球部のジャンバーを着込んでこころもちふっくらしたコーチはどこか、もこもこした冬のスズメを彷彿とさせた。もしくは、元来の重そうな瞼から、明日にでも冬眠を控えた眠たげなクマとか。
「ああ、いいよ。君の言いたいことはだいたいわかったから」
コーチが億劫そうに手を振る。
「以心伝心、なによりです」
私は頷いてストーブに手をかざし、しみじみとした気持ちで呟いた。
「落合コーチの意外なセンスを垣間見た気がします」
「これ選んだの私じゃないよ」
「……え……」
「なにその反応」
「待って待って、今当ててみます。――そう、お母さんでしょう?」
私は、ズバリという風に人差し指をピッと立てた。
けれどすぐにコーチの口許がむすりと歪む。
「何が悲しくて四十過ぎで母親の選んだ耳当てしなきゃならないの」
「えー。じゃあ店員さんとか?」
コーチが緩慢に首を振る。
じゃあ一体誰のセンスだというのだ。
「君は――」
「はい」
「私の歳ではごく当たり前な、とある可能性については思い当たらないのか?」
「……まさか……」
「そのまさか、だ」
いつも眠たげなその目が、珍しくキラリと光った。
しかし、私が「奥さん」と口を開きかけるより先に、その口から、ある衝撃的な事実が告げられた。
「娘だ」
「ええー! 娘?!」
私が驚きのあまり思わず訊き返すと、
「何その『今年一番の驚き!』みたいな顔」
と、コーチがはぶすっとした表情を浮かべた。
「まさかコーチに娘さんがいらっしゃるとは。……っていうかそもそも奥さんいたんですね」
「君はあいかわらず失礼だな」
「コーチ限定です」
「……そう、店には黒と白の耳当てが並んでいてね――」
コーチはどこか遠い目をして語り出した。その視線の先にはきっと、愛する娘がいるに違いない。
「私が黒を選ぶと娘が言うんだ。『そっちは可愛くない』って」
「……はい」
かろうじて返事をしたものの、私の笑いはもう沸点に達しようとしていた。現に、肩がふるふる震えるのを止めることができない。
「なら白を選ぶしかないだろう」
「そう……ですね」
こんな理屈でできたような人でも、年齢を重ねてから恵まれた子宝のため、娘はさぞ可愛いに違いない。ふと、赤ん坊をあやすコーチを想像すると、それは新たな笑いの火種になった。
「いっそ笑ってくれて構わないよ」
「いや……もうすぐ収まりますんで」
ようやく笑いも収まりかけた頃、私は気を取り直すように言った。
「でもほんと、繋がってよかったですね。首」
「全くだ」
秋に片岡監督の辞任が取り止めになり、一時、落合コーチの役職が危ぶまれた。けれど学校側の計らいで、改めてコーチとして迎え入れることになったのだ。
「コーチがシティワークめくり始めた時は、どうなるかと思いました」
「ああ……」
「もしかして、あそこにも行ったんですか?」
コーチは顔を伏せ、こくりと頷いた。ストーブのオレンジ色の光がコーチの頬を照らして、口許の皺をくっきり浮かび上がらせる。こんな不景気な時代、コーチのような年齢で職を失えば再就職は厳しいだろう。
「ただ、建物に入った瞬間足が止まってね……。みーんな悲壮な顔してるんだよ。それがずらりと並んでてね。その時だな、もう少しだけ頑張ってみようと思ったのは」
一介の高校生風情の私には、まだ職探しの大変さというものがいまいちピンとこなかったけれど、きっともの凄くエネルギーの要することだというのはわかる。
私はなんとなくしんみりとした気持ちになり、持ってきた水筒を手繰り寄せた。水筒のカップに自分の分を、ジャグの隣に伏せてあったカップにコーチの分のホットコーヒーを注いだ。キンと冷えた十二月の空気のなか、熱々のそれから、白い湯気が幸せな柔らかさをもって立ちのぼる。
私はコーチにコーヒーを差し出した。
「はい。――改めて、コーチ就任おめでとうございます」
コーチはかすかに目を伏せ、無言でそれを受け取った。お互いに何か見えないものを共有するみたいに、カップにゆっくり口をつける。温かいコーヒーが、冷えた身体に染み渡るように喉を滑り落ちていった。
それから落合コーチはずずっとコーヒーをすすったあと、ほぅっと息をついた。
「ああ、妻が豆から挽いてくれたコーヒーが飲みたいなぁ」
「今すぐそれ返してください」
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