落合コーチとマネージャー 5
春の選抜。青道の記念すべき初戦の朝、バスに乗り込む前に、落合コーチが私に千円札を差し出してきた。当のコーチはあくまで、無言を貫いている。
「……なんですか、これ」
わけがわからない。
「もしかして援助交際ですか? だとしたらあまりにも安い気が」
「そんなわけないだろう」
コーチは憮然として言い放った。
「カレーを買ってきてくれ」
「カレー? カレーって、あのカレーですか?」
「そうだ」
「そんなの、試合終わってからコンビニでも行ったらいいじゃないですか」
コーチの口がわずかにへの字に曲がる。
「コンビニには売ってないから頼んでるんだろう。君はあのカレーを知らないのか?」
「コンビニには売ってないカレー? ……あっ!」
「そうだ」
コンビニには売っていない、今日しか買えないカレー、つまり――
「甲子園カレーなんて買うヒマないですよ。私たちだって忙しいんだし」
「スコアラーは梅本だろう。君はスタンドじゃないか」
「私たちだって応援に忙しいんですよ! しかも甲子園カレーって確かこの辺のコンビニでも買えたはずです」
「せっかく甲子園に来たのに、コンビニの甲子園カレーなんて野暮じゃないか。君は何もわかってないな……」
「なっ?!」
「とにかく頼んだぞ」
そう言い捨てて、コーチは無理やり私に千円札を押し付け、バスに乗り込んでしまった。
背後で沢村くんが「軍曹が先輩にお小遣いを!」と騒いでいたので、大事になるとまずいと思い、手刀一発で黙らせた。そばにいた金丸くんの顔がこわばっていたが、無視することにする。
その後、青道の初戦は幸先よく白星を挙げ、みんなは笑顔で球場をあとにした。コーチは軽く私へお使いを命じたが、アルプスでの応援だってヒマじゃないのだ。どこで試合の流れが変わるかもわからない。だから簡単に席を離れるわけにもいかない。行けるとしたら、中盤のグラウンド整備の時か、試合が終わったあとだ。
例によって一日に数試合行われるため、自分の学校の試合が終わったあとは、速やかにスタンドを退出しなくてはならない。しかも、球場内は広く、どの売店ででもカレーが買えるわけではないのだ。私はグラウンド整備中を見計らい、カレーを求めて必死で球場内を走り回った。
ホテルへと戻り、全体でミーティングをしたあと解散になった。ホテルの広間には私と落合コーチだけが残される。
「買ってきましたよ」
「ふむ。悪いな」
悪いと感じるなら頼むな、という不満をぶつけないあたり、私も少しは大人になったということか。
釣りは取っておけ、なんて粋なセリフを言うわけでもなく、当然のようにコーチがお釣りを受け取る。
その時ふと、コーチの服装が目に留まった。本日のコーチの服装は、メディアに映ることを意識したのか、クリーム色の綿のスーツだった。どこかキザな風貌だ。赴任当初の柄シャツにサンダルスタイルからは、どえらい進化を遂げたものである。
「今日は一張羅なんですね」
「一張羅じゃない。色々持ってるが着る機会がないだけだ」
「へー」
コーチのワードローブなんて正直どうでもいい。
それにしても、この人は何頭身くらいなんだろうか。どこか着ぐるみのような頭身のイメージだったから、スーツを着ているのがなんとなくちぐはぐだった。一言で言えば、とっちゃん坊やだ。
「――ぷっ!」
「なにがおかしい」
「……いや、なんでもないです」
コーチは怪訝そうな表情でカレーの蓋を取った。
「っていうか、そんな白っぽい服でカレー食べるの危険じゃないですか?」
「……抜かりないさ」
コーチは不敵に笑い、ジャケットの内ポケットから白いハンカチを取り出した。それをパッと広げ、滑らかな動作で開襟シャツの襟元に押し込んでゆく。
「――ぶっ、ははっ!」
「……今度はなんだ」
「……いや、なにも」
その姿はまるでヨダレかけをしているようで、ますますとっちゃん坊や具合に磨きがかかってしまった。私は波のように押し寄せる笑いをどうにか引っ込め、コーチの食事を見守った。
「……味は普通だな」
「人に頼んでおいてなんですかそれは」
「誰もまずいなんて言ってないだろう。普通に美味いと言ってるんだ」
それからコーチはもくもくとカレーを食べ続けた。
「きっと、球場で食べるから美味しいんでしょうね。夏ならもっと美味しいと思います」
「それは感情論だな」
コーチは一蹴したけど、私はあながち外れてはいない気がした。選手を応援しながら「暑い暑い」と言って食べるカレーを想像すると、そのあまりの魅力にお腹が鳴った。
「やらんぞ」
そう言いながらコーチが容器を引っ込めようとした時、
「「あ」」
スーツの袖が容器にかすった。あんなに気をつけていたのに、袖口にはべっとりと茶色いルーがこびりついてしまっている。
しかし、コーチの取り返しのつかないそのシミは、青道が確かに、甲子園に来て大きな足跡を残した証になった。
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