落合コーチとマネージャー 3

 グラウンドのそばに五、六歳くらいの女の子がしゃがみこんでいた。

「なにしてるの?」

 私の声に反応した女の子が顔を上げる。すると、くるくるっと好奇心旺盛な瞳が私を捉えた。ピンク色のダウンジャケットを着た可愛らしい女の子は、表情を変えずに地面を指した。

「アリー」
「ありー?」

 一瞬何のことかと思ったが、それが「蟻」と気づくのに時間はかからなかった。それに興味を持った私は、その場にしゃがみこむ。
グラウンドには、今日も今日とて懸命に練習に励む部員たち。気合のこもったかけ声が、そこここに聞こえてくる。

「ああ、蟻ね。どこ?」
「ここ」

 女の子の指し示した方を見ると、一匹の蟻が、じっと動かずその場に止まっていた。一瞬死んでいるのかと思ったが、触覚がわずかに動くのが見て取れる。

「冬に蟻なんて珍しいね。今日はあったかいから、間違えて巣から出てきちゃったのかな?」
「……冬は外に出ちゃダメなの?」
「うん。寒さに弱いから冬は巣で過ごすんだよ。その代わり、あったかくなったらうんと働くの」
「へぇ!」

 女の子がキラキラした目で、手袋に包まれた両手を合わせる。でもすぐに、はっと何かに気づいて慌てはじめた。

「じゃあこのままここにいたら死んじゃうの?」
「えーと、たぶん……」

 私も蟻の生態に詳しくないのでよくわからない。けれど、小さな子にいい加減な知識を与えるのもダメな気がして言い淀んだ。

「たいへん!」

 女の子はそう言って急いで手袋を取り、小さな両手で地面の土をすくって、蟻の上にどさりとのせ、

「よし!」

 一仕事終えたようにふぅっと大きく息をついた。
 それが蟻にとって幸か不幸かはわからないけれど、私はその光景を幸せな気持ちで眺めていた。少なくともこの子は優しい子だ。

「夏にね、エサを運ぶアリいっぱい見たよ」
「そうだね、夏はお仕事がんばるもんね」
「パパがお仕事は大切だって言ってた」
「うん。お姉ちゃんもそう思う」
「お姉ちゃんにもお仕事、あるの?」

 首をかしげる女の子に、笑いかける。

「うん。――あそこにお兄ちゃんたちいるでしょ? あの人たちのね、お手伝いしてるの」
「ふーん?」

 あまりよくわかっていないのか、とりあえずうなずく女の子。それを見ながら、そういえばこの子はどこの子供なんだろうと思った。部員の誰かの妹だろうか。
 私はその顔を覗き込んで言った。

「ねぇ、ママかお兄ちゃんは?」
「あっちー」

 女の子が私の背後を指す。
 そちらに視線を向けると、一人の女性が落合コーチと何やら話していた。

「お兄ちゃんはいないけどパパはいるよー」
「ふぅん?」

 今日、片岡監督は不在だったが、数社の雑誌記者が野球部に取材に来ていた。その関係者だろうか。取材を受けていたのは落合コーチで、仕事の合間にちらっとその様子を見た。ああやって見ると、あの落合コーチでさえ高名な指導者に見えるから不思議だ。というより、かつては神奈川の名門・紅海大相良のコーチをしていたというのだから、本当に高名な指導者なのだが、普段の様子からはあまり想像できない。
 しばらくすると女の子は、私の背後を見てぱあっと顔を輝かせた。

「ママー! パパー!」

 振り返ると、先ほどの女性が手を振ってこちらへ歩いて来るのが見えた。女の子がうれしそうに駆け出す。

「ママ!」

 と、女性の脚にぎゅっと抱きつく。
 女性が私に向かって、すまなさそうに頭を下げる。私も釣られて会釈をしたけれど、とある疑問が残った。先ほど女の子は「ママ、パパ」と言った。しかし「ママ」の姿はあれど、「パパ」の姿はどこにもない。一体どういうことだ。
 私が首をひねっていると、

「パパ!」

 女の子が再び呼ぶ。でもそこには落合コーチしかいない。まさか――

「――パパ?」

 私はコーチを指して言った。
 落合コーチがのっそりうなずく。

「ただし、君のパパじゃないがね」
「わかってますよそんなこと」
「……君、私と娘が全然似てないって驚いてるでしょ」
「はい!!」
「…………」

 自分から振ったくせに、微妙に拗ねるのやめろと思う。
 母親と右手を繋いだ女の子は、左手をぶんぶん振りながらコーチを見上げていた。

「パパ! 手!」

 コーチは私の方をちらりとうかがったあと、女の子へ視線を戻して、その手を繋ぐ。

「すまない。ちょっと駐車場まで送ってくる」
「あ……はい」

 私はそのまま親子を見送った。
 コーチが数ヶ月前、本気で転職を考えていたのは、けっして自分の立場や沽券のためだけじゃないだろう。仲睦まじく三人で手を繋ぐ後ろ姿を見ながら、そんなことを思った。

「……い」
「…………」
「……おい!」
「え?」

 突然、背後からかけられた声に振り向くと、休憩に入ったらしい御幸が立っていた。

「あ、ごめん。なに?」
「今のってさ……コーチの奥さんと娘?」
「そうみたい。奥さん優しそうだったし、娘さんも可愛かった。あのコーチが……びっくりだよね」
「ははっ。だな」
「あの理屈ばっかのコーチが……」
「…………」

 すると、御幸が不思議そうな顔でこちらを見る。

「……お前、今ちょっと淋しいって思ってんだろ?」
「は?」
「顔に書いてあんぞ?」
「――バッカじゃない」

 ニヤニヤする御幸にムカついて、尻に思いきりタイキックをかます。すると情けなく飛び上がったので、イケメンが台無しだね、と笑ってやった。
 センバツまであと二ヶ月――。


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