常松と“彼”の顔
「おーいお前ら。買ってきてやったぞー」
ここは成孔学園野球部学生寮。
外から戻った長田がビニール袋をガサガサいわせ、寮の部屋へ足を踏み入れる。
「おっ、長やん悪ぃな!」
「いーってことよ」
部屋にいた数人が心待ちにしていたように、長田の座るスペースを空けてやる。長田がカーペットの上に“テラジマベーカリー”と書かれた袋を置くと、部員たちは我先にと一斉に群がった。その姿はまるで腹を空かせた雛鳥――いや、この筋肉の塊のような集団はただの飢えた獣である。日々、鍛え上げられた肉体たちが狭い部屋に一同に集うと、むさ苦しいことこの上ない。
「俺、ハムサンド」
「俺はコロッケパン」
「メロンパンどこ?」
みんな各々注文していたパンを手に取り、早速うまそうに食べはじめる。
すると、先ほどまでベッドで寝転がっていた小川が、胸に乗っていたファッション誌をどけのっそりと上体を起こした。
「長田さん遅かったッスね」
「テメェそれが買ってきてやった先輩に言うセリフか!」
長田は悪態をついたが、小川の方は堪えていないのか、大きなあくびをひとつ。
こういうとこ許されんの得だよなぁ、と長田は仕方なくため息をついた。
「お前はお任せってことだからこれ買ってきてやったぜ」
「なんスか?」
長田は袋に残った最後の一つを取り出し、手渡した。
「春の新作・アンパンくんだ」
「…………」
「あ? うれしくねぇのか?」
「この優しそうな目、立派な鼻、ふくよかな頬は……」
「な? そっくりだろ」
「……“彼”……」
小川はしばしの間、手に持ったパンにじぃっと見入っていた。それはキツネ色の円形で、表面にチョコペンで“彼”の顔が描かれていた。誰もが幼い頃に慣れ親しんだ正義のヒーロー。“彼”を知る者ならば、その中身が餡子だとすぐにわかるだろう。
「つーかなんでアンパン“くん”なんだ?」
部員の一人が異論を唱える。
「アレじゃね? 勝手に名前使うと使用料がどうのっつー」
「あー」
「でもアンパン“くん”はねぇだろ」
そんな会話が繰り広げられている横で、小川はなおも例のパンを見つめ続けていた。
その様子を不思議に思った枡が口を開く。
「常、食わねぇのか?」
「……枡さん。俺、“彼”をリスペクトしてるんスよ」
「それがどーした」
「食えるワケ、ないじゃないスか……」
「でもパンはパンだろ」
小島がこともなげに言い放つ。それに同意するように頷く部員たち。
枡は眉を寄せ舌打ちをした。
「ま、常にとったら隠れキリシタンの踏み絵みたいなモンなんだろ」
「あーなるほどなー」
「枡さんうまいこと言いますね」
「お前は感心してねぇでとっとと食え!」
枡は声を荒げて一喝するが、本人はまだ迷っている様子だ。
親しみやすい笑顔を浮かべた――厳密に言うと、そのようにデコレーションされた――“彼”と真剣に対峙する小川。リスペクトする“彼”を食すことでそれに近づけるのでは、という思いと、リスペクトする“彼”を食すなんて度し難い行為だ、という相反する思いが小川の心中を嵐のように駆け巡る。
そんな小川を、部員たちはおもしろそうにニヤニヤしながら見守っていた。――どうする常、と。
だが、その時。小川の腹が鳴った。一瞬何の音かと思うほどの大きさで。
「……決めたッス」
顔の高さまでパンを持ち上げた小川は、覚悟を決めた目でぽつりと呟く。
リスペクトだろうがなんだろうが空腹には勝てまい。誰もがそう思った次の瞬間。目にも留まらぬスピードで、枡の前にあった焼きそばパンが消えたではないか。
「……は?……」
驚いた枡がパンの消えた方角を見ると、焼きそばパンの半分がすでに姿を消していた。それを持っているのは小川である。当然、後の半分は当人の胃の中であることは明白だった。
小川はなおももっしゃもっしゃと頬張り続け、それを見ていた枡がプルプル震えはじめる。
「……何食ってんだ常」
「あ、枡さんにはこれあげます」
そう言って差し出されたのは先ほどのアンパンくん。
「そうじゃねぇよ! 何で俺のパン食ってんだって聞いてんだ!!」
枡の怒号と鋭い鉄拳が小川を襲うも、あまり効果はないようだ。部員たちはやれやれといった調子で再びパンを食べはじめた。
小川は枡にどやされながら思った。
リスペクトする“彼”が、同じくリスペクトする枡に食べられるなら本望だろう、と。
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