きみの心に触れさせて

「御幸先輩って……」

 スコアブックを差し出した私の手がふと、止まる。
 昼休みの2-Bの教室。御幸先輩はスコアブックの端を掴んで、不思議そうにひとつ瞬きをした。

「スコアブックと倉持先輩以外、友達いるんですか?」
「……は?……」
「だから、友達」

 一瞬だけ目を見張った御幸先輩。けれど数秒間の沈黙ののち、堪えきれなくなったように盛大に笑い出した。例によってあの「はっはっはっ」という突拍子もない笑いだ。それに同調するように、前の席に座った倉持先輩の「ヒャハハハ」が続く。
 私は今しがた自分がこぼした一言によって、異様な笑いの渦に包まれていた。仕方がないので、二人が落ち着くまで辛抱強く待つことにする。
 ようやく笑いが引いた御幸先輩は、まだわずかに肩を震わせながらも、こちらに目をやった。

「倉持が友達かはさておき」
「オイ!」
「スコアブックはまぁ、友達っちゃあ友達だな」
「はぁ……」
「あれ? なにその冷たい反応」
「いえ」

 私がにべもない態度をとったものだから、御幸先輩は諦めたように肩を竦めた。後輩マネージャーの失礼な言動の数々には、もう慣れっこだというように。
 私は時々、思ったことをぽろりと言ってしまうことがあり、一応自分でも反省はしているのでとりあえず「すいません」と謝った。

「曲がりなりにも先輩に大変失礼しました」
「うわ、謝った意味ねぇ! さらに墓穴掘ってるし」
「あ」
「ヒャハハ! みょうじ、御幸の扱いヒデェ!」
「そんなつもりは……」

 ない、とは言い切れない。
 御幸先輩は、

「みょうじといい沢村といい、俺が先輩ってことわかってる?」

 と情けなく眉を下げた。すると再び、倉持先輩の笑いがもれなく付いてきたのだった。


 御幸先輩は二年生にして強豪青道野球部の正捕手である。明晰な頭脳によるリードで、冷静な状況判断を行うグラウンドの扇の要。身体つきは、長身でやや細身ながら当たり負けしない屈強さも兼ね備えている。心身共に優れた要素を持つことに加え、さらにあの整った顔立ちは、周囲の人々を魅了するには十分だった。
 けれど私は、そんな外側の部分なんかよりも、その中身に興味があった。御幸先輩は気難しい性格ではないし、どちらかといえば人当たりの良い方だ。後輩が気負わずに話しかけられる親しみやすさも持っている。むしろ人懐こい印象さえ。
 だけどその一方で、時々垣間見せる、どこか人を寄せつけないような冷徹な瞬間があった。仮面を被っているというのではないけれど、自分の中の御幸一也という像がちぐはぐなのだ。この違和感は、会話を重ねるごとに強まっているように感じる。

 ところで来週、クラス対抗の球技大会が行われることになった。――大ピンチである。
 なぜなら私は、野球部のマネージャーをしているという理由だけで、人数の集まらないソフトボールのメンバーに半ば無理やり加えられてしまったのだ。
 私は野球部のマネージャーをしているけれど、自身の運動神経はからきしだった。だけど、出場しなければクラスメイトに迷惑をかけてしまうと危惧した私は、散々悩み抜いた末、昼休み密かに練習をすることに決めた。
 そして秘密の特訓初日。部活の用事があるからと友達に偽って、昼休みに一人こそこそと校舎裏へ向かった。グラブとボールはさっき、体育の先生に断って借りてきたところだ。
 陽があまり当たらない校舎裏は、じめじめしていて当然人気もなく、秘密の特訓をするには絶好の場所だった。ぽっかりと寂しいこの場所には、申し訳程度に木が数本植えられ、近くには用具倉庫がある。ローファーで地面を踏みしめると、土がまだ一昨日の雨を含んでいるのか、少し湿っぽい。校舎の壁は薄汚れていて、どことなく曇った感じの窓が無機質に並んでいる。ここに面しているのは特別教室が多く、昼休みともなれば生徒の気配はほとんどない。
 私は小さく息をつき、早速左手にグラブをつけた。ここなら大丈夫だ。
 右手でぎゅっとボールを握り、全身の力を込め思いきり放り投げた――自分の真上、天高く。
 キャッチボールの相手なんていなくても、重力は分け隔てなくみんなの見方であり、当然ボールは素直に落下を始めた。それから乾いた音を立てグラブに収まる。

「捕った!」

 ――むなしい、なんて思ったら負けだ。

 しばらく一人キャッチボールを続けていると、ふいに遠くで小さな足音が聞こえた。それは次第にこちらへ近づいてくる。こんな辺鄙な場所に何の用だろう。自分のことは棚に上げ、そっと気配を伺うと、一人の女子がこちらへ歩いてくるところだった。
 その女子があまりにも思いつめた顔をしているものだから、私は思わず用具倉庫の陰に隠れてしまった。やましいことなんて何もないのに。
 女子は少しの間、一人でそわそわしていた。どうやら誰かを待っているらしい。息をつめて様子を伺っていると、ほどなくして一人の人物がやって来た。――なんと、相手は御幸先輩。
 二人が人目をはばかるように低い話し声だったため、会話の全容はわからなかったが、途切れ途切れの言葉から察するに、私は告白シーンに出くわしたらしい。運が良いのか悪いのか。少しのやりとりのあと、女子が静かに顔を伏せた。どうやら御幸先輩が告白を断ったようだ。

 “野球で忙しいから”

 面白みのカケラもない――面白い理由と聞かれても困るけれど――至極妥当な理由で。
 けれども女子は食い下がっている様子で、すがるように御幸先輩に抱きついた。
 修羅場だ! どうする御幸一也! と、それを見て私はどこか楽しんでいた。「マネージャーは見た」なんて青春ドラマはどうだろう、なんて考えながら。
 女子は可愛らしい顔立ちだったし、さすがの御幸先輩でもコロッといってしまうのでは、と身を乗り出したが、当の本人はあくまでも冷静にその両肩を押して拒否した。

「……ほんとうに、付き合えない?」

 絞り出すような悲痛な声。
 ややあって、御幸先輩は静かに口を開いた。

「あんたが、野球くらい俺を夢中にさせてくれんなら」

 悪びれもせず言ってのける。
 それから女子は口許に手を当て、弾かれたように走り出した。ぼんやりとそれを見送る先輩。
 なんてトドメを……と不憫に思いながらも、とりあえず春乃にいい土産ができたと、私は今しがた手に入れたネタに心を躍らせた。
 それから、さぁ御幸先輩も立ち去ってくださいと期待するも、けれど一向にこの場を離れる気配がない。それどころか、こちらに向かって歩いてきた。ゆったりと、でも確実に獲物を仕留めるような勿体ぶった足取り。そして、ローファーの足音が倉庫の前でぴたりと止む。

「――おい」
「…………」
「みょうじだろ? 覗きなんていいシュミだな」
「……い、いつから」
「ここに来た時から」

 夢中になって身を乗り出していたせいか、見つかってしまったらしい。
 ニッと屈託なく笑うその顔は、グラウンドでリードに腐心する時のそれそのもの。――どうやって相手を打ち負かすか。そのことにのみ全身全霊力を注ぐような。

「たまたまなんです」

 倉庫の陰から情けなく這い出した私は、必死に言い訳を探す。
 陽の加減で御幸先輩の眼鏡は逆光ぎみになっていて、表情が読めない。

「……出るのが気まずくて」
「うん」
「やっぱり先輩はモテるんだなーっと」
「うん」
「告白してきた人可愛いかったですね」

 唐突に御幸先輩は、みょうじ、と短く言った。

「途中から楽しんでただろ?」
「か、返す言葉もございません……」

 私はあっけなく白旗を揚げた。

「つーかみょうじはこんなとこで何してたんだ?」
「あの、球技大会に向けて秘密の特訓を……」
「秘密の特訓?」

 訝しげな声を上げた御幸先輩に、私は先ほどの一人キャッチボールを披露する。

「ほら、こうやって」
「……一人で?……」
「はい」
「自分で投げて?」
「……自分で捕るんです」

 わずかな間があった。
 でも次の瞬間。突如として爆発的な笑いが、ここ校舎裏に響き渡った。もちろん御幸先輩だ。身体をくの字に曲げて腹を抱え、いつもより磨きのかかった「はっはっはっ」。その目尻には、うっすら涙さえ浮かべている。

「おまっ、沢村かよ!」
「沢村くん?」
「や、沢村もそれやったことあるって聞いて」
「へー……」

 私は沢村くんと同レベルなのか。沢村くんはいい奴だし、努力家なのは認めているものの、似ていると言われると少し複雑だ。

「もー。いくらでもバカにしてくださいよ」

 私がぷいっとそっぽを向くと、気を取り直すように御幸先輩が尋ねる。

「なんで友達に頼まねぇんだ?」
「みんな球技大会なんてどうでもいいって思ってるし」
「沢村とか吉川は? あと、金丸あたりなら面倒みてくれんじゃねぇか?」
「……だって」

 ん?、と疑問符を浮かべる御幸先輩。

「みんな部活で疲れてるのに、休み時間くらい休んでほしいじゃないですか」

 するとつかの間、沈黙が降りた。私は何かおかしなこと言ったのかと不安になる。
 だけど先輩はふっと軽く息をついて、こちらを見た。まっすぐに私を捉えた、その強い瞳に不思議な輝きが宿る。

「できねぇことを努力すんのは立派だけど、お前、大事なこと忘れてんぜ?」
「……え?」
「一人じゃ野球もソフトもできねぇってこと!」

 その瞬間、目の前で太陽みたいな眩しい笑顔が弾けた。ここはひどく湿っぽくて、陽の光なんか行き届かない場所なのに。
 ――まるで子どもみたい。そう思った。


 次の日から、御幸コーチによる秘密の特訓が始まった。昼休みの時間をいっぱいに使ったキャッチボール。でもただのキャッチボールと侮るなかれ、その中身は実に奥深い。そしてコーチはかなり手厳しい。
 私はあの日以来、御幸先輩がどういう人なのか更にわからなくなった。知れば知るほど謎は深まってゆくばかり。
 意外なことに御幸先輩は、運動音痴な私に愛想を尽かすことなく、根気よく練習に付き合ってくれた。結構面倒見が良いというのも、私の中で驚きだった。まぁ、沢村くんと降谷くんの相手を務めているのだから、当然といえば当然なのかもしれない。
 身体の軸をしっかり保つ。投げる時は相手の方向と体重移動を意識して、肘から前へ出すように、と。一つ一つの動きを意識しながら、目の前の御幸先輩に向かって投げる。先輩が受け取って投げ返す。その球を捕る。シンプルだけれど、最初の頃は難しかった。でも数日の特訓ですっかり身体は慣れ、なんとか板についてきたみたい。

「ちょっとはマシになったんじゃね? 最初の頃ロボットみてぇだったけど」

 御幸先輩が思い出したように吹き出して、ボールを投げる。無駄のないシャープな動き。

「かなりと言ってください! 私にしてはかなりなんです!」

 私の抗議に御幸先輩は、ハイハイ、とあきれたようにグラブを構えた。
 それを見て、ふと。御幸先輩も昔はこうやって誰かの指導を受けたのではないかと思い至った。

「先輩は野球始めたての頃からうまかったんですか?」
「んー?」
「昔からセンスあったのかなぁって」
「んなことねぇよ。俺だってはじめは苦労したぜ?」
「ほんとですかー?」

 わざと小馬鹿にしたような口調で言ってみる。すると先ほどより強めの返球がきた。

「――おっと!」
「最初からできる奴なんているかよ」

 むすっとした御幸先輩は若干大人気ない。
 会話がしばしば言葉のキャッチボールと例えられるように、私たちははじめた当初からずっとこの調子で話をしていた。
 そんな中で小さな発見。一球に籠る御幸先輩の言葉がなんとも楽しいのだ。今までこんな風に話したことなんてなかったからだろう。グラウンドにいる時とも、教室にいる時とも違う御幸先輩の顔。表情豊かで人間くさい――普段よりずっと。これを拝めるのは、今は私だけの特権かもしれない。

「先輩って、意外に子どもっぽいとこありますよね」

 先ほどの強い返球のお返しとばかりに言ってやる。それに合わせて少しだけ力を込めて投げるも、あっさり御幸先輩のグラブに収まった。

「俺は元々こんなもんだぜ。立場上、冷静でいなきゃなんねぇからそうしてるだけで」
「……なんか意外です。素でそうなんだと思ってました」

 その時ふいにキャッチボールの手を止めた御幸先輩は、困ったように頭を掻いた。

「なんかみょうじといると調子狂うな……」
「それは――私はどんな風に受け取ったらいいんでしょう?」

 けれど御幸先輩は私の疑問に答えることなく、さぁな、と不敵に笑うだけ。顔立ちが整っているだけに、そんな芝居じみた態度ですらサマになるから不思議だ。

「キャッチボールしてっとさ、ガキの頃思い出すな」

 ぽつりと落とされた言葉に、何と返していいかわからず、へぇ、とだけ呟く。

「最初は親父相手にやってたんだよなぁ。ま、忙しい人だからしょっちゅうはムリだったけど」
「ああ、お父さん……」
「そのうち近所で野球やる奴見つけたから、親父とはあんまやんなくなったな」

 思わぬ昔話が飛び出して、私は思わず口を噤んだ。
 手元で所在なげにボールをいじるその姿は、昔を思い出しているようで、なんだか少し遠く見えた。
 なんだろう。御幸先輩は数日前と変わらないはずなのに、自分の中で何かがはっきり変容してしまった。知れば知るほどその輪郭を追いたくなる。――もっともっと。私の中の深いところで、誰かがそう呼びかける。

「……あの……」
「ん?」
「淋しくなったら、私がお父さんとしてキャッチボールに付き合ってあげます」
「みょうじが親父?」
「はい」

 一瞬口を閉ざした御幸先輩は、けれどすぐさま、

「百年早ぇ!」

 と笑って腕を振った。
 突然のことに私は慌ててグラブを構える。――なんとかキャッチ。

「御幸先輩ってほんと野球好きですよね」
「何を今更」

 御幸先輩は当然だという顔をする。
 刹那、私の脳裏にあの日の言葉が蘇った。

『あんたが、野球くらい俺を夢中にさせてくれんなら』

 あの時はひどい奴だと思ったけれど、今にして思うときっと御幸先輩は大真面目で言ったんだろう。
 それくらい御幸先輩は――

「ただの野球バカだ」
「……は?」
「……え?……」
「おい、みょうじ」
「あ、すいません。今、心の声漏れてました?」
「ダダ漏れだっつの! 俺先輩だから!」

 抗議の声を上げつつも、どこか楽しそうに見えるのは気のせいか。
 野球をしている時の、まっさらで無防備な子どもの笑顔。御幸先輩にはいろんな面があって、これはそのほんの一部に過ぎない。でも、私はこれに強烈に惹かれてしまった。もう後戻りなんてできないだろう。

 “野球と同じくらい、御幸先輩を夢中にさせてみせます”

 今度は口に出さないように、心の中でこっそり宣戦布告してやった。


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