誰にでもスキだらけ

「「あ」」

 それは、ほぼ同時に発せられた。
 お昼休み、購買の自販機で飲み物を買うため小銭を取り出していると、手元からするりと百円玉が逃げ出した。チャリーン。音を立てて縦に転がっていくその行方を追っていると、どこからともなくすっと手が伸びてそれを止めた。
 よく日焼けした手。
 そう思い顔を上げた瞬間だった。
 重なった「あ」。視線の先のツンツン逆立てた髪。やんちゃそうな目元。
 ――知ってる。
 相手の方も驚きを隠せないのか、呆けたように呟いた。

「......なまえ先輩?」
「......洋一?」

 その名を口にしたのは、一体何年ぶりだろう。
 先に動いたのは洋一で、すぐに小銭を拾い立ち上がった。私もそれに倣うと、相手の頭の位置が思っていたよりずっと高くて、内心驚いていた。
 真っ白いカッターシャツから逞しい腕が覗く。あの頃の制服のズボンは黒だったけれど、今はもちろん、うちの制服であるグレーを履いていた。
 洋一は私に小銭を手渡しながら、恥ずかしそうに歯を見せ、

「三年ぶり、くらいッスか?」
「そうだね。てか洋一、ちゃんと計算できんだ」
「当たり前ッスよ!」

 でも、口を尖らせて文句を言うところなんか、あの頃の面影を十分残していた。

「まさかこんなとこで会うなんて」
「はい」
「入学して二カ月も経つのに、意外と会わないもんだね」
「そうッスね。なまえ先輩も青道だったなんて」

 いざ話し始めると、次第にぎこちなさが解けていくようだった。

「ほんと、懐かしい......」

 思わず呟くと、それが呼び水となって、あの頃の鬱屈とした、やるせなくて、でもそれにすがるしかなかった、そんなぐちゃぐちゃな思いが堰を切ったように溢れだした。
 洋一も私と似た思いを抱えているのか、かすかに複雑そうな表情を浮かべ、視線を下げる。

 私は千葉の中学にいた頃、かなり荒れた生活を送っていた。両親が不仲だったことや、教師との折り合いが悪かったこと。理由ならいくらでもあったけれど、あの頃は不思議と、何もかもがおもしろくなかった。入学してすぐ素行が悪いと言われる仲間とつるむようになり、授業もサボりがちになった。暇を持て余して空き教室やゲームセンターでたむろする毎日。
 世間では不良と称される仲間たちばかりだったけれど、いい奴も大勢いた。そして、学年が上がるごとにその絆も強固なものになっていく。私は私で、元来のほっとけない性格のせいで、後輩たちからよく頼られて世話を焼いたりした。
 そんななか、中三の時に知り合ったのが洋一だ。洋一は入学してすぐ、目つきが悪くてイタズラ好きなところが悪目立ちし、わかりやすく不良の仲間入りを果たした。授業もサボるし、ケンカっ早い奴だった。
 ――でも、ひとつだけ。
 そんな洋一にも、他の不良仲間とは一線を画すところがあった。野球だ。
 不良のくせに、放課後は他の生徒のように真面目に部活で汗を流す。遊びに誘われても練習があれば乗らない。
 へんな奴。堕ちるなら、とことんまで堕ちたらいいのに。
 学校や街中で顔を合わせるたび、そんなことを思った。
 「先輩、先輩」と子犬みたいに目を輝かせて私を慕う洋一は、内に秘められたこんなドロドロした思いなんか知らないはずだ。

 あの頃よりずっと健康的な輝きを持った目が、私を見下ろしている。

「洋一さ、よく青道なんか入れたね。やんちゃばっかしてたのに」
「それ、なまえ先輩に言われたくないんスけど......」
「は? どの口がそんなこと言った?」

 私がそのほっぺをぎゅっとつねりあげると、洋一は思いきり「いってぇ!」とわめいた。私に逆らうなんて百年早い。
 洋一はほっぺをさすりながら、

「先輩、あいかわらず手早ェ」
「うっさい」
「でも、見た目すげー変わってて一瞬別人かと思いました」
「そう?」
「そうッスよ!」

 私は曖昧に笑うしかなかった。
 中三の夏の終わり、両親の離婚が決まり、私はあの土地を離れた。転校した東京の中学にはあのテの不良生徒が少なく、色んなことに疲れていた私は、気づけばもう反抗する意思はなくなっていた。脱色した髪を黒に戻し、制服も正しく着る、いわゆる普通の生徒。そしてそのまま、近所の青道高校に入学した。
 長く明けない夜みたいだったあの日々は、今ではもう、夢物語のようだった。



『洋一』

 気だるげに言ってくしゃりと笑うあの笑顔が、俺はすげぇ好きだった。
 中一でまだまだガキだった俺は、綺麗でかっこよくて、誰からも慕われていたなまえ先輩に密かに憧れていた。でも当然、後輩なんか相手にされなかったけど、それでも必死に話しかけたりしたっけ。そのあと男の先輩にボコられたけど、あんまり懲りなかった。いろんな悪さして、背伸びして。今思えばただのバカだ。
 初恋なんて、刷り込みみたいなモンなのかもしれない。
 すげぇ好みのタイプ。
 自販機のそばで先輩を見た瞬間、ビッと何かが走った。けどすぐ、気づいた。まさかの張本人。そりゃ、どストライクなワケだ。

 再会してからというもの、俺は気がつけばなまえ先輩を目で追っていた。廊下や購買、移動教室の時。無意識のうちにその姿を探した。
 現に今、廊下の端で男子と話すなまえ先輩を見ている。俺のいる所から距離があるから、向こうは気づいてないみたいだ。なまえ先輩は楽しげに笑いながら男子の肩を叩いていた。男子は男子で、かなり馴れ馴れしい感じだ。

「なんだ、アレ......」

 ......面白くねぇ。
 嫉妬、といえばそうなんだろう。けどなんだ、このモヤモヤする感じ。
 だけど、しばらく眺めているうちにふと、ああそっかと納得した。
 あの頃のなまえ先輩は、今よりずっと鋭い印象で、全身トゲを纏ってるみたいで隙なんかカケラもなかった。だが今はどうだ。あんな風に笑い合って、まるで隙だらけ。
 憧れだった先輩がちょっとだけ丸くなってて面白くねぇなんて、何様のつもりだ俺。ただ昔の理想押し付けてるだけじゃねぇか。......なんつー女々しい奴。

「おい倉持、何見てんだ?」

 突然背後からかけられた声に、心臓がビクッと跳ねる。

「んだぁ?!」

 振り向くと御幸が立っていた。
 俺を見て楽しげにニヤニヤしながら

「お前、ガン飛ばしすぎ」
「うるせぇ」
「あの女子?」
「関係ねぇだろ」

 入部当初、絶対に馬が合わないと思っていた御幸だが、気がつけば最近よく一緒にいることが多かった。まぁ別にたまたまだ。

「綺麗な人だな」
「あー、......中学ん時の、先輩」

 俺がそう呟くと、眼鏡の奥の目がすっと細められた。
 しまった。こいつが女子の見た目だなんだを自分から言うことなんかないのに。褒められて気を良くししたから、ぽろっと言ってしまった。
 俺は諦めて一つ息をつき

「......あの先輩、元ヤンなんだぜ」

 試しに言ってみる。

「マジかよ」
「な、見えねぇだろ」

 ちなみに、入部初日に俺はこいつから「お前元ヤンだろ。はっはっはっ!」と言い当てられ、ゾノたちが止めなきゃ危うくケンカになるとこだった。
 御幸はまたなまえ先輩の方へ視線をやる。

「ヤンキーの気配、完全に消してんな」
「だろ」
「ま、残念ながらお前はダダ漏れ」
「うるせ」

 俺は奴の尻に思いきりタイキックをかました。



「洋一」

 数日後の夜、寮とグラウンドに挟まれた一本道で一人素振りをしていると、あの声が再び俺を呼んだ。
 振り向くと、コンビニの袋を下げたラフな私服姿のなまえ先輩がいた。
 ヤベ、こんなとこで会えるなんて。
 俺は平静を装いつつ、にやける口許をぐっと引き締める。

「なまえ先輩どうしたんスか。こんなとこで」
「ちょっとコンビニ。実は家、この近くなんだ」
「へぇ」

 なまえ先輩は、俺の持つバットにちらりと目を向けた。

「かんばってんね」
「まぁ、俺にはこれしかねぇし」
「......ね、ちょっとそれ振っていい?」
「ああ、いいッスよ」

 ハイ、と手渡すと、なまえ先輩はぶんぶんと数回、めちゃくちゃにバットを振った。
 バットを持つその華奢な腕に一瞬、目を奪われる。中一の頃は俺のが背が低かったけど、今は完全に追い越していた。なまえ先輩ってこんな小さかったっけ。いや、別に俺の背が伸びただけか。なんとなく不思議な気分だ。

「ふぅん、バットって意外に重いんだ」
「ヒャハハ! なまえ先輩、女子みてぇなこと言うんスね」
「うるせぇぞコラ」

 すっと腕が伸びて、俺の耳をぎゅーっと引っ張る。

「あててて! ちょっ、もうカンベンしてくださいって」
「ははは」

 屈託なく笑うその笑顔に、あの頃の笑顔が重なる。
 あいかわらず俺はなまえ先輩に逆らえなくて、いつまで経っても後輩のまま。なまえ先輩は俺と話すと昔を思い出すのか、口調もあの頃みたいに少しだけ乱暴になる。
 なんだよ、俺には隙なんて微塵もねぇじゃねぇか。
 ――あ。
 唐突に、モヤモヤの正体がなんとなくわかった気がした。たぶん、なまえ先輩が昔に比べて穏やかになったのが不満なんじゃない。東京に出てから出会った奴らには隙だらけなのに、俺にだけは、隙を見せないから嫌なんじゃねぇか。たぶん、俺を見ると昔を思い出すんだろう。
 その時、なまえ先輩がふらふら歩きながら土手に腰を下ろしたので、俺もその後を追い隣に並んだ。

「ほい、やる」

 コンビニの袋から出された冷たいミネラルウォーターを受け取る。

「ありがとッス......」

 キャップを捻り、ごくごく水を流し込んだ。なまえ先輩はそんな俺を目を細めて見ている。

「そういや先輩、タバコやめたんスか」
「うん。百害あって一利なしって言うし」
「その方がいいと思います」

 しばらくの沈黙のあと、なまえ先輩は静かに、洋一、と呼んだ。きっとそれに続く言葉は、中身なんてないどうでもいい内容だろう。でも、ここでは誰も俺を洋一と呼ばない。
 どうしようもなかったあの頃の残滓みたいな俺たちが、夜の闇に沈む。飲み込まれないようにただひたすら、からっぽのグラウンドを見つめていた。



 数日後、私は野球部の練習試合を見に行った。きっと無意識のうちに洋一を求めたからだろう。昔馴染みの後輩が懐かしかったのか、それとも成長したあいつに興味が湧いたのか。そのどちらかは、自分でもわからない。ただ、昔と変わらず純粋に野球に打ち込む姿をまた見たかったんだと思う。
 Bグラウンドで行われた二軍の試合。途中出場ながらも洋一は、その実力をいかんなく発揮した。野球をしているあいつを見るのは久しぶりで、懸命にプレーするその勇姿を目の当たりにすると、不思議と胸が高鳴った。


「お疲れ」

 試合を終え、昼休憩に入った洋一を捕まえた。土でどろどろになったユニフォームを着た洋一は、驚きで目を見開いた。

「なまえ先輩?! 来てたんスか!」
「うん。大活躍だったじゃん」
「いや、まだまだこれからッスよ」
「お、いっちょまえに謙遜なんて覚えたか」

 軽く頭を小突くと、洋一がニシシと笑う。けれどすぐ、すっと真剣な顔になった。

「や、でも来てくれてすげぇ嬉しいっつか」

 こいつ、こんな顔もできるんだと、内心ちょっとだけうろたえてしまった。でもそれを気取られたくなくて、いつもみたいに強がって

「なんだよ洋一。もしかして友達いないの?」
「じゃなくて......」
「じゃあ何」
「......なまえ先輩、だから......」
「は」

 私だから、嬉しいってこと? その言葉の意味を、頭の中でひっくり返して、噛み砕いて、咀嚼する。でもそれは、どう味わったって美味しい以外の何者でもなくて。
 すると、その理解に追いつくように、自分の顔面がかーっと一気に火照っていくのがわかった。何か言わなければと口はパクパク動くのに、紡ぐべき言葉が見つからない。
 その瞬間。洋一がニヤッと笑った。

「......スキ」
「へ?」

 突然の言葉に、思わず声が裏返った。どくんどくんと、うるさいくらいの胸の鼓動。――今、好きって言った?

「やっと隙見せたなぁと思って。なまえ先輩」
「あ? ......隙ってなんのこと?」
「さぁ? 何のことッスかねぇ」
「おい、ちゃんと説明しろ」

 こいつ、いつからこんな生意気になったんだろう。

「ヒャハッ! なんでもねぇッス!」

 そう叫んで突然走り出した。

「おいコラ待て!!」

 なおも、あの独特の笑い声をあげて逃げるあいつを捕まえようと躍起になるけれど、むろんその足に敵うはずもない。私はその成長が少しだけ淋しくて、でもやっぱり嬉しかった。

「おい! 吐かねぇとキンタマにボールぶつけんぞコラァ!!」
「それはマジ勘弁ですなまえ先輩!!」


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