狼まであと何秒?

 ※年齢制限は設けておりませんが、それに類する表現が若干登場します。苦手な方は閲覧をお控えください。


 進むべきか、止まるべきか。
 俺は今、人生最大の選択を迫られている。
 野球はいい。自分の判断の時もあるが、大抵信頼の置けるコーチャーが決めてくれる。
 進むべきか、止まるべきか。
 俺は無意識のうちに溜めていた口内の唾をごくっと飲み込んで、結論を出した。
 ――進め。
 ベッドのスプリングが、俺の動きに合わせてぎしり、と音を立てた。さっきからずっと、なまえの頭の両側に手をついてじっと動きを止めていた。今、俺の身体の下には、ベッドに押し倒した状態のなまえがいる。これからの行為を予期しているのか、身じろぎ一つせず、かすかな怯えのような色を滲ませてこちらを見上げていた。
 ――進め、進め。
 急かすように心の中のもう一人の俺が叫んだ。コーチャーは俺自身。テメェで決めろ。
 それから大きく息を吸い込み、ふーっと吐き出してから、意を決してなまえへと覆いかぶさる。だが。

「......ごめん」

 なまえの震える頼りない手が、力なく俺の胸を押す。抵抗なんかしてねぇんじゃねぇかと思うほど非力に、でも確実に拒絶した。

「......悪ぃ」

 俺は弾かれたようになまえから身体を離し、ベッドへ座った。なまえがゆるゆると起き上がり、すまなさそうに顔を伏せる。

「ううん、私こそごめん」

 あたりを支配する気まずい沈黙。上昇した熱は、潮が引くように急激に下がっていく。俺たちは馬鹿みたいにただ、並んでベッドに座っていた。
 ――アウトーー!
 今、俺の頭の中で、審判のその無情な声が聞こえた。シーツの皺を呆然と眺めながら、もう一度繰り返す。

「......悪ぃ」



 大学に入学して約半年。ようやく関西の土地や一人暮らしにも慣れ、授業に野球に飲み会にと、俺は平均的な大学生の忙しい日々を送っていた。そして二ヶ月前、そんな俺にも念願の彼女ができた。野球漬けの高校時代からは考えられなかったことだ。
 カウンターで冷たいブラックコーヒーを受け取り、俺はカフェテリアを見渡した。整然と並んだ小綺麗なテーブル。そこで、時間を持て余した多くの学生たちが楽しげに談笑していた。カウンターと反対側の壁はガラス張りになっていて、午後の気だるい光が柔らかく差し込んでいる。大学内にあるここはテーブル数も多く、ふらっと立ち寄るとだいたい顔見知りに遭遇する。いつもは無意識になまえの顔を探すが、今日は別の意味でその顔を探し、いないとわかってからほっと安堵の息をもらした。

「伊佐敷ー!」

 どこからか男の声が俺を呼び、無意識に舌打ちする。その方向を見ると、同じ野球部の奴がへらへら笑いながら手を振っていた。
 今は一人になって考えたいことがあったが、無下に断っても怪しまれるだけなので、俺は仕方なくその席へ着いた。

「なんかイライラしてんのかぁ?」
「別になんでもねーよ」

 乱暴に言ってグラスを置くと、予想外に大きな音を立てた。
 くっそ、こういうのが顔に出るからピッチャー向いてなかったんだよな、俺。
 それから、キンと冷えたコーヒーを飲むと、少しだけイライラが収まってくるような気がした。
 そんな俺の顔を奴は覗き込み、楽しげに言う。

「イライラの原因当ててやろっか?」

 は? と思いながらも、俺は飲みながら視線だけを向けた。

「......もしかしてなまえちゃんのこと?」
「ぶほっ!」
「うわ、きたねっ」

 図星を指されて思わずコーヒー吹いてしまった。
 あー、情けねぇ。
 ごしごしと口元を拭いながら

「なんでわかったんだよ?」
「えー、お前ってすげぇわかりやすいし。あと、午前の講義で会ったなまえちゃんも似たような顔してたから」
「あいつも......」
「おーい、伊佐敷?」
「......なんでもねぇ」

 高校時代、野球しかしてこなかった俺は、彼女の扱いにさっぱり慣れていなかった。それでもなまえとは、不器用ながらも言葉を交わし、告白して、デートを重ね、現在に至る。だが、ここで最大の難所に遭遇した。
 俺は目の前の顔をギンと見つめた。

「お前は高校ん時、彼女いたんだよな?」
「まぁな」
「そん時に、その......全部経験してんだよ、な?」
「え? なになに? 全部って?」
「全部はぜ、ん、ぶ、だよ!」

 はぐらかす奴の首に俺はめいいっぱいヘッドロックをかます。すぐに涙目でタップをしたから、仕方なく解放してやった。
 奴は首をさすりながら

「ま、お前らって寮だから超禁欲的な生活送ってたんだもんな」
「そーだよ悪ぃかよ!」
「いや、それはそれで羨ましいと思っただけ。そう、アレの話だよな」
「おう。アレの話だ」

 ようやく本題に入ったところで、俺は居住まいを正した。

「......いまひとつ、その、一歩が踏み込めねぇっつーか」
「ま、初めて同士じゃしゃーねぇわな」
「は?! いつ俺らが初めて同士なんて言ったよ!!」
「いや、お前ら見てたらわかるって」

 くつくつと笑いをもらす奴を再び睨むが、あまり効果はなさそうだ。

「どーせお前、小型犬みたいにぷるぷるしてたんだろ」
「なっ?!」
「高校ん時、スピッツって呼ばれてたんだっけ?」
「うるせぇ! はぐらかすんじゃねぇ!」
「そういう不安って向こうにも伝わるからなー」

 ぐっと言葉に詰まった。確かにあの時、強引に迫ってなまえに嫌われたらどうしようという思いだけが支配していた。が、こっちの言い分もある。

「......無理やりやっちまったら、そんなん彼氏じゃねぇだろ」

 すると奴は、出来の悪い生徒を諭すように、いや違うな、と首を振った。

「無理やりじゃねぇよ。ここぞって瞬間があんの」
「あ〜?」
「どうせ息子さん暴走ぎみで周り見えてなかったんだろ」
「ぐっ......!」
「チャンスの時こそ冷静に、だ」
「お、おう!」

 何となく野球にも通じる名言だ。そう、まずは冷静になること。俺は今のアドバイスを胸に刻みつけ、一気にブラックコーヒーを飲み干した。

「ありがとな。......やってみる」

 俺がグラスを持って勢いよく立ち上がったその時、だが奴は、思い出したように口を開いた。

「あとさぁ、もういっこ覚えとけよ」
「なんだ?」
「性欲は男だけのモンじゃねぇってこと」



 なまえが鼻歌を歌いながら、台所でコーヒーとお菓子を用意していた。
 相談に乗ってもらってから一週間後、今日は俺の部屋で、一緒にDVDを見ようとなまえを誘った。   
 なまえが食べ物を用意している間、俺はDVDをケースから取り出し、デッキに入れた。これは、最近話題になっている少女マンガ原作の映画版。俺もなまえも前々から見たかったヤツだ。
 念のため、シーツの下に仕込んだアレの存在も確認した。よし、準備万端。いつでも来やがれ。
 だが、一応の準備は整えたものの、今日の俺にそのつもりはなかった。前に失敗したから今日こそはと、がっついているように思われたくなかったし、何よりなまえの気持ちが一番だ。
 だから今日は本当に何もしねぇ。文字通りの、平和なDVD鑑賞会。

「はい、どうぞ」

 なまえは歌うように言って、コーヒーとクッキーの乗った皿をテーブルに置いた。俺は適当にクッキーを掴みベッドにあぐらをかく。

「サンキュ」
「これ前から見たかったんだぁ。楽しみ」
「原作の雰囲気壊れてねぇといいけど」
「どうかなぁ」

 なまえはベッドの上に座り、後ろの壁へ身体を預け、近くにあったクッションを胸に抱えた。そしてそのまま、俺の方へと身体をくっつけて、にっこり笑った。体温さえ共有するほど、ぴたりと密着した身体と身体。
 その笑顔に、俺もつられて笑いそうになったが、いや待て、と冷静になった。
 ......待て待て。なんだこれ、何の拷問だよ。
 俺はぶるぶる頭を振って雑念を振り払い、リモコンを取った。さっさと再生するに限る。
 しかし、俺が再生ボタンを押す前に、なまえはクッションに視線を落とし、ぽつりと呟いた。

「......純。この間はごめんね」
「あ?」
「あの、だから......途中でやめたこと」

 なまえは頬を紅潮させ、もごもごと口ごもった。
 つーかここ、俺の部屋。二人っきりの密室で、しかもベッドの上で、こんなに身体くっつけて、今言うことか?
 コトリ、とリモコンをテーブルに置いた。
 せっかく俺が雑念を振り払いながら、必死になってる時に蒸し返すなよ。どうせまだ気持ちの整理がついてねぇくせに。
 ――気分悪ぃ。
 どろどろした嫌な気持ちが渦巻く。もちろん、なまえのせいじゃないことはわかっていた。ただ、積もったイライラが、口を突いて出る言葉を止めることができない。

「わかってるって。今日は何もしねぇ。今は嫌なんだろ?」
「嫌なんてそんな......そんなことない」
「無理すんなって。ちゃんとわかってっから」
「違うよ......!」

 強い否定に、更に苛立ちが募る。なまえの気持ちがさっぱりわからない。
 嫌だから拒絶したんじゃねぇのかよ。
 かすかに濡れた瞳を揺らすその顔を見て、小さな嗜虐心が湧く。
 俺はなまえの肩をそっと掴み、トンッと少しだけ力を加えるように押した。するとそれはいとも簡単に、以前した時よりも深く身体がベッドに沈み込む。ぱらりとシーツの上に散らばった髪。緊張して体温が上昇しているせいか、温められたなまえの匂いが、いつもより香り立つように俺を刺激する。
 なまえがはっと息を飲むのがわかった。
 だが俺はかまわず強引に唇を奪った。ただひたすら、貪るように。その小さな頭はベッドに沈み込んでいるため動かず、いつもより深く舌が入り込む。なまえのそれを絡め取ると、身体中にぞくぞくするような衝動が突き抜けた。ゆっくりと歯列をなぞる。するとなまえから甘い息がもれたので、少々乱暴に口内を荒らした。
 だがそこまで。俺の背中あたりで服を掴まれた感触がして、はっと我に返った。
 ――やっちまった、最悪だ。
 おそるおそる顔を離して、その様子を窺う。なまえは先ほどよりも頬を朱に染め、苦しそうに胸を上下させた。
 俺はすぐさま身体を離し、土下座の勢いでシーツに頭をこすりつけるように下げた。

「悪ぃ! ほんと悪かった!」

 恐れていた最悪の事態を招いてしまった。
 もういっそ殴ってくれてもかまわねぇ。
 そんな覚悟でじっとシーツを見つめていると、ゆっくり起き上がったなまえが「顔上げて」とかすれた声で言った。

「俺は......」
「うれしかったの」
「あ?」

 遮るように放たれた言葉に、俺は顔を上げた。
 なまえはきゅっと唇を噛みしめてから、蚊の鳴くような声で

「純がしてくれたこと、うれしかったの」
「でもこの間、止めたじゃねーか」
「それは......少しだけ、怖くて」
「今も、怖がらせて悪かった」

 だがなまえは、ううん、と首を振った。

「私も謝らなきゃ。純をちょっとだけ試したこと。身体くっつけて」
「ああ?......あれ! あれか?!」
「うん。スピッツの純がオオカミに進化するとこが見たくて」
「俺はスピッツでもオオカミでもねぇ!」

 勢いよく吠えると、なまえがいつものように笑ったので、俺はやっとのことで胸を撫で下ろした。
 そして、なまえがもじもじしながら続ける。

「あと、さっきの手ね。『やめてほしい』じゃなくて『もっとして欲しい』なの」
「は......」
「自分でもびっくりした。そんな風に求めるなんて......」

 そんななまえの恥ずかしそうな様子を見て、俺は今、情けなくぽかんと口を開けているはずだ。

 ――性欲は男だけのモンじゃねぇってこと。

 この時になってようやく、あの言葉の意味を理解した。皮肉なもんだ。当たり前のことなのに。禁欲的な三年間の寮生活と、少女マンガの読みすぎで、男としてのカンが鈍ったらしい。
 俺はちらりとテレビの方へ視線をやり、

「......DVD、あとでいいか?」

 なまえが真っ赤な顔でこくりと頷く。
 それから俺は、なまえの乱れた髪を指で軽く梳き、柔らかな唇にそっと自身のそれを重ねた。さっきの無礼を詫びるように。
 ゆっくり視線を交わす。そこには、無邪気な策はもう何も持たない、まっさらな瞳。
 かわいい策士も好きだけど、こっちのがもっと好きだ。
 瞳に吸い込まれるように、華奢な身体に少しだけ体重を預けると、俺は粟立つ肌全体で感じていた。なまえが俺の腕の中で、しどけなく解けていくのを。


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