無意識のゼロセンチ

 ――孤独な距離だね。
 私がそう言うと、彼は一瞬きょとんとしたあと、けれどすぐいつもの自信満々な笑みを見せた。
 俺はそんなの全然感じないけどね。
 硬式野球のバッテリー間、その距離実に18.440m。
 彼と付き合うまで、私はそんなことまったく知らなかったし、実際にそれを体感したこともなかった。
 ブルペンが見たい。
 そんな私のわがままに、彼は付き合ってくれた。互いの想いが通じあって、付き合うことになった日の翌朝。
 グラウンドは神聖すぎて、部外者の私にはとてもじゃないが立ち入れない。もちろん、ブルペンだって十分そうなんだけれど。
 薄暗い空。朝練までにはまだまだ時間があり、部員は誰もいない。独特の土の匂い。早朝の空気は凛と冷たく澄んでいて、すぅっと肺いっぱいに吸い込むと、身体じゅう浄化されたような気分になる。夜明けまであと少し。
 だだっ広いグラウンドと違い、ブルペンは、バッテリー間の距離をダイレクトに感じることができる。右手にはマウンド、左手にはホーム、私はその孤独な距離のちょうど真ん中に立つ。バッテリー間がこんなにも遠いなんて知らなかった。もし私がマウンドから投げたとしても、コントロールすることはおろか、ホームへだって届かないだろう。
 しばし感動していた私を、彼は得意そうに笑ってから、マウンドへ向かいはじめた。その足取りはいつものように淀みない。その意図を察して、私もすばやく身を引く。彼は目的地に着くと、肩にかけたタオルを左手に持ち、すっと足を上げモーションにはいった。早朝の爽やかな空気を鋭く裂くように、しなやかな左腕が振り下ろされる。バシュ。その乾いた短い音とともに、静かな朝は破られた。徐々に濃さを増す、土の匂い。
 どう? ちゃんと見てる?
 そう言わんばかりに、その負けん気の強そうな目が私を捉える。その様子はまるで、注目を集めたい小さな子供のようで愛おしく、見てるよ、という笑みを返すと、彼の表情はまた真剣なものに変わった。
 ただのシャドーピッチングじゃない。彼の球は、彼の意図した場所へきちんと収まったり、時に自在に変化して、ホームへ到達する。私は幻の球を、ただひらすら目で追う。
 世界には徐々に太陽が昇りはじめ、暗闇と共存し、溶け合う。
 また、あの距離を彼の球が走る。強い光を放ちながら。それは遠く遠く、はてしなく遠く。だけど、彼の強い光をもってすれば、こんな孤独な距離さえ簡単になくしてしまうのだろう。





「なまえー! カレシ来てるよ!」

 卵焼きへと伸ばした箸が止まった。
 今日、約束なんてしたっけ。そんな疑問符を浮かべながら教室のドアの方へ視線をやると、ぷぅっと見事に頬を膨らませた我が彼氏様が立っていた。
 あの頬つっついてみたいなぁ、なんてのんきなことを考える。すると彼氏様こと成宮が、ずんずんと大股で私の席へと向かってきた。さぁ大変、これは相当ご立腹の様子だ。

「なまえ、なんで先にお昼食ってんの?! 今日一緒に食べようって言ったじゃん!!」
「あ」

 そういえば先週そんな約束したっけ。成宮と付き合って二週間。私にとって付き合うという経験は初めてで、慣れないことが多い。

「ごめん、忘れてた......」
「もー!」

 成宮が不機嫌なのも無理はない。約束をふいにされたうえ、お腹も空いているだろう。私はすぐにでも約束を果たそうと思ったけれど、お弁当の中身はすでに八割がた食べ終わっていた。こんな中途半端なお弁当を持っていくより、いっそここで食べきってしまった方がいい。

「ほんとうに悪いんだけど、もうちょっと待ってて。すぐに食べるから」
「すぐだよ?!」

 うなずくと同時に、私は残りのご飯を一気にかきこんだ。私の横で、なおもぶぅぶぅ文句をたれる成宮は何かに似ているな、と思った。なんだろう。
 咀嚼しながら机へ視線を落とすと、二段式のおかずの方のお弁当箱に、まだウィンナーが一個残っていた。
 そうだ、まだおかずがあるんだった。空腹の成宮にも食べてもらって早く終わらせよう。そう閃き

「成宮、口開けて」

 せかすように言ってウィンナーを箸でつまむ。

「へ?」
「口、口」

 ほとんど無意識に開けた成宮の口に、適当にウィンナーを放り込んだ。すると不思議なことに、成宮は先ほどと打って変わって静かになった。私は再びお弁当へと集中する。
 なんかお腹を空かせたヒナ鳥みたい。心の中で小さく笑いながら、残りのご飯を無理やり口に押しこみ、お弁当箱をしまった。


 二人で中庭まで出た。秋の空は青く澄み渡り、午後のやわらかな陽射しは心地よく私たちを照らしている。芝生とブロックで綺麗に整地されたここは、天気の良いお昼休みには生徒にとって絶好のスポットだ。中心部にはベンチや、よく手入れの行き届いた植物のプランターが並べられていた。
 ちょっと目立つなぁとあたりを眺めていると、予想に反して成宮は、こっち、と中心部ではない端の方へ私を誘った。そのあたりはベンチはないものの、植物が適度に生い茂っていてあまり目立たない場所だった。

「ここ穴場なんだってさ」
「へぇ、静かでいいね」
「でしょ」

 えっへん、と得意げ胸を張る成宮がおかしくて、思わず笑みがこぼれる。
 芝生の上に腰を下ろし、成宮が購買で買ったらしきおにぎりを食べはじめた。今日の朝練はいつもより厳しかったとか、多田野はいつも口うるさいだとか、食べながらも止まらない成宮の話を聞きながら、私はその様子をただ目を細めて眺めていた。
 しばらくして昼食を食べ終えた成宮は、ふぁっと大きなあくびをした。それからなぜか、じぃっと期待に満ちたくるくるした瞳で私を見つめてくる。

「なまえ、膝枕してよ」
「え、なにそれ。いいよぉ......」
「やった!」
「え?」

 否定のつもりの「いい」が、成宮は肯定と受け取ったようで、さっそく芝生の上にごろりと寝転んだ。なんてポジティブな奴なんだ、となかばあきれてしまう。けれど私もまんざらでもなく、ひそやかな胸の高鳴りを秘め、座った。ゆっくり場所を確かめるように乗せられる頭。仰向けの成宮と目が合った。

「膝枕ってよくわかんないけど気持ちいいの? 硬くない?」
「う〜ん......」

 成宮が口をへの字に曲げてうなる。せがんだ本人でさえこの反応なんだから、寝心地はさぞ微妙なんだろう。肉の薄い自分の腿は、どう考えても気持ちいいものとは思えない。

「とにかくいいの!」

 そう言ってぷいっと反対側を向いてしまった。私から顔を隠したつもりでも、綿毛みたいに揺れる髪のすき間からのぞく耳が、ほんのり色づいている。ツメが甘いなぁ。
 それをくすくす笑いながら幸せな気持ちで眺める。
 けれどほどなくして、成宮は真剣な色をおびた言葉を落とした。その表情は、見えない。

「......ねぇ、いつ名前で呼んでくれるの?」

 ふいに、胸がつまった。

「今度、ね」
「いつの今度?」
「こ、ん、ど」

 理由になってない言葉を、幼い子供へ言い聞かせるようにはぐらかすことしかできなかった。ちゃんと呼んでよ? そう釘を刺したあと、成宮は午後のけだるい眠りに落ちていった。
 腿に成宮の温度と幸せな重みを感じながら、けれども私の心は迷っていた。
 名前を呼んでしまったら、きっとこの距離は縮まってしまうから。そうすることが怖いだなんて、私は本当にどうかしている。こんなにそばにいるのに、触れていいのかさえわからない。
 “地味な彼女”
 成宮と付き合いはじめてから、私が陰でそう揶揄されていることは知っていた。ブラスバンド部の可愛い一年生や、チアリーディング部の美人な同級生たちが過去、成宮に告白したことも周知の事実。ただ、自分自身は地味であることに引け目を感じたことはない。けれど、それによって成宮を悪く言われるのは我慢できなかった。
 私は成宮が好きだし、成宮も私を選んでくれた。でも、なんで私だったんだろう。
 色素の薄いやわらかな髪が、暖かな陽光を受けてきらきら輝く。同じ色の繊細なうぶ毛は、内側から発する光のように彼の頬の輪郭を縁取る。

「寝てる時でさえ光を放つのね」

 成宮の持つ光はあまりに強すぎて、たびたび私の心をくじけさせる。近づけば近づくほど、あの強い熱に焼かれて燃え尽きてしまう妄執にとらわれる。変なの、彼女なのに。
 “適度に距離を保たなければ"
 いつからだろう、そう自分に言い聞かせるようになったのは。きっとあの日、ブルペンを見た時からだ。私にもたぶん、あの距離がちょうどいい。あんな孤独な距離でさえ、彼の光はちゃんと届くのだから。
 木漏れ日の眩しさに目を閉じると、一条の光が、瞼の裏を明るく照らしていた。ああ、これは成宮の光だ。
 ――私は静かに意識を手放した。


 そのあとが散々だった。成宮の寝顔を眺めていた私もついついうとうとしてしまい、あろうことか眠りこけてしまった。気づいたら成宮はちゃんと起きて座っていて、私はその右肩に頭を預けていた。くだんのように成宮がぷりぷり怒ったのはいうまでもない。





 それから数週間経って、最初からどこか不恰好だったこの関係が、あきらかにぎくしゃくしたものに変わった。
 発端は単純だった。

『みょうじさん、本当に成宮くんと付き合ってるの?』

 隣のクラスの女子に呼び出されてそんなことを言われた。「本当に」とはどういう意味だろう。私が成宮の弱みでも握って付き合ってるとでも言うのだろうか。私は、うん、と力強くうなずいてその場をやり過ごした。それだけならまだよかった。いけなかったのはそのあとだ。
 この件がどういう筋からか成宮へ伝わってしまい、私は問い詰められた。

『なんで俺に言わなかったの?』
『別に。関係ないと思ったから』

 これは私自身の問題だったから。
 そう、と怒りの中に淋しげな色をにじませて去った成宮に、私はどうすればいいのかわからなかった。
 私たちの関係は早くも暗礁に乗り上げていたのに、私にはその距離を縮めればいいのか、いっそ離れてしまった方がいいのか、そのどちらも選ぶことができず、ただその真ん中で頼りなく漂っていた。
 やっぱり私には、あの光は眩しすぎたのかもしれない。

『明日あの時間に、ブルペン来て』

 数日後、成宮にそう言われた時、ああ、ついに振られるのか、と思った。『あの時間』とは、私と一緒にブルペンへ行った時のことだろう。
 だけど何もせず別れるのはあまりに悲しかったので、私はできる限り今の気持ちを成宮に伝えようと決めた。





 ブルペンへ足を踏み入れると、あの日よりずっとひんやりした空気があたりに漂っていた。マウンドに立つ、黒っぽいジャージ姿の成宮が、ゆっくりとこちらを振り返る。ほんとマウンド好きなんだから。

「おはよ、成宮」
「はよ」

 ゆっくりとマウンドの成宮へと近づいていく。一歩、二歩。どの距離ならいい? どの距離ならうまくいく? そんな風に互いの距離を測りながら。
 すると、成宮の濁りない瞳が、まっすぐに私を捉えた。

「俺、絶対別れねーから」

 意思の強い声が、静謐な朝の空気に響く。

「なまえの気持ち確かめるまで」

 眉を寄せて仁王立ちになった成宮の瞳に、若干の弱さみたいなものが浮かぶ。なんだろう、これ。まるで私が別れたいと思っているような口ぶりだ。違う、違う、違うのに。

「私、別れたいなんて思ってない」

 成宮は疑うように「ほんとに?」と顔を歪ませる。こんな顔させたいわけじゃないのに。私は成宮と違い、いつだって言葉が足りない。

「なまえ、俺といてもあんま楽しそうじゃないから」
「......そんなことない」

 徐々に距離をつめていく。成宮まであと30センチ。
 だめだ、近づきすぎた。
 そう思い無意識に後ずさった瞬間、成宮に腕を掴まれた。そのままぐっと広い胸元へ引き寄せられる。すると、私のおでこに、やわらかくて不思議なぬくもりが触れた。

「......な、に?」

 もしかして今、キスされた? ゼロ距離なうえ、キスされたことにパニックになって、思わずおでこを押さえる。すごく熱い。

「なまえって頑固でガード固いくせに、変なトコがら空き!」

 むすっとした面持ちの成宮が叫ぶ。

「それ、どういう意味?」
「名前は呼んでくれないくせに......」
「......なんのこと?」

 疑問符を浮かべる私に、成宮は「だーかーらっ!」と駄々っ子のように地団駄を踏んだ。

「お弁当の『あーん』とか! 無防備にぐーぐー寝ちゃうとことか! あれ、無意識でやってんの?」
「え、え」
「ほんと、心臓に悪いんだよ......」

 野球部員にしてはあまり日焼けしていない頬。きっと元々の色素が薄いのだろう。そこへふわっと朱がさしていく。

「私『あーん』なんてした?」
「したじゃん! お弁当のウィンナー」

 つかの間考えてから私は、ああ、とつぶやいてそれを認めた。あのウィンナーは成宮にとって、恋人同士の甘い『あーん』だったのか。自分自身にそんな自覚がなかったものだから、まったく気づかなかった。

「そうやって距離縮まったかと思ったら離れるし......」
「そっちこそ」
「いや、なまえだね」
「成宮だよ!」
「いーや、なまえ!!」

 どこかおもはゆい顔をする成宮と、視線が重なった。きっと今の私も同じ顔してる。そう思うと、次にわき起こった感情は笑いだった。もちろん、目の前の成宮も。
 くしゃくしゃに笑うその愛しい頬に、どうしようもなく触れたい。

「あーもうっ! 俺たちってもしかして似た者どうし?」
「ね、そうかも」

 縮まっては離れ、離れては縮まって。こんなばかばかしいまわり道を繰り返して、私たちの距離はまた、ゼロになる。
 成宮はどこか泣きそうな顔で、ねぇ、と呼びかけた。

「名前、呼んでよ」

 その掠れた声は、せつなげな響きをもって私の鼓膜を震わせるから、もう前みたいになだめすかすことはできない。
 あの日より夜明けの時間は遅く、まだ太陽は昇っていないのに、成宮からはあの日の光をちゃんと感じることができる。けれど私は、もうその光に怖気づくことなく、目の前のやわらかな頬にそっと手を添えた。

「......め、ぃ」
「......うん! なまえ!」
「いや、ヒツジの鳴きマネ」
「なにそれ!!」

 ――少しずつ、ゆるぎなく、近づけたなら。

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