あんたと百年傷つかない戦争
「倉持のバカッ!」
「バカっつー方がバカ!」
「バカってゆうバカがバカッ!」
私は唇をぎゅっと噛みしめて、正面にいる目つきの悪い男をねめつけた。
「あ?」
それに負けじと眉を寄せ、口を歪めた、一昔前のヤンキーよろしくの表情で私に詰め寄る倉持。
別に、私を怖がらせようとそんな顔をしているんじゃないことくらいわかっている。おそらく中学時代のクセが抜けないのだろう。その顔に、内心ちょっとだけひるみつつ、こちらも負けじと言い返す。
「“若菜”にデレデレしてたくせに......」
「ハァ? 若菜だぁ?! いつの話だよ」
「夏大の時だよ!」
「今もう九月だろ! つーか、そんな昔の話、今さら蒸し返すなっつってんだよ!」
「あん時はバタバタしてたから言えなかったんじゃん!」
「そーかよ!」
乱暴に吐きすてて、倉持はぷいっと窓の外を見た。
近くの席の御幸が、やれやれという表情でため息をつき、スコアブックに視線を落とした。私たちのこの日常茶飯事のやりとりに慣れきった御幸は、当初からまったく干渉してこない。
クラスの面々も、またかとあきれていたり、どこかおもしろそうに観察していたりとそれぞれだ。私たちのこれはもうB組の名物らしい。
私と倉持はケンカの絶えない関係だ。周りからは、B組のケンカップルなんて呼ばれ、付き合う前から痴話ゲンカとはやしたてられていた。けれど、付き合ったら自然、ケンカも減るものと思いこんでいたのはどうやら間違いだったらしい。
今回だって、きっかけは本当に些細なことだった。夏大の時に、後輩である沢村くんの知り合いの“若菜”に、倉持が熱い視線を送っているところを目撃したのだ。その当の“若菜”はすごく、ものすごく可愛いかった。
わかってる。これがみにくいヤキモチだってことくらい。なのに、倉持の前で素直になると仲直りするたびに誓っても、また私は同じあやまちを繰り返してしまうのだった。
これが二日前の話。そして、私たちは未だ仲直りできずにいる。いつもだったらどちらかが折れて、すぐ元のさやにおさまっていた。でも最近の倉持は、新チームの副主将として日々奔走しているため、私にかまっている余裕がないんだろう。そもそもこんな時、彼女である私が一番に支えなくちゃいけないのに。
倉持は一見、粗暴に見えて、本当は人一倍まわりの人間を思いやっている優しい奴だ。今までどんなに衝突して口ゲンカをしても、倉持は一度だって私を真に傷つける言葉を吐いたことはない。それは意識して、というより、その元来の性格がそうさせるのだと思う。だけど私はいつも倉持を傷つけてばかり。
四時間目は体育だった。もう九月だというのに、今日は夏がぶり返したんじゃないかというほど気温が高い。ぎらつく太陽のせいで、うっとうしいほど汗をかきひどく気持ち悪かった。
体育の授業が終わったあと、さっぱりしたくて、私はグラウンドのそばの水場で顔を洗っていた。蛇口から吐き出されるキンと冷えた水をばしゃばしゃかけていると、身体中の熱が徐々にやわらいでいくのを感じていた。
いつも私は倉持の前で熱くなってばかり。たまにはこんな温度で倉持と接することができたら。
そんな淡い希望を抱きながら、ふぅ、と息をついて水を止めた。
するとその時、キラリと鈍く光る蛇口に、歪んだみにくい自分の顔が映りこんだ。
「なんでこんなかわいくないの......」
それが無性に腹立たしくて、角度を変えて可愛く映る方向を探す。けれど、可愛い自分なんてどこにもいなかった。
「はぁ、もっと素直になりたいな......」
「なんだって?」
突然、背後から飛んできた声に肩がビクッと震えた。今、もっとも会いたくない相手だ。こんな可愛くないところ見られたくないのに。
「な、なんでもない」
「ふーん、あっそ」
倉持は平坦な調子で言って私の隣に並んだ。
私はそれを横目に、そばに置いたタオルを取ろうと手を伸ばした。だけどその時、すすっと。それはなぜか、私の手をすり抜けて移動する。その先を辿ると、倉持がどこか白々しそうな様子で、タオルを軽く振り回していた。
「なにすんのよ」
「別にィ」
さっきの冷静な気持ちはどこへやら。
「返してよ」
いつもの熱がぶり返す。
「へっ、取れるもんなら取ってみろ」
「もうっ、返して!」
「やなこった!」
その手は高く掲げられ、白いタオルが雲ひとつない真っ青な空へ鮮やかに踊る。私の手はそれを掴むことなく空を切った。私の必死な様子に倉持は、ヒャハッと得意げに口の端を上げる。
むむむ、となかば意地になり、それならと蛇口をひねった。手のひらに冷たい水をたっぷり溜め、それをにやけ顔の倉持の顔にお見舞いしてやる。
「ぅぷっ」
水をもろに受けた倉持は、猫が水を嫌がるように顔をぶんぶん振った。
「なにすんだよ!」
「その寝ぐせ直してやろうと思って」
「ハァ?! 寝ぐせじゃねーよ!セットだセット!!」
コノヤロォ、とぼやきながら倉持が素早く蛇口をひねると、すぐさま反撃がはじまった。冷たい水が私の顔にパシャっとはじけて目がくらむ。
「なにすんのよ!」
「お返しだコラァ!」
「っ、もう!」
それからはもう、なにがなんだかわからないくらい水かけの応酬だった。くたばれとか、仕返しとか、お互い支離滅裂な言葉を叫びながら、めちゃくちゃに水をかけあう。
ひととおり戦ったあとにはもう、顔はおろか、体操着の上もかなり濡れて肌にはりついていた。倉持の方も似たり寄ったりな様子だ。
「あーあ。もぉ〜、びしゃびしゃじゃん」
「俺もだっつの」
「倉持、髪ぺしゃんこだ」
「うるせぇ! 誰のせいだと思ってんだ!」
そうやって文句を交わすけれど、お互いの声はどこか弾んでいた。
倉持は気まずそうに、私の胸のあたりをちらりと一瞥してから
「なまえ、ちょっとエロい」
とつぶやく。
「バカ!!」
その締まりのない顔にもう一発、水をお見舞いしてやった。
だけどしばらくして、急にふつりと会話が途切れ、場違いなほどの沈黙が訪れた。
あ、なんか今。謝るなら今かも。
こんな楽しい余韻でなら、素直になれる気がする。
顔についた無数の水滴がつつ、と流れていくのを感じながら、心の準備をするため顔を伏せる。意を決して、すっと息を吸い込んだ。
すると突然、バサッと頭に何かがかけられた。うつむいた視界の両端に、何か白いものが揺れる。
「な」
口を開きかけたところで、その上から、タオルごと私の頭をぐしゃぐしゃにかき混ぜられた。大きく乱暴な手つきなのに不思議と痛くはない。
「ちょ、ちょっと、倉持?」
戸惑いながらも、嗅ぎ慣れない柔軟剤の香りに、これが倉持のタオルだということに気づく。その不器用な優しさと心地よさに、私は次第に身を任せていった。そのやわらかな香りに包まれながら私は、自分の意地っぱりな心がゆっくりほどけていくのを感じていた。
「倉持ごめんね......」
「あ?」
「素直じゃなくてごめん」
「いつものことだろ」
「“若菜”のことも、ごめん」
「あ、もしかしてお前ヤキモチかァ?」
ふいを突かれて言葉につまってしまった。でも、ここで憎まれ口を叩いたらまた同じことの繰り返しだ。
私の沈黙を肯定と受け取ったのか、倉持は何も言わなかった。
「倉持?」
「うるせぇ!」
その手はさっきより乱暴に私の髪をかき混ぜた。
これはもしかして照れてるのかなと想像すると、今どんな顔をしているのか見てみたくなる。だけど頭のタオルをどけてくれる気配はなかった。私はもう一度心を落ち着けるようにして、告げた。
「......倉持のこと、いっぱい傷つけてごめん」
ずっと淀んでいた言葉をやっとのことで吐きだすと、瞼の裏が涙の気配でじんわり熱くなった。今なら多少泣いたって、顔についた水滴だと思ってくれるかもしれない。なんて都合のいいことを考えながら。
倉持は一瞬、黙りこんだ。
「......オイ、いつもの威勢はどうしたんだよ。らしくねぇ」
「だって」
ゆっくり顔を上げると、倉持の顔からはふざけた様子は消え、いつになく引き締まった表情をしていた。
普段は逆立てている髪が、今は水を吸って頬に張り付いていた。髪を伝って小さな雫がひとつ、ぽたり、ぽたりと、からからに焼けて乾いたアスファルトにしみを作る。
逆立てた髪が下りて感じが変わったせいか、その顔はぐっと男らしく映った。いつもと違う倉持の雰囲気に戸惑いながらも、言葉を続ける。
「これからは私、もっと素直になろうと思う」
「なまえが?」
「うん、もっと素直に......。暴言とか文句とかもっと抑えて」
けれど倉持は、なんだそれ、と眉を寄せた。
「だから、いつも私たちケンカばっかりだし、もっと丸くなろうって」
「......言いたいこと言わねぇなまえなんて気持ち悪ィ」
「なにそれ! 私はもっとケンカを減らそうって」
「何度でも傷つけろよ」
はっとするような真剣さだった。
吊りぎみのその目。瞳に、曇りのないまっすぐさが強く宿る。
「なまえに何言われたって傷つかねーから」
「な、なにそれ......バカなんじゃない」
「ハッ、そーかもな!」
「ほんとバカだよ。倉持、バカすぎるよ......」
先ほどの言葉が心へ波紋のように広がってゆき、視界はみるみる涙でかすむ。ニィっと歯を見せた倉持の顔も歪む。
どうして。どうしてこの人は、こんな強いことが言えるのだろう。
日焼けしたたくましい両腕がすっと伸ばされ、頭に乗ったままのタオルの端を静かに掴んだ。視界が徐々に倉持の顔でいっぱいになる。互いの顔を隠すようにそっとタオルがひっぱられ、視線が絡み合った。
こんなとこで堂々とするんだ。
タオルで隠れるからいーだろ。
視線だけで、そんな他愛ないやりとりができる幸せ。
倉持を傷つけるかもしれない震える私の口は、目の前のやわらかなそれによってふさがれ、これ以上ない休戦の合図になった。
title:さよならの惑星