橙に焦がれて

 ーーついに、ついにこの時がやってきた。

 自分の頬が、次第にぽぅっと火照っていくのを感じていた。恥ずかしくて、目の前の純の顔を直視することができない。そこから少し視線を落とすと、その男らしい喉仏が、ごくりと上下するのがわかった。
 そうだ、目を閉じなきゃ。
 私は、次の瞬間味わうであろう感触を心の中で描きながら、そっと瞼を閉じた。



「バカバカ! もうっ、信じんない純のヤツ!!」

 びりびり。びりびり。ファイルの中の不用なプリントを破っては捨てる。私のストレス解消法だ。ゴミ箱を自分のイスの前に持ってきて、ひたすら気のすむまで白い紙を裂いてゆく。

「まぁまぁ、落ち着きなって。昨日のこと、まだ怒ってんの?」

 いつも相談にのってくれる友達の友は、私をなだめながらも、その口調はどこかおもしろがっているふしがある。だって、顔が全然深刻そうじゃない。

「いつもながら盛大だね」

 友の隣の小湊も、どこか似たり寄ったりな感じだ。純への不満がある時は、私はたいていこの二人にぶつけることが多い。

「あのシーンでよ? あのシーンで『髪に葉っぱがついてるぜ』って? 期待させるなバカスピッツ!」
「ははは、伊佐敷くんらしい」
「あのチキンめ......」
「もう付き合って半年くらいだっけ?」
「うん......」

 ちょうど半年前に、純と私は付き合いはじめた。三年生になってすぐのことだ。今はお互い受験生の身。
 私たちの関係といえば、手をつなぐまでおよそ二ヶ月。ハグするまでおよそ五ヶ月。二人とも、付き合うという経験自体初めてで、馬鹿正直なほど、清く正しい男女交際を地でいく私たちだ。
 野球をしている時の純は、男らしくてたくましい。けれど、付き合いはじめてから、純と深く関わるなかで、純の中の繊細で優しい面をたくさん発見した。付き合う前から、そういった性格は知っていたけれど、以前よりその面に触れる機会が増えてきた気がする。純のそういった性格は、女兄弟のなかで育ってきたことや、大の少女マンガ好き、という要素もおおいに関係していると私は踏んでいる。
 私はそんな純の一面も大好きだし、男女の段階をゆっくり踏むのは、純が私を大事にしてくれている証だとも理解している。でも、それでも時には強引に、奪い去ってほしい時だってあるのに。

 私がストレス解消する横で、友と小湊は好き勝手に言葉を交わしていた。

「なんていうか、あれだね。伊佐敷くんって意外に草食系? あーんないかつい顔してるのに」
「でも、犬って雑食でしょ?」
「そっか、じゃあベジタリアンな雑食系だ」
「へぇ、うまいこと言うね」

 友が、まぁね〜、なんて言いながら小湊と一緒になって笑っている。私の落ち込み具合に対して、この二人の牧歌的な雰囲気はどうだ。他人事だと思って。

「そんな属性聞いてないっ」
「はは、ごめんごめん」

 その時、ガラリと教室の戸の開く音がした。

「おい、なまえ! 帰ろうぜ」

 職員室で用事をすませた当の本人が、教室へと戻ってきた。何も知らないこのヒゲ面が、今は少しにくらしい。
 純がちらりとゴミ箱の方へ視線をやる。

「......今日はもういいよ。さっさとハウスすればいーじゃん」
「あ?」

 口をへの字に曲げた純が、つかの間、私の顔を見つめる。

「行くぞ」

 それからふいっと顔をそむけて、ずんずんと先に教室を出てしまった。バカ犬、と小さく呟いて仕方なく鞄を掴む。
 私があとを追うため、歩きだした時だった。

「みょうじ」

 小湊の囁くような声色に、私はそっと振り返った。

「なに?」
「あのさ、今日は夕焼けがきれいみたいだよ」
「......夕焼け?」
「オラ! さっさと行くぞ!」
「あ、うん! ......バイバイ、また明日ね」
「バイバイ」

 どこか意味深な笑みを浮かべて手を振る小湊に、私は疑問に思いながらも、とりあえず手を振り返した。



 純が野球部を引退したあとは、時間に余裕ができたため、こうして私を自宅まで送ってくれることがある。たまに図書館で一緒に勉強したり、ファミレスに寄ったり、現役の頃には考えられないほど一緒に過ごせる時間が増えた。
 けれど今日の私たちは、教室を出てからも終始無言で歩き続けていた。昨日のこと、私も純もまだ引きずってるんだ。

 ちょうどその時、近所の公園の入口にさしかかった。この大きな公園は、家族やカップルに絶大な人気を誇るスポットだ。でも、帰宅するために、必ずしもここを通らなければいけないわけではない。だからこれは、少しでも長く一緒にいたいという思いからくる、定番の寄り道コースだった。
 公園のほとんどを占める巨大な池には、ボートの設備もある。今は平日の夕方のため、もう受付を終了してしまったのか、古いボートが船着き場に寂しげに浮いていた。
 私は池の方を見るともなく、ぼんやりと眺めていた。
 この池の付近は、まさに昨日、キス未遂事件が起こった現場でもある。きっかけは本当に葉っぱだったと思うけれど、その時に交わし合った視線は、本番を予感させるには十分だった。と、私は思っているけれど、もしかしたらそれは勘違いなんじゃないかと不安になる。
 その一件のあと、私は途端に不機嫌になり、結局そこで別れて一人淋しく帰途についた。その日はずっと曇り空だったのが、一人で歩きだした途端、ぽつぽつ降ってきたものだから気分はまさしくどん底だった。

 昨日のできごとを反芻していた時、隣を歩く純のローファーが、急にぴたりと足を止めた。スパイクはボロボロのくせに、意外にきれいな純のローファー。

「あのよぉ、今日は夕日が、その......きれいだな」
「......うん」

 夕日がきれいなんて、純もよっぽど言うことがないんだろう。そんな風に気を遣わせてしまっている自分に、ひどく苛立ちを覚える。私は、自分の中のもやもやを処理しきれずに、無言でそのローファーの先を睨みつけていた。

 どうして昨日、純はキスをためらったんだろう。私の目をつむった顔がヘンだったから? それとも、絶対に考えたくないけど鼻毛でも......いやまさか。あそこまできて、やめる理由がわからない。でも、どうしてキスしてくれないの、なんて女の私から言い出すのは恥ずかしい。そんなのいかにも物欲しそうだからだ。
 私だって、この複雑にからまってダンゴ状態になった糸をほどいてしまいたいのに、その方法がわからない。家族のケンカとも友達のそれとも違う。本当は早く仲直りしたいのに、それでも昨日の件を水に流すことはできない。

 それから純は、意を決したようにすっと息を吸い込んだ。

「......昨日、悪かったな」
「......その『悪かった』は、昨日の......キス、のことでいいんだよね?」

純が、ぶすっとした顔でかすかに瞼を伏せたので、私はそれを肯定と受けとめた。

「昨日、どうして途中でやめたの?」

 純はしばらく黙ったまま、地面を見つめていた。
 私たちのそばを、小学校三・四年生くらいの女の子二人が通り過ぎていく。ひそひそと子どもらしい声で「カップルだぁ」なんて呟きながら。
 そうか、私たちは一応カップルに見えるのか。でも、付き合いはじめてから思い通りにいかないことばかりだ。

「お前さ、この公園のジンクス、知ってっか?」

 唐突に話しはじめた純の声は、わずかにうわずっていた。

「ジンクス? 」

 急に何を言いだすんだろう。こんな強面の純から、いかにも女の子が好きそうな単語が飛び出したのが少し意外だった。

「ああ、あの池のボートにカップルで乗ると別れるってやつでしょ?」
「おう」
「あと、あの白いベンチにカップルで座ると別れるとか?」
「......おう」

 なんだこの男は。こんな不穏な雰囲気の時に。もしかしたら、別れようって前触れじゃないのかと胸がざわざわしてくる。

「それもあるけど、その、あと他にもあんだろ」
「えー? 他にって......。夜には人面犬が出るとか? その正体は実は純とか?」
「んなわけあるか! つか、そりゃ都市伝説だろーが!」

 しばらく腕を組んで、うーん、とうなってみる。残念ながら他に心当たりはない。

「おら、もっとあるだろ!」
「そんなこと言われたってわかんない......」

 だいたいこの公園のジンクスときたら、「××すると別れる」というあまり好ましくないものが多いと記憶している。地元民の私でさえ、その他のジンクスなんて聞いたこともない。
 それから純は、すっと池の方へ視線を移した。今日は昨日とはうって変わって、美しい夕焼けが西の空を染め上げている。夕日をそのまま飲み込んだような池。きれいなオレンジ色が、純の健康的な頬に当たる。
 しばらく私が純の顔を眺めていると、その頬が決意したように動いた。

「さっきのジンクスな。......この公園で、夕焼けがきれいな時にカップルがキスすっと」
「すっと?」
「......その愛は、永遠のものになる」

 ......らしいぜ、と、消え入りそうな声で続ける。目の前の、純の日焼けした頬が、ほんのり色づいていくのがわかった。夕焼け色に、少しだけ朱を混ぜたような。

「そっ」

 そんなの聞いたことないよ、という言葉を寸前で飲み込む。教室での別れ際、『夕焼け』と発した時の、小湊のわずかに弧を描いた口許を思い出したからだ。

「......女子はそんなん好きだろ?」

 純は唇をとがらせながら下を向いた。
 じゃあ昨日のあの一件って。

「もしかして、昨日は天気が悪かったから?」
「......おう」

 私は、ジンクスや占いの類はあまり気にするタチじゃないから、その点においては純の方が十二分に乙女思考だと思う。
 ほんと小湊のやつ、純の性格よくわかってるなぁ。
「少女マンガの読みすぎなんじゃない」 
「小湊に一杯食わされんだよ」
 からかいの言葉なら、いくらでも並べることはできる。でもそれよりも私は、こみ上げるあたたかい気持ちで心が満たされていた。

“たかがジンクス”

そんなもののために一生懸命な純が、たまらなく愛おしい。

「ぷっ、ははは。ほんっと......純って」
「うるせぇな!」
「ねぇ純。そのジンクス、実行しよう」

 ほとんど反射的に、足が一歩、前へ出る。私はとても自然な動作で純に抱きついていた。女の子だって、時には欲望に正直にいきたい時がある。
 純は一瞬、身を固くしたあと、壊れものを扱うようにこわごわと抱き返してくれた。しばらく互いの感触を確かめあったあと、触れ合っていた体を緩やかに離していく。いつもとは違う、純の熱っぽいその瞳に囚われて、私は目を背けることができない。
 その時いきなり、私の腰が純の大きな手によってぐっと引き寄せられた。
 ばくばくばくばく、心臓が壊れてしまったんじゃないかというほど、急激な音が鳴る。
少し怖くなってぎゅっと目をつむると、硬い感触の指先が、私のおでこをそっと撫でた。そのままそれが、やさしく頬へと移動する。

「なまえ」
「......うん」
「好きだ」

 私も、とは、言えなかった。
 返事さえ許さない、不器用なまでの性急さ。けれど、かすかに触れるだけの、消えてしまいそうなほど儚い口付け。それは、純が私を大切にしようとしている想いなんだとわかっているから、余計に愛おしさが募る。
 こっそり薄目を開けると、純の肩越しから、水面に揺れるやさしい橙色が見えた。


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