やわらかな熱

「そういやお前っておでこ出さねぇよな」

 さっきまで彼女の私よりもスコアブックに熱を上げていた御幸が、急に思い出したように言った。おおかた、今私が手元でヘアカタログを広げていたからだろう。
 お昼休み、私はいつものように御幸の前の席のイスに座り、一つの机で御幸と向かい合わせになって雑誌を見ていた。今日は暖かいので、窓際の御幸の席は最高の場所だ。

「だって、おでこ広くてキライなんだもん」
「へぇ、ちょっと見せてみろよ」
「嫌」
「ケチ」
「なんとでも言って」

 御幸は呆れたようひとつため息をついて、再びスコアブックに視線をおとした。私も先ほどと同様にヘアカタログを見るともなしに捲りはじめる。
 倉持いわく、私たちは「おんなじ部屋にいるのにそれぞれ3DSやってる小学生みてぇ」らしい。認めるのは癪だけれど、確かに私たちの間には甘い雰囲気は一切なく、一緒にいてもお互いの行動に没頭していた。

「これとかお前に似合うんじゃね?」

 御幸のゴツゴツした長い指が、一人のカットモデルの写真を指している。いつもは、切り捨てた話題を蒸し返したりしない御幸が、今日は珍しく食い下がった。それはヘアアレンジのページで、そのカットモデルは前髪を上げてポンパドールにしていた。つるつるの額が、女の私から見てもとても可愛いらしい。

「そんなこと言ってるヒマがあったら、打者の特徴の一つでも覚えたら? ほら、御幸の第二夫人」

 私は机の上に広げられたスコアブックを、ぐいと御幸の方へ寄せる。もしかしたら私の方が第二夫人かもしれないけれど。

「つれねぇなぁ。第一夫人は」
「はいはい」
「なぁ〜なまえちゃん、おでこ」
「しつこいなぁ。私小学生の時、おでこ出してたら男子にからかわれたことがあったの。それ以来、前髪作っておでこ出してない」
「ふ〜ん、最後に見たのはその男子か」

 だからなんだって言うんだろう。今の私には、数年ぶりにおでこを解禁する気なんかさらさらない。しかも御幸の前で。

「御幸はおでこ出すと雰囲気変わるよね。キャッチャー用のヘルメット被ってる時さ」
「そうか? そんな変わんねぇと思うけど」
「うーん、なんかこうワイルドになるかな」
「え? 今なんつった? もっかい言って?」

 御幸がこんなニヤニヤ笑いを浮かべる時は私をからかっている時だ。

「もう忘れた!」
「えー?」

 そんな風に意識されると、もうさっきのセリフは言えなくなってしまう。
 御幸のファンの子たちの間では、普段の眼鏡をかけている御幸と、部活の時スポルディングサングラスをかけている御幸との見た目のギャップが最高らしい。確かにその雰囲気はガラリと変わって、でもそのどちらもすごくかっこよくて私もその意見に同意する他ない。でも私がおでこを出した場合、そんな素敵なギャップが現れるはずもなく、今より可愛くない方向に転ぶのは確実だった。

「絶対コレ、お前に似合うと思うんだけど」

 御幸は未練たらしくさっきのモデルをもう一度指した。

「そんなこと言って、そのモデルが気に入っただけじゃないの?」
「はぁ? 何言ってんだお前は」

 自分でも可愛くないという自覚はあった。私はいつもこうだ。もっと御幸の前で素直になれたら、と思う。

「もうこの話題は終わり!」

 雑誌のモデルに嫉妬するなんてバカみたい。けれどそんな思いとは裏腹に、やっぱりこれ以上この可愛いモデルの子を見てほしくなくて、私は勢いよく雑誌を閉じて手元に引き寄せる。その時、雑誌の角がスコアブックに当たって床に落ち、バサッと音をたてた。

「あ、ご、ごめんね......」

 御幸の大事にしているものだ。私は慌てて床に屈み込みスコアブックを拾い上げた。

「悪りぃな」
「ううん。大丈夫」

 表紙についた埃を丁寧に払って立ち上がろうとした。でも次の瞬間、ガンッと激しい音をたてて私のおでこに鋭い衝撃が走った。

「痛っ!!」

 スコアブックの用紙が折れていないか気にしていたせいで、私は机の角に思いきりおでこをぶつけてしまった。そこからじんじんするような激痛に襲われる。私の手を離れたスコアブックが再び派手な音をたてて床に広がった。

「おい大丈夫か?!」
「っ〜〜」

 私はおでこを押さえてうずくまった。

「ちょっと見せてみろ」
「い、いい......。大丈夫」
「馬鹿野郎! 顔だぞ!」

 私は御幸の剣幕に驚いて顔を上げた。そこには私の様子を覗きこむ、御幸の心配したような顔があった。

「......ごめん。どんな感じか見てくれる?」
「おう」

 私は観念して自ら前髪を上げた。ただでさえ可愛くないおでこ丸出し状態のうえたんこぶだ。泣きっ面に蜂もいいところだけれど、御幸に心配かけるよりはマシだった。けれど先ほどの剣幕とは裏腹に、御幸は私の顔をじっと見つめていた。

「え? 何? そんなひどいことになってるの?」

 たんこぶがひどすぎるのか、はたまたおでこ丸出しの合わせ技で私の顔が想像以上にブサイクだったのか。私はドキドキしながら御幸の次の言葉を待った。

「あのさ、こんな時に不謹慎だけど......」
「何?」
「なまえ、すっげ......可愛い」

 はにかむように笑う御幸を見ていると、こちらまで恥ずかしくなってくる。たんこぶの患部がただでさえ熱いのに、御幸のせいで更にそこが熱くなってしまった。

「御幸のバカ......」

 私はその熱に耐えきれなくなり、イスに座ってぷいと窓辺の景色を見るふりをする。「ごめリンコ」なんておどけているけれど、許してなんかやらない。

「なまえちゃ〜ん、保健室行こうぜ」
「わかってる」

 そばにいる御幸の様子を伺うと、奴はスコアブックを拾い上げ、なぜかそれを立てた状態にして机に広げた。まるでクラスメイトの目線を遮る壁でも作るみたいに。御幸はその壁に自分の顔を隠すようにして、姿勢を低くする。

「なまえ......」

 指で私にちょいちょいと合図を送る。御幸が何かを企んでいる予感がぷんぷんしたけれど、私はもうおでこを見せたことで何かが吹っ切れてしまった。今日はおとなしく御幸に従ってみよう。

「何......?」
「いいからいいから」

 私も御幸に倣って姿勢を低くし、スコアブックの陰に顔を隠す。それから御幸はニーッと笑ったあと、私の顔に自分の顔を近づけてきた。

「なっ?!」
「しーっ」

 人差し指を口元に当てて、静かにしろのポーズ。息がかかるくらいの距離まで近づき、私のおでこに自らのおでこを合わせる。

「痛いの痛いの飛んでけ〜」
「ちょっと......逆に痛いんだけど」
「ははっ、我慢我慢」

 なんて無茶苦茶な理屈。私の心臓は、今にも口から飛び出しそうなくらいどくどくどくどく速く強く脈打つ。

「おでこ出したなまえ、赤ちゃんみてぇでいいと思うぜ」
「それって褒めてんの?」
「おう」
「......ありがと」
「今日は素直でよろしい」

 ずきずきするたんこぶは熱を持っているはずなのに、触れ合った御幸の額との温度差はあまりなかった。御幸ももしかして緊張してるのかな。
 ああもう、早く保健室に行きたいような行きたくないような。だけどこのままでは私の心臓がもたない。私は御幸にバレないように、そっと自分の胸に手を当ててそこにエールを送る。もう少しだけ、頑張って。

 スコアブックの向こう側で繰り広げられた情事は、私たち二人だけの秘密だ。


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