午睡

 旧視聴覚教室の鍵を拾った。
 学校の新しい視聴覚教室は、最新のオーディオ機器が揃い防音設備も完璧で、カーペットは新品の綺麗なものが敷き詰めてある。
 「新」があるので「旧」は滅多に使われない空き教室になった。半年後には、別の用途に使用するための工事が始まるらしい。
 一ヶ月前、偶然廊下の端で拾ったここの鍵を私は返さなかった。あの人のシエスタの場所には最適だと思いついたからだ。



 二階の廊下の一番端っこ。私たちの秘密が眠る場所。
 例の鍵を差し込み静かにドアを開ける。旧視聴覚教室は、午後の暖かな光が降り注ぎ、カーペットに明るい色と暗い色をつくる。見つかってしまうといけないので、あえてカーテンは引かない。向かい合う校舎はないので、教室の中まではどこからも見えない。

「今日はあったかいね」
「そうだな」

 周りを確認してからそっとドアを閉めて鍵をかけ、用心棒をかませる。
 御幸はここに入るときまって、あくびをひとつする。パブロフの犬というやつだろうか。けれど、あくびをする御幸はどこか猫っぽい気がする。
 教室の一番後ろ、綺麗にしたけれど少しだけ埃っぽい。御幸は眼鏡を外し、正方形がぴっちりと詰まったカーペットの上に気持ち良さそうに寝転んだ。両手は自然にお腹の上に乗せている。
 私は壁に寄りかかって座った。いつものように、携帯のアラームを五時間目の始まる十分前にセットしてから視線を交わし合う。

「おやすみ、また後ほど」
「おう、おやすみ......」

 いつもの言葉をかけ合って、私たちは静かに目を閉じた。

............

............

 三分後くらいに、私はゆっくりと目を開けた。すぐそばには、部活で疲れた御幸がすやすやと眠っている。
 恋人同士の甘いシエスタで私は眠らない。いつ先生に発見されるかわからない危険を伴うため、私はいつも門番なのだ。御幸が安心して眠れるように。鍵はかけているが、もしもの事がある。ただ御幸には、自分も寝ていると言っている。
 私にはこの時間が何にも得難い至福のひとときだった。
 無防備に眠る御幸を見つめる。
 この人は実に色んな顔を持っていると思う。毎日、黒縁眼鏡をかけ、部活中はスポルディングサングラスに変わり、時にキャッチャーマスクを被る。いつも顔には何かをつけていて、その時々によってその役割は変化する。
 クラスでの御幸、寮での御幸、キャッチャーとしての御幸、バッターとしての御幸、キャプテンとしての御幸。当然私にも、彼氏としての御幸を被っているんだろう。
 けれど今だけは、眼鏡を外して瞼を閉じた御幸は、ただのまっさらな“御幸 一也”だった。これを独占できる私は宇宙一の幸せ者だろう。
 御幸の茶色っぽいサラサラした前髪に触れたいと思う。
 陽に焼けた、笑うといたずらっぽく動く頬に触れたいと思う。
 でも私は絶対に触れない。高校球児の御幸とは、あくまでプラトニックな交際を貫くからだ。

 御幸の顔を眺めて、時折携帯の画面の時間を気にする。ただその繰り返し。時間が迫ってくると、緊張しながら液晶の数字とにらめっこする。
 そろそろだ。
 "ピピ"でいつもアラームを止める。それ以上は決して鳴らさない。こんな無粋な音で御幸を起こしたくないからだ。けれど、アラームを鳴らさないと私が起きている事がばれてしまう。御幸には「私は体内時計がしっかりしているから、アラームが鳴る直前に目覚める」と言っている。

「御幸、時間だよ」

 私は優しく御幸の右腕を揺すった。

「ああ、わかった」

 御幸はゆっくりと瞼を押し上げる。この瞬間の、御幸の長い睫毛が好きだ。

「五時間目はなんだっけ?」
「確か数学かな? やだなぁ〜」

 私は御幸から離れてドアの方を向く。名残惜しいと思いながら立ち上がろうとして、カーペットに右手をついた。御幸からはわずかに衣擦れの音がする。

「いつも起きててくれてありがとな、なまえ」

 ぽつりと差し出された御幸の言葉。
 私の一連の動きが止まる。そのまま立ち上がれなくなってしまった。
 寝転んだまま顔だけをこちらに向け、眼鏡のない“御幸 一也”の瞳は、まっすぐ私を捉えていた。

「違う、寝てるよ。私いつもグースカ寝てる......」

 違う、違う、これは私のためだ。御幸の寝顔を眺めるのはただの私の下心だ。こんな風に感謝される価値なんかない。
 私は下を向いて、違う違うと何度も首を振った。

「はは、わかったわかった......」

 御幸は聞き分けのない子供をあやすような声色で笑った。
 ああ、この人には全てばれていた。御幸はなんでもお見通しなのだ。
 急に鼻の奥がジンとして、どうしようもなく泣きたくなる。私はこの人と出会ってから、とても心が脆くなってしまった。
 顔を上げて隣を見ると、御幸も私と同じように泣き笑いみたいな顔をしていた。

決して触れない。触れないけれど、私たちの交わし合った視線の間には、確かな何かがある。
 この優しい空間だけは、永遠に二人をここへ閉じ込めてくれる。





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