愛しちゃあげないよ

 ※伊佐敷、夢主共に成人しています。

 午後八時。ピンポンピンポンとせわしなくチャイムが鳴り、こんな時間に一体誰だと覗き穴を見ると、いかにも借金取り風の強面男が立っていた。

「……うわ」

 一人暮らしの女性なら、誰しも関わりあいたくない人種だ。私はつかの間沈黙したあと、ドア越しに

「借金なんてしてませんけど」

 と言うと、

「はぁ? 誰が取り立て屋だコラ。いい加減にしろ」

 という凄みを利かせた声が返ってきた。
 凶悪な面に、乱暴な言葉遣い。近所の人が見たら本気で取り立て屋だと思われそうだったので、妙な噂を立てられても困ると、私は大きなため息をつきしぶしぶロックを外した。
 ドアを開ける直前、自身の格好を見下ろす。着古したスウェットの上下に、ボサボサの髪、ノーメイクの顔。もしドアの向こうにいるのが愛しい彼氏だったら、この干物全開の格好を取り繕う努力をしたかもしれないが、いかんせん相手はただの幼なじみ。その必要は、まずない。
 ドアを開けると、久しぶりに会う純は、私の格好に反してスーツをバシッと着込んでいた。

「おうニート、生きてっか?」

 純はニカっと歯を見せたが、

「……お引き取りください」

 私はそのままドアを閉めた。

「待てっ! 開けろ!」
「帰れば」
「おいっ!」

 しばしの押し問答のあと、私は純を部屋に招き入れた。

「適当に座ってて。今、何か用意するから……って、何もないんだけどね」

 自嘲気味に言って、キッチンを見回し冷蔵庫を開ける。中はドレッシングとマヨネーズくらいで、あとは見事に何もない。棚にインスタントコーヒーがあることを確認して、ポットに水を注ぎスイッチを入れた。
 純は物珍しそうに部屋を見回してから、ベッドのそばの空いたスペースに腰を下ろした。
 二つのマグカップにインスタントコーヒーの粉末を入れ、沸騰した湯を注ぐ。ミルクなどもちろんなく、シュガーポットだけ用意してローテーブルへと運んだ。

「はい」
「サンキュ」

 純はずずっと一口コーヒーをすすり、マグカップを置いた。

「一年ぶり? くらいか。最後に会ったのって確か去年の正月だっけ」
「そうだね」
「月日が経つのって早ぇよなぁ。入社して三年経ってもう異動だぜ。せっかく関西の土地にも慣れたっつーのに。……ってお前、この話知ってたっけ?」
「うん、この前お母さんから聞いた」
「まぁ、東京だから便利っちゃ便利だけどな。そういやこの間、久々に青道近くに寄ったんだけどそこにあった本屋が」

「純」私は言葉を遮ってその顔を見つめた。

「何の用?」

 すると純は困ったように視線を彷徨わせて、

「用っつーか……元気にしてっかなーって。お前も都内なんだし久しぶりに顔見ようと思って」
「どうせお母さんの差し金でしよ。娘が自殺でもしてないか見に行ってやってくれって」
「確かにおばさんには言われたけど、ここに来たのは俺の意志だ。勘違いすんな」
「ふーん……」
「つか、なんだその格好。オッサンかよ」
「今は誰にも気兼ねなく過ごしてるから、着飾る必要なんてないの」

 そう言い捨て、コーヒーに砂糖を入れかき混ぜる。スプーンの先のざらざらする感触すらなんだかおもしろくなくて、私はマグカップをじっと睨みつけていた。
 一ヶ月前、私は付き合っていた彼氏に振られた。三年間付き合っていたから、「結婚」という意識はもちろんあった。そろそろプロポーズされるんじゃないかと期待していた矢先の出来事だ。それまで浮気の素振りなんて全くなかったし、私にとっては青天の霹靂で、しばらく夢の中で起こったことのようで現実感がなかった。
 そして、私はそれをきっかけに仕事を辞めた。元々、限りなくブラックに近いグレーな職場は労働条件も悪く、結婚を機にきっぱり辞めようと考えていた。なんてことはない。そのきっかけが、結婚から失恋に変わっただけのこと。母とて娘が彼氏に振られたくらいでいちいち心配しないが、更に会社を辞めたとなれば一大事だと思ったんだろう。そのため、東京勤務になった純にこれ幸いと監視役を任せた。そんなところか。
 あの時――。私は抱えていた重たすぎる何もかもを、手放してしまいたかった。そうでもしないと、平静を保ってなどいられなかったから。

「それにしてもひでぇ奴だな、そいつも。そんだけ付き合ったんなら、ちゃんと最後まで面倒みろっつーの」

 面倒みろって晩年の介護か、というツッコミはさておき、

「……しょうがないよ。好きな人ができたんなら、私ががんばってもどうしようもないし」
「そいつ一発殴ってやったか?」
「ううん。……なんか何もかもバカらしくなっちゃって」
「けっ、なまえらしくねぇ。ここは俺が一発」

 とファイティングポーズをとるも、

「どうせ殴り合いのケンカなんかしたことないんでしょ。そんなおっかない顔してるくせに」
「うるせー! そこは気合が大事なんだよ!」
「……はいはい」

 純はふんと鼻を鳴らして、スーツのジャケットを脱ぎビジネスバッグの上に置いた。ネクタイを緩め、第一ボタンをくつろげると、はぁ、と息をつく。
 そういえば、純のスーツ姿を見るのは久しぶりだった。就職して数年経つけれど、お互い実家に帰省する時は私服だからかえって新鮮だ。最後に見たのは確か成人式の時。あの時は、まだ幼い顔に明らかにスーツだけ浮いていて不自然だったが、今はいかにもビジネスマン風でサマになっている。ちなみに、顎のヒゲはあいかわらずだ。
 私はうまくもないコーヒーを一口飲んでから言った。

「そういえば、本社勤務おめでとう。栄転なんでしょ?」
「まぁな。その分いろいろ大変みてぇだけど」
「よかったじゃん」

 そう言って笑うと、純もぎこちなく笑顔を見せた。
 純が東京で働くことは、先日母から聞いていたので、どのみちいつか会いに行くつもりだった。
 純は残っていたコーヒーを一気に飲み干して、

「なぁ、どうせご飯まだだろ? 外で飲み行かねぇか?」

 私は少し迷ってから、そうだね、と同意した。しばらく友達とも会わず、食事といえばコンビニ弁当ばかりの自堕落な生活を送っていたので、たまには外へ出なくてはと思った。

「じゃあ、ちょっと支度するから向こう向いといて。シャワー浴びるから時間かかるかも」
「あ? 何言ってんだ。出て行くに決まってんだろ」
「え、いいよ。そこで待ってて」
「バカヤロー。んなわけにいくかよ。下のコンビニで待ってる」

 そう言い捨てて、純は速攻で出て行った。
 もう四月に入ったが、今年はなかなか冬の気配が去らず肌寒い日が続いている。それを案じて言ったことだったが、純の方が気を遣ってくれたらしい。幼い頃から家族みたいな関係だったので、今更意識するなんてなんだかおかしかった。純に調子を狂わされた私は、熱めのシャワーを浴びると、外出用の服に着替え、軽くメイクをし、髪を整え家を出た。
 コンビニにいた純を拾って、夜の道を二人歩く。駅前にいくつか店があったなぁ、と頭の中でリストアップしつつ、久しぶりに履いたヒールの感触を懐かしんだ。
 仕事を辞めて以来、外出といえば食料と日用品の買い出しだけだったので、こういったお出かけは久しぶりだ。あまり外に出ていない間に季節は少しずつ移ろい、寒いと思っていた気温はさほどでもない。ちょうど世間では花冷えと言われる季節だ。
 純は、私を頭のてっぺんからつま先までしげしげと眺め、

「おー、化けたな」
「うっさいな。大抵の女はみんなこうだって」
「そうかぁ? お前だけだけじゃね?」

 私は純をじとりと睨んだが、その時、はたとあることに思い至って訊いてみた。

「そういや純、今彼女いんの?」
「いねぇよ。半年前に別れた」
「へぇ」
「当たり前だけどその後連絡とか一切ねぇし、女ってこういう時潔いよな」
「なに、もしかして未練タラタラ?」
「いや、そうじゃねーけど。なんかあっさりしてんなって」
「……まぁ、男の方が未練たらしいっていうよね」

 ぽつりとこぼした私を、純が訝しげに見やる。

「おい、何かあった――」
「純!! 何食べたい?!」
「あ? ああ、えーと……肉?」
「よっしゃ、この辺に刺身のおいしい店があるんだよね。そこ行こっ」
「テメェ、人の話聞いてんのか」
「急げー!」

 そう声を上げて走り出すと、純は凶悪な面であとを追ってきた。私はすぐに息が切れたけれど、純に負けたくなくてムキになり必死に走った。
 足がくたくたになった頃、赤提灯のぶら下がった目的の店を発見した。のれんをくぐって、建付けの悪い引き戸を開ける。

「いらっしゃい! 二名様で?」
「はい」

 店員に案内され、私たちは奥の座敷に座った。店内には演歌が流れ、周りにいる客たちは私たちより歳上がほとんどだ。
 純は店内を見回して、

「なまえ、シブいとこ知ってんなぁ」
「前にたまたま入ったら料理がおいしかったんだ。それ以来気に入ってよく来るよ」

 それからすぐに店員が注文を訊きにきた。

「とりあえず生二つ。……で、いいよね?」

 窺うように視線をやると、おう、と純が応える。それからいくつか料理を注文した。
 メニューをテーブルの端に寄せると、ふと視線を感じた。純はなぜかおもしろそうにニヤニヤしていたので、私は「なに?」と訊く。

「なまえとこうやって外で飲むのって初めてだな。『生二つ』とか平然と言うし、すっげー新鮮」
「……なによ、カシスオレンジとか言えばよかったわけ? おあいにくさま、私は生が一番なんですー」
「はっ、スネんなよ。なまえらしいって話だろ」

 純が熱いおしぼりで手を拭きながら笑う。
 私はテーブルに視線を落とし、ふいに純の前の彼女は、可愛らしい甘いカクテルが好きだったのかもしれないと思った。だからそれがどうした、という話だけれど。帰省の際に純と飲むことはあったが、いずれも家族と一緒の宅飲みで、こうして二人きりで外で飲むのはそういえば初めてかもしれない。
 しばらくしてから、ビールと突き出しが運ばれてきた。
 私たちはジョッキを持ち上げてから、しかし顔を見合わせて逡巡する。人はなぜ、こうしてジョッキを持ち上げた瞬間、乾杯しなくてはという気に襲われるのか。
 ガリガリと困ったように頭を掻いた純は、

「あー……、一年ぶりの再会を祝して、乾杯!」

 私も一拍遅れて、乾杯、と言った。
 恋人と別れ、会社を辞めた。そんな不幸をダブルで背負った私に乾杯できる要素は、確かに今日の再会くらいだ。コツっとジョッキが当たる鈍い音がして、金色の液体が揺れる。口に含むと、体全体に染み渡るような爽快感が広がった。
「うまい! 生き返るっ」「まーたオッサンかよ」「うっさい」そんなやり取りをしながら、突き出しの枝豆をつまみつつ、私たちは詳しい近況を報告しあった。

「まさか純が東京に来るなんてね。もう関西の地に骨を埋めるもんだとばっかり思ってた」
「いや、元々転勤は覚悟してたしな」
「ふーん。久しぶりの東京どう?」
「どうって言われても……青道いた時は野球しかしてねぇしな。わかんねぇ」
「ああ、ストイックにやってたもんねー」

 私は枝豆を口に放り込み、ぺっと皮を吐き出す。

「なまえはしばらく家にいんのか?」
「そうだね。気が済むまで休んで、リフレッシュしてから職探そうかな」
「モラトリアム期間ってやつか」
「ちょっ、やめてよ恥ずかしい。この歳で自分探しも何もないでしょ」
「いや、人生ってのは永遠の自分探しの旅かもしんねぇぜ」

 程よく酔いが回ってきた純は、今の俺うまいこと言った、という得意げな顔で頷いている。
 会社を辞め、恋人と別れた私は、どこにも所属しない、誰にも所有されない身軽な存在だ。不幸な出来事もそう捉えると、肩の荷も下りて心配事もなくなり寝不足も改善された。全てを手放したことで、私は自由になれた、そんな気がしていた。けれどそうやって気分が良かったのは最初の頃だけで、数週間経つと、そんな糸の切れた凧みたいにふわふわした自分は、今後どうしたらいいのか、時々叫び出したいほど不安になる時がある。
 私はそれを振り払うように口を開いた。

「……純の前の彼女ってどんなんだった?」

 刺身を食べていた純はそっと箸を置き、口元に手をやって考えている。

「どんなんって……まぁ、優しくて……どちらかっつーと大人しいタイプかな」
「守ってあげたくなるような」
「そうだな、うん」

 なんだ、じゃあ私と正反対のタイプか。
 無意識にがっかりしていたことに、自分自身が一番驚いていた。
 純は大学生になって初めて彼女ができた、らしかった。というのは、お互い進学のため実家を出ていたので、顔を合わせるのは節目の帰省の折、あとは簡単なメールのやりとりくらいで、純がどんなコと付き合っていたのか私はよく知らない。社会人になりそれなりに交際もしていたようだが、一時疎遠だったため詳しくはわからない。
 自分と正反対の女性を選んだということは、私は恋愛対象外なわけか。ふとそんな考えに思い至り、バカな、と自嘲する。純はただの幼なじみだ。好きだとか、愛しているとかそんな恋人のような立ち位置ではなく、家族と近しい線上にいる、そんな存在。
 目の前の純はたこわさをちびちびと食べ、ビールを流し込んでいた。さっきはそれ程感じなかったが、純の顔を見ていると、確かに数年の時を経たのだと実感する。老けたというネガティヴなものではなく、昔に比べればだが顔つきはやや優しくなり、落ち着いた雰囲気を纏っている。だけど生まれ持った精悍さは損なわれていない。
 一人っ子の私にとって、純は初めて認識した父以外の異性だった。いわば自分の中の異性のルーツのような存在であり、人生においてあらゆる場面で男性に出会う時、私はいつも無意識のうちに純を引き合いに出していた気がする。純を基準にしていたものだから、男の子はだいたいスポーツが好きなものだと思い込んでいたし、少女マンガを読むことに何の疑問も抱かなかった。小学校に入り、それらが決して当たり前ではないことに気づいたが、やはり依然として純は私の中の一つの基準であり続けた。他の誰かと付き合っていた時も、常に純の影がちらついていたことを否定できない。
 ――私は純が好きなのか。
 自分自身に問うてみる。実を言えば私は、高校生の頃、純に対して淡い恋心のような想いを抱いていた。もし多感な時期に純と過ごせていたら、私は自分の気持ちに正直に告白していたかもしれない。しかしそれを阻んだのは、単純に距離と、共に過ごした時間だった。純が寮に入ってしまい野球漬けになると、はじめは淋しいと思っていたが、人は簡単に慣れる生き物だ。すぐに目の前の生活に追われ、いつしか純のいない日常が当たり前になっていた。
 正月や夏休みに帰省した時には意識したりもしたが、そんな短い時間では想いが昂ぶるはずもなく、きっかけもないまま、私の初恋は蕾のまま朽ちてしまったのだった。
 純は今フリーだと言うし、私が一歩踏み出せば、もしかしたらこの関係は変わるんじゃないか。――そこまで考えて、いや、と否定する。向こうがこれまで何も言ってこない以上、たぶん越えちゃいけない一線なのだ。きっと向こうは、私のことをただの幼なじみだと思っている。……でも、あるいは――

「――なまえ?」

 純は私の顔を覗き込み「どうした?」と眉を寄せた。

「……なんでもない」

 意識した途端、純に自分の思考を見透かされた気がしてどぎまぎした。今日は酔いのまわりがずいぶん早い。きっと久しぶりに外で飲んだせいだ。
 酔いは自覚していたものの、私は近くにいた店員を呼びとめて同じものを注文した。純が、俺も、とジョッキを傾ける。

「あのさ、純は結婚願望ってある?」
「結婚願望? まぁ、いずれはしたいけど……。ガキは野球チーム作れるくらい欲しいな」
「九人って大家族スペシャルか」
「サッカーチームよりマシだろーが!」
「似たようなもんでしょ」
「全然違ぇよ!」

 純は乱暴にもろきゅうをポリポリと咀嚼し、手元にビールがないことに舌打ちした。
 結婚観について話すなんて、私たちもずいぶん大人になったものだと思う。自分の中の純はきっと、まだ高校生くらいで止まっているのだ。
 しばらくするとジョッキが運ばれてきたので、またハイペースで流し込んでいく。
「なぁ」純はふいに箸を止め、私を正面から見据えた。

「さっきなまえ、男の未練がどーとか言ってたけど、何かあったのか?」

 ビールが喉でぐっとつかえ、私はゴホゴホとむせた。純の奴、あんな些細な変化まで気づいていたらしい。幼なじみ相手に思わせぶりな態度を取るのもイタい気がして、私は正直に打ち明けた。

「実はさ、一週間くらい前に元彼から電話があって」
「は?!」
「もちろん今更話すことなんてないから無視したんだけど、今日また着信があったんだ」
「つーかお前、番号消してなかったのか?」
「消したよ! 消したけど、やっぱ長年付き合ってたら番号は覚えてるじゃん」

 純は険しい顔をして腕を組み、

「なんか心当たりねぇのか? たとえば
……、高価なもん借りて返し忘れてるとか」
「そんな高いもの、貸した覚えも借りた覚えもない」
「共同でデカイもん買ってその処分に困ってるとか」
「同棲してないしそれもない」

 純が挙げたのはほんの小さな希望的観測であり、実際別れた相手がもう一度連絡してくる理由なんて一つしかないことに、私はもう気づいていた。

「……今更ヨリ戻そうなんざ、虫が良すぎるぜ」

 私はそれに応えず、ジョッキの中で静かに消えてゆく泡をじっと眺めていた。
 ヨリを戻す――やっぱりそういうことなんだろう。ちゃんと電話に出て、私がぴしゃりと断ればいいだけの話だ。何も迷うことはない。もう未練はないはずなのに、けれど向こうが泣いて謝ってきたら、ほだされて気持ちなんかないくせに惰性でヨリを戻してしまうかもしれない。私はそんな弱い自分を目の当たりにするのが怖かった。

「未練はない……ないけど、電話に出るのが怖いんだ」

 私の“怖い”のニュアンスが正確に伝わったとは思えなかったが、純は神妙な顔で聞いていた。
 気まずい沈黙が流れる横で、隣の席では、中年の男性たち数人が騒いでいる。きっと会社の飲み会だろう。
 視線をテーブルに移すと、純のジョッキが空いていたので、気を取り直すように「何か頼む?」と訊いたその時だ。テーブルの端に置いていた私の携帯が、振動した。ブブブ、ブブブ、という断続的な音に肩がびくりと跳ねる。そうっと画面を覗き込むと、名前は出ておらず、080から始まる番号だけが映し出されていた。
 ああ、ついに来た、と思う。私は、顔から次第に表情が抜けていくのを感じながら、画面をひたすら眺めていた。
 しかし突然、目の前によく日焼けした逞しい手が伸びてきて、携帯を掴んだ。

「……出ていいか?」

 私は驚いて純の顔を見た。
 そのまま目を合わせながら、カクカクとぎこちなく首を縦に振る。
「もしもし」純は低く、落ち着いた声で言った。私は固唾を飲んで、事の成り行きを見守る。

「……ああ、なまえの携帯だ。ちゃんと合ってんぜ」

 純が真剣な表情で話す横で、けれど私はすでに後悔していた。自分の恋愛の不始末を、幼なじみさせるなど本当に情けないことだと。
 純は先ほどよりも声を荒げて、

「誰?! 誰って俺は――」

 と、戸惑ったように目を泳がせる。ふいに目が合うと、その顔にはなぜか自信満々な笑みが浮かんだ。大丈夫だ、と。その顔はそう言っているように見えた。

「俺はなまえの彼氏だ! テメェ、またこの電話にかけてきやがったらグッシャグシャのミンチにすんぞコラァ!! 覚えとけ!!」

 純は画面を叩き割りそうな勢いで通話終了ボタンを押し、乱暴にこちらへ携帯を寄越す。私はしばらくぽかんと携帯を見つめ続けた。
 ――切れた。これで完全に切れた。根拠もないのに、なぜかそう思えた。
 すると何がおかしいかわからないけれど、自分の中から次第に笑いが込み上げてきた。

「……くっ、はは、はははは」
「何がおかしいんだよ……」

 純がむすりと顔を歪めるけれど、私はお腹がよじれるほどの笑いを止めることができず、ひとしきり笑い転げた。

「はー……おもしろかった。今の絶対、純のことヤクザだと思ったよね、うん」
「あ? 普通に怒鳴っただけだろ」
「ミンチって……グッシャグシャのミンチって。その顔で……怖すぎるー」

 テーブルをばんばん叩くと、料理の皿がガタガタ揺れた。そうして、笑いすぎて目の端に溜まった涙を拭き、息を整えて純の方へ向き直る。一旦下を向き、握ったこぶしを見てから、ゆっくり顔を上げた。

「……ありがとう、純。おかげですっきりした」
「……そーかよ」

 その口元はむすりと引き結ばれていたが、ただ照れて恥ずかしいだけだろうと思う。

「用件もロクに訊かねぇで、あんなこと言っちまって悪かったな」

 私は、ううん、と首を振り、

「これでよかったんだよ」

 自分に言い聞かせるように言うと、純はようやく安心して笑った。
 それからはお互い、しばらくジョッキには手をつけず黙り込んだ。隣の席はもうお開きなのか、男性たちが千鳥足で帰る支度をしている。

「……なぁ」

 唐突に純が言った。その顔は、もう正念場を迎え終えたというのに真剣そのものだ。

「ん?」
「さっきの話」
「さっき?」
「電話で言った、俺がなまえの彼氏だってホラ」
「ああ」
「――それ、本当にしてみねぇか?」
「…………。はいぃ?」

 思わず素っ頓狂な声がもれた。

「ほら、俺ら別れたばっかでちょうどいいし」
「…………」

 すると何か。別れた余りもの同士でワンペアできてちょうどいいということか。まさかカードゲームでもあるまいし、そんなの――バカにするにも、ほどがある。

「……いいね、それ」

 私が小さく呟くと、純はまるで共犯者のようにニヤリと笑った。

「だろ?」

 その提案は驚くほど合理的で、ロマンスの欠片もない。こんな寂れた居酒屋に似合いの展開だ。――でも、悪くない、と思う。

「ちょうどいい、か。でも、純って意外にしたたかな奴だったんだね。もっと不器用かと思ってたのに、まさか失恋の弱みにつけこんでくるとは」
「あ? チャンスに強いと言え。野球だってなぁ、ここぞって時に仕掛けねぇと負けんだからな」
「ははは、さすが体育会系。よっ、脳みそ筋肉!」

 とちゃかしていたが、ふとその時、とある疑問が浮かんだ。

「ねぇ、いつから私のこと好きだったの?」
「……いつからって」
「ねぇ」
「覚えてねぇよ。覚えてねぇくらい昔だ」

 ふぅん、そう呟いて純の顔を覗き込むと、純は苦々しそうに言った。

「彼女ができてもよ、なぜかいっつもお前のこと考えちまうんだよな。いやいや、ありえねぇって思うんだけど、なんか離れねぇんだよ」

 その言葉に、私は息が止まるほど驚いた。他の誰かと付き合っている時、常にちらつく影と、違和感。――私と同じだ、と。

「あーー!! 忘れてた!」

 しかし突然、純がしまったという風に頭を抱えた。

「どうしたの?」

 そう尋ねると、純はきまり悪そうな顔でビジネスバッグをごそごそ漁り、何かを探している。

「やっぱカバンに入れてたのがまずかったかー……」
「なに?」

 純は眉を下げると、バッグから取り出したものを私へと差し出す。それは、きれいにラッピングされていたであろう、一輪の赤いバラだった。純の危惧した通り、セロファンは所々折れて、花もあまり元気がなさそうだ。

「なんかぐちゃぐちゃになっちまったけど。オラ、受け取れ」
「……え、なにこれ。なんで?」

 私はバラを受け取りつつも、その真意を図りかねていた。
 純は真剣な表情で、私をまっすぐ見据え、

「今日来たのはなまえを慰める目的ってのもあるけど、ほんとはそれだけじゃねぇんだ。……あわよくば、って」
「……あわよくば、私に交際を申し込もうと」

 言葉を引き継ぐと、純が、おう、と顔を赤くしたので、私はへなへなとテーブルに突っ伏した。

「あー、もう……。なんか嬉しい。さっきの告白が酔った勢いじゃなくて」
「酔いに任せるなんてしねぇよ。ちゃんと真剣に告白してんだからな」
「そうだよね、ありがとう。でもバラって……告白するのにバラって……ははっ」
「んだよ、悪りぃかよ」
「ううん。そういうヘンにロマンチックなとこ、全然変わってない」

 純の根底に流れる少女マンガ好きはあいかわらずらしく、私はそのことに深く安堵していた。

「でもさ、今更純と付き合うのってヘンな感じ。これから愛とか語り合うわけでしょ。うわー、ありえない」
「ありえないって何だよ!!」
「あ、すいませーん! 芋くださーい」
「無視すんじゃねぇ! つか、まだ飲む気かよ!!」

 そうだ、付き合った記念にもう一度乾杯しよう。そう思いつき、私は純の希望も訊かず、笑いながら「同じのもう一つ!」と叫んだ。
 恋を一足飛びしていきなり愛を手に入れたものだから、正直不思議な心地だ。それに恋とか愛とか今更よそよそしすぎて、私たちの関係にはそぐわない。だからそんな大層なことじゃなく、一緒にごはんを食べて、同じテレビを見て笑って、たまにケンカして、仲直りのセックスをして、同じベッドで眠る――ただ、それだけのことなのだ。

title:さよならの惑星


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