Run Run Run

 人生において、必ずしも音楽が必要なわけじゃない。音楽は空気や水とは違う。けれどそれは、ある瞬間において爆発的な力を発揮し、人を救うこともある。
 幼い頃、洋一のうちでよく流れていた曲。当時の流行歌ではなく、少し古い曲だった。おばさんが大好きなそのバンドの曲は、台所仕事の合間中ずっとヘビーローテーションで流れていた。私が倉持家に遊びに行くと、洋一は「またこれか」と言いながらも、嬉しそうに口ずさんでいたものだ。そしてサビが覚えやすかったから、いつしか私も一緒に歌うようになった。洋一のおじいちゃんもたまにそのユニゾンに加わったけれど、いつも演歌調に歌うので、しまいには私たちが笑い出して歌どころではなくなるのだった。
 こちらにひどく訴えかけるような、力強いヴォーカルが印象的だった。その頃は歌詞の意味も深く考えず、楽しく、元気よく歌えればそれでよかった。
 だけど今は、すごく大好きだったあの歌が、なぜだかうまく思い出せない。

 母親とケンカした。
 きっかけは些細なこと。しかし、日頃お互いに我慢して溜め込んでいたせいだろう。私の進路をめぐって激しい口論になり、気がつくと私は部屋を飛び出していた。玄関を出て思いきりドアを閉めると、想像以上に大きな音が響いて驚いたけれど、かまわず外へ出た。
 無理やり足につっかけてきたローファーを、地面にぶつけるようにしてどうにか履き、狭い通路を突っ切る。
 公営団地であるここには、非常に多くの人々の生活が息づいている。各棟は同じ作りをしていてそれぞれに番号が振られ、広大な敷地に規則正しく並んでいる。まるで面白みのない、量産型の建物の集合体だ。
 早足で三件隣の扉の前を横切ると、ほんのりと夕餉の匂い――おそらくカレーだろう――がしてわずかな空腹を覚えた。そのまま通路を突っ切って階段を駆け下りると、ちょうど踊り場に転がっていた古ぼけた三輪車につまずいた。小さな子供も多いここは、こういったことがしょっちゅうある。

「っ痛……」

 ――くそったれ、くそったれ。
 苛立ちに任せて叫び出したい衝動を抑えながら、更に階段を下って建物を出た。
 すでに日はとっぷり暮れていて、夜の帳が下りている。秋も深まりかけた時期に、何も羽織らずセーラー服一枚では少し肌寒かった。高校はブレザーがいいな、唐突にそう思う。
 それにしても、なんで飛び出してしまったんだろう。早くも後悔していたけれど、今更戻るわけにもいかず、私は途方に暮れていた。
 そうして迷った挙句、とりあえず時間を潰そうとコンビニを目指すことに決めた。勢いよく飛び出した手前、さすがにすぐに戻るのは気まずい。歩道をとぼとぼ歩いていると、時折、車がライトで私を眩しく照らしながら追い越していった。
 その時だ。ドラッグストアの駐車場から、いきなり自転車が飛び出してきたのは。

「きゃ?!」

 キキッという甲高いブレーキ音がして、ああ、今日は本当についてない、と心の中で嘆く。気持ちはもう投げやりで、怒る気力もなく、ただただ面倒だ。危うく衝動しそうになったけれど、なんとか避けると今度は尻もちをついてしまった。

「いったぁ……。もう、なんなのよ……」
「悪ぃ!! 大丈夫か?!」

ふと、なんとなく聞き覚えのある声だと思い、すぐに顔を上げると、

「……洋一?」

 そこに見慣れた顔があった。

「……なまえ? うおっ、びっくりした」
「びっくりしたのはこっちだし」

 洋一は慌てて自転車を停めると、私の方へ駆け寄った。

「おい、ケガねぇか?」

 私へとためらいなく差し伸べられる手。でも今はそれがなんだか気恥ずかしくて、自力で立ち上がると、スカートについた汚れを払う。

「お尻ぶつけた。アザになったかも。あー痛い痛い。慰謝料よこせ」
「あー? お前のは蒙古斑の間違いだろ」
「バカッ!! そんなんもうないし!」

 ちょうど私が痛めた箇所と同じところに蹴りを入れてやると、洋一が驚いて飛び上がった。

「ってーな! 何すんだよ!」
「中三にもなってデリカシーなさすぎ!」
「はぁ? 今更だろ」

 更に苛立ちを募らせた私は、洋一を置いて団地とは逆方向に歩きはじめた。

「おい、どこ行くんだよ。家はこっちだぜ」
「知ってる」
「待てよ。――あ、お詫びに後ろ乗せてやってもいいぜ?」
「……帰らない」
「ハァ?」
「だから家には帰らない」

 すると洋一が後ろから「待てよ」と叫んだけれど、私は無視した。

「なに意地はってんだよ。こんな夜にどこ行く気だ?」
「さぁ」
「『さぁ』って……」
「ここじゃないどっか。別にどこだっていい」

 私が歩みを速めると、洋一も自転車を押しながらついてきた。こちらを覗き込み、

「なんかあったのか?」

 と心配そうに尋ねてくる。

「別に」
「どーせおばさんとケンカでもしたんだろ」
「…………」
「図星か」

 私はニヤニヤ笑いを浮かべる洋一から顔を背けた。なんだかすごくムカつく顔をしているから。
 洋一は、同じ団地で隣の部屋に住む幼なじみだった。付き合いの長い奴には、私の単純な行動原理なんてきっとお見通しだろう。
 それにしても――と、私は洋一の格好を盗み見た。中三の秋、同級生たちは受験に本腰を入れはじめたところだというのに、この洋一ときたら、古き良きヤンキーよろしく、未だに逆立てた金髪に短ランのままだ。こんな状態で、これからの進路は一体どうするつもりなんだろう。ずっと続けてきた野球は――。
 洋一の押す自転車は全くイケてない薄汚れたママチャリで、カラカラと車輪の回る寂しげな音がした。

「おばさん、今頃心配してんじゃね?」
「せいせいしてんじゃない」
「だー、もう! じゃあこれからどうすんだよ」
「どっか遠くまで行く。行けるとこまで」
「遠くってどこだよ。足もねぇクセに」
「健康な足さえあればどこでも行けるよ。……どこかもっと拓けたところ……そう、例えば海。うん、海まで歩く」
「は? 海? 今から歩いて?! バカじゃね?」

 断固として譲らない私に、洋一は声を荒げた。海なんて、その場のでまかせにきまってる。でも洋一にそこまでバカにされると、もう後には引けなかった。

「あー、海が見たい。てか、思いきり叫んで走り出したい気分」
「青春映画かよ。秋の海なんてつまんねーぞ、夜だし」
「なんか今は本能に任せてみたい気分なの」

 隣で洋一が盛大なため息をつくのがわかった。だけどもう遅い。最初は口からでまかせだったものが、私の中で今は本気になりつつある。私の足はただひたすら、海へ、海へ。目標地点は海へとインプットされ、それを目指して歩みを止めることはない。
 放っておけばいいものを、洋一はずっと私の隣を黙々と自転車を押して歩いていた。

「なんでついてくんのよ」
「俺も方向がこっちなんだよ」
「ウソつけ」
「なまえこそついてくんじゃねーよ」
「はぁ?! 意味わかんない」

 私たちがやり合っていると、歩道ですれ違ったサラリーマンがちらりとこちらへ目をやった。お互い慌てて口をつぐみ、顔を伏せる。もし補導員や警官にでも見つかったら事だ。

「――なぁ」

 洋一は急にぴたりと立ち止まった。そのまま自転車を見ながら顎をしゃくる。

「なによ」
「どうせ止めてもムダだろ。だったら楽な方がよくね?」
「…………」
「なぁ」
「……わかった」

 洋一が自転車に跨ると、それを合図に私もその荷台に乗った。すると金属製の荷台がむきだしの腿に直接触れ、そのあまりの冷たさに思わず飛び上がった。

「冷た! 乗り心地わるっ!」
「乗せてもらっといて文句言うな! テメェ蹴り落とすぞ!」
「はいはいーっと」

 目の前には洋一の背中。つかの間、どこに掴まろうかと迷って、両手が宙を彷徨う。
 毎日顔を合わせる仲なのに、改めてこうして背中を眺めるのは初めてで、なんだか新鮮だ。上背はないもののその背中は思ったより大きく逞しく、内心驚いていた。いつのまにこんな成長したんだろう。ちらと腰まわりに目をやったけれど、すぐに思い直して両肩に手を添えた。

「行くぞ」
「おー、飛ばせー」
「他人事だと思って。重ぇんだよ、ったく」

 私がその頭をはたくと、「いてっ」という声が漏れた。
 自転車がのろのろ動き出し、風がふわりと前髪をさらう。ふとその時、違和感を覚えた。洋一の皺が寄った学生服からは、夏までしていたタバコの匂いは消えていた。

 千葉はその陸地の三方を海で囲まれている。そのため海岸に事欠かない。洋一が選んだのは、家から一番近く、幼い頃よく泳ぎに行った海岸だった。砂浜は広く、海は遠浅のため夏は人気の海水浴場だが、今は季節外れでしかも夜のため深閑としていた。海岸線に添って伸びる県道には時折車が通るが、あとは繰り返す波の音ばかり。おまけに水辺のせいかかなり寒い。

「誰もいねーなぁ……」
「うん」

 道端に自転車を停め、砂浜へと下りていった。小学生の頃、裸足で駆けた熱い砂浜の感触を、ふと思い出す。夏には太陽を受けて輝き、心躍る存在だけれど、今は冷たく湿っていて、ローファーに重くまとわりつき中に砂粒が入り込んだ。

「あーあ、疲れたー」

 洋一が突然、その場にどかりと腰を下ろしたため、制服の尻は早くも砂粒だらけになった。私も少しためらってから、思いきって砂浜の上に座りこんだ。

「おい、叫ぶんじゃなかったのかよ?」
「なんか疲れた」
「テメェは後ろ乗ってただけじゃねぇか!」
「それでもしんどいのー」

 私の背中は、重力に正直にずぶずぶと後ろへ沈みこんでいく。背中は砂まみれだがもう知ったこっちゃない。

「おい、汚れんぞ」
「知らない。もういい。こんな制服嫌いだし」
「……ふーん。じゃあ俺も」

 そう呟くと洋一は、私と同様に寝転がった。
 夜の海は昼間とは違って真っ暗で、寄せては返す波に引きずり込まれる妄執に囚われる。
 空を仰ぐと、墨で塗ったような重苦しい夜空には、申し訳程度の星が二、三個輝いているだけだ。今の自分は、この小さな星々みたいにちっぽけな存在なんだろう。

「あーあ、はやく大人になりたい」

 思わずぽつりと溢れた言葉は、別に洋一に聞かせたかったわけじゃない。ただ、最近私がずっと考えていたことだった。
 特に疑問を持たずみんな同じ制服を着て、同じような授業を受けて、同じような話題で盛り上がって。家、学校、塾。この定められたトライアングルからは、絶対に逃れることはできない。うんざりするような平坦な日常は、真綿で首を絞められるように徐々に息苦しさを増していく。
 こんなつまらない、しみったれた場所から抜け出して、一足飛びで私は大人になりたいのだ。
 それから洋一は、ぽつりと本題を切りだした。

「ケンカの原因って進路のことか?」
「うん。志望校のことで揉めちゃった。お母さんはちょっとでもいい高校に行けって。で、いい大学に行って、いい会社に勤めてって。母子家庭だし老後が不安なんじゃない? それだったら別に玉の輿ってテもあるじゃん」
「なまえ、鏡見てみろ」
「うっさい」

 洋一の方を睨み、それからまた海へ視線を戻した。

「先生たちは『将来の夢を持て』って言うけど、そんな簡単に見つかれば苦労しないって。あーあ、輝かしい未来ってなんなのかな。人の価値観なんてそれぞれだし押し付けられるもんじゃないでしょ」

 私がそう言うと、先ほどから打てば即響いた返事が、今度は返ってこない。疑問に思い「洋一」と呼ぶと、波音に乗って、隣から突然、あの歌が聞こえてきた。
 ふいに、時間が止まったような気がして呼吸まで忘れる。
 「栄光に向って走る」からはじまるあの歌。ワンコーラスだけだったけれど、私はすぐに思い出した。

「TRAIN-TRAIN! すっごい懐かしい!」
「お、覚えてたか。昔よく歌ったよな。しゃべってたら唐突に思い出してよ」
「いい歌だよね。なんか元気出てきた」
「だろ?」

 洋一がそう言ってニッと歯を見せた。

「栄光に向かってひたすら走れ! って感じの歌だったっけ」
「おー。『自由』と『銃』かけてんのもシビれるよなー」

 その時、はっとした。自由を欲して、周りを傷つける。今の私にはぴったりの言葉だった。

「『栄光に向って』か……。ねぇ、洋一にとっての『栄光』ってなに?」
「俺にとっての『栄光』?」
「そう」
「あー、そうだなー……」

 洋一はしばらく逡巡して、

「稼頭央みたいになること?」
「子供か! 単純すぎ!」
「んだよ、人の『栄光』にケチつけんじゃねぇよ。つーかなまえはなんなんだよ」
「えー、私? 私は……」

 しばらく「あー」とか「うー」とか唸ったあと、辿り着いた結論はこれだった。

「大きい家を建てることかなぁ」
「マイホームパパか!」
「なによ、いーじゃん。私、あの団地嫌いなの。個性がなくて全部おんなじで、つまんなさの象徴みたい。だから、絶対被らないようなおしゃれな家にしたい」
「ふーん」

 しばらく難しい顔をしていた洋一だったが、仰向けだった体を今度はこちら側に向けた。

「でもよ、単純に『栄光』がイコール『幸せ』かって言われっとどうだろーなぁ」

 洋一は逆立てた金髪に手をやり、くしゃりとかき混ぜた。

「なにそれ。『俺、一見不良だけど、実は色んなこと考えてます』みたいなのいいから」
「あ? 人が真剣に考えてんのにケチつけんな!」
「はいはい、ごめんごめん」
「さっきなまえ、この歌は『栄光に向かってひたすら走れ!』って内容だって言ってただろ? 確かにそれもあると思うけど、それだけじゃねぇっつーか……」
「なによ」
「歌詞の後半で真島は、今いる場所は実はそんな悪いとこじゃねーって言ってんだよな」
「…………」
「気付かなかったか?」

 私は何も言えなかった。確かに歌詞の後半を思い返してみると、そんな内容だった気がする。ただ、幼かった私には、その言葉たちを真に理解することができなかった。けれど今はそれが、すとんと腑に落ちた。ああ、そういうことだったのか、と。

「今の生活は不満か?」
「……別に」
「ダチもいんだろ、一応」
「……多くはないけど」
「それになまえ、勉強が嫌いってわけでもねぇんだろ?」
「……教科による」

 洋一はむくりと起き上がり、夜空を見上げた。

「親とか、育った環境は選べねぇけど――それでも俺は、母ちゃんとじいちゃんにはスゲェ感謝してる」
「……なによ、大人ぶっちゃって」

 洋一の発言がなんだか気に入らなくて、無性にイライラする。だけどもう、わかっていた。私は自分の無力さを、周りの人や環境のせいにして甘えているだけのいくじなしだ。本当は、自分で道を選んで、栄光に向かって走って行くのがただ怖いだけだ。

「――俺さ、青道行くわ」

 刹那、波音が途切れた。

「……今、なんて?」
「だから、東京の青道高校行くわって」
「え……、あの野球強いとこだよね? 甲子園にも出た」
「そう」
「だって学費は? あそこ私立でしょ? そんなお金あんの?」
「スカウトだから学費はちょっと安くなるってよ」
「スカウト? そんな話聞いてない」

 私は起き上がって隣の洋一へ詰め寄る。
 洋一は気まずそうに頬を掻いて、

「スカウトのねえちゃんが、俺は稼頭央に似てるって。青道のリードオフマンになれるって言ってくれたんだ」
「そんなの……」

 でまかせだって。騙されてるんだって。――言えなかった。
 洋一はずっと弱いチームにいたけれど、足は速かったし、同じチームのみんなとは群を抜いてセンスがあった。ヤンチャをしていたわりには、暴力事件を起こすまで近隣の高校の野球部から声がかかっていたから、実力は確かなんだろう。

「……だからタバコの匂いしなかったんだ」
「は?」
「みんなにずるいとか言われたの? 一人だけ東京行くなんて」
「いや、あいつらはそんな奴らじゃねーよ」
「でも最近つるんでないじゃん」
「……ま、色々あったんだよ」
「ふーん……」

 道沿いの街灯と月明かりだけでは、その淋しげな横顔が何を思うのかはわからなかった。
 けれどそんな感傷に浸ったのもつかの間、ふつふつと湧いてきたのは怒りだ。

「てか高校デビューでもするつもり? ヤンキー卒業して、誰も自分を知らない新天地で。あーあ。いいなー、それ!」
「あ?」
「ここのみーんな捨てて、真っ当な球児になるんでしょ。よかったね、スカウト来て」

 洋一が眉を寄せ、こちらを見つめる。

「そうやって一人で走って行っちゃうんでしょ。栄光に向かって。勝手に行けばいーじゃん」
「なまえ」
「忘れたらいいよ。ここのでのことなんて。……私のこと、なんて……」

 眼前の星が滲んで、真っ黒の夜空にぐちゃぐちゃに溶け合っていく。たまらず下を向くと、涙が一粒、二粒、溢れ落ちて制服のスカートを濡らす。
 足の速い洋一は、きっと光のようなスピードで、栄光に向かって走って行ってしまうだろう。

「行かないでよ」

 きっと追いつけない、私には。

「置いて行かないでよ……」

 洋一が私の頭に手を伸ばして、くしゃくしゃと髪をかき混ぜる。

「洋一のバカヤロー……」

 その胸に顔を埋めると、制服からはかすかに磯の香りがした。
 洋一は少し身じろぎしたあと、あの歌を歌いはじめた。「栄光に向って走る」からはじまるあの歌。声変わりしたあとの洋一の歌声を聴くと、それは私の全く知らない洋一を見ているようで、少しだけ胸が痛んだ。
 ――この涙が乾いた頃には、きっと笑顔で言ってみせるから。おめでとうって。がんばってねって。




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