最後のチャイム

 ――私はあの日、最後のチャイムを待っていた。

 高校三年生の春。最後の高校生活を迎えるにあたり、クラスメイトの顔ぶれや教室での席は、大人が思うよりずっと重要なことだ。けれど私は出だしからつまずいた。記念すべき最初の席替えで引いたのは、あきらかなハズレだった。
 窓際の一番後ろ。本来ならもっともうれしい席のはずなのに、落ち込んでいた最大の理由は、前方の人物にあった。
 伊佐敷くん。部活は野球部。あだ名は狂犬――らしい。
 名付け親にナイスネーミングと称賛したくなるくらい、その迫力のある容姿にはピッタリだった。鋭い三白眼、高校生にしては珍しい、というより注意されないのかという顎のヒゲ。広い教室でもよく通る大きな声。一言で言えば、怖い。視線だけで瞬殺されそうな勢いだ。それに輪をかけて苦手だと感じたのは、彼が野球部だったことだ。別に野球自体に恨みがあるわけじゃなく、厳密に言うと、私は運動部の男子全般が苦手だった。
 私は美術部であり、元来、引っ込み思案な性格で、男子とまともに会話することさえ苦痛を感じていたのに、ましてや運動部。話題も合わないし、はきはき大きな声で話されるとどう返事していいか戸惑ううえ、運動部特有の粗野な振る舞いは私を萎縮させた。それなら、パソコン部とか囲碁将棋部の、少しオタクの気のある彼らの方が数倍もマシだ。
 ところで、教室には見えないヒエラルキーが存在する。これは容姿や立ち振る舞いが大きく関係していて、勉強の出来不出来や所属している部活もその要因だと考える。私はせいぜい中の下といったところか。ただ、こんなことを気にするのは底辺付近の人間だけであり、上層部に属する者はこんな仕組みさえ意識していないのだろうと、根暗な私は、いつもこんなことばかり考えていた。
 伊佐敷くんは強豪と言われる野球部のレギュラーで、モテる容姿ではなかったけれど同性からの信頼は厚く、女子とも平気で軽口を叩くことのできる、私からすれば“上層の人間”だった。自分には一生縁のない人、そう思っていた。そう、あの時までは――

 席替えをしてから数日が経った。前方にはくだんの伊佐敷くん。右隣には、白い歯が眩しい爽やかなサッカー部のエース、鈴木くん。左隣はただの窓。周りを運動部男子で固められた私は、近頃ずっと憂うつだった。近くに気軽に雑談できる友達もいないし、教科書なんて忘れた日には気まずいどころじゃない。授業中、人知れずため息をついてやり過ごすしかなかった。
 でもこんな時、私はたまにノートの端にらくがきをして楽しんでいた。現に今も、昔から大好きなとある少女マンガに出てくる男の子を書いているのだけれど、我ながら良く描けたと思う。人には絶対に見せないけど。

「今日からの範囲配るぞー」

 数学の先生が機械的に最前列の生徒へプリントを渡してゆく。ただ、本来ならこんなことをしている場合じゃない。自覚こそ薄いけれど、今年からいよいよ受験生なのだ。なんとなく行きたい大学はあるけれど、まだ本格的に勉強しているわけじゃない。
 それから次々とプリントが後ろへ回っていった時、事件――というほど大したことはないけれど、私の中では事件だった――は起こった。
 プリントを持った伊佐敷くんの手が私の方へと伸びた。でも私はらくがきに夢中で、それに対する反応が一歩遅れた。そのため「あっ」と反射的に右手を持ち上げたタイミングが最悪で、持っていたシャーペンの先が、柔らかいような変な感触を捉えた。

「……っ」

 前方から漏れたわずかな声。一瞬の出来事に私が固まっていると、突然、伊佐敷くんが驚いた表情でこちらを振り向いた。
 目が、合う。狂犬と呼ばれた鋭いまなざし。
 とっさに自分の口から「ひっ」という情けない声が出た。
 伊佐敷くんは私をギロリと一瞥したあと、自身の手の甲を見た。私もこわごわそこへ目をやる。すると、よく日に焼けた彼の手の甲に、すっと一筋ミミズ腫れのような赤い線が走っていた。
 きっとシャーペンの先が当たったのだと思い、私の全身からサーッと血の気が引いていく。

「……あの……ごめん、す、すいません……私……」

 とんでもないことをしてしまった。私は伊佐敷くんの顔と手の甲へ交互にせわしなく視線をやりながらも、頭の中は真っ白だった。これからどんな仕打ちが待ってるんだろう。想像するだけで胃がきゅっと縮みあがった。

「……あ、……あの……」

 けれど次の瞬間、予想に反し、伊佐敷くんは気まずそうに小声で言った。

「いや、こっちこそ悪かったな。後ろロクに見てなかったし」
「……へ?」

 思わずマヌケな声が漏れる。てっきり怒られるとばかり思っていたから。
 安心したのもつかの間、伊佐敷くんは何気なく私のノートに視線を落とした。やばい、と慌ててとっさにその部分を手で覆い隠したが、時すでに遅し。
 伊佐敷くんはわずかに目を見開き、一瞬こちらを窺うように見たあと黒板へと向き直った。
 指が、震える。かーっと、全身の血がぐつぐつ沸騰して顔中に集まってゆき、身体全体が心臓になったみたいに鼓動がひどく大きく響いた。
 見られた。伊佐敷くんに、見られた。授業中に好きなマンガのキャラクターを描いて楽しんでいるおかしな奴。絶対そう思われたに違いない。もちろん授業中にらくがきなんてしていた私が悪い。悪いけど……。
 そのまま私は、暗澹たる思いでノートに突っ伏してしまった。

 恥ずかしくても、存在を消してしまいたくても、チャイムは誰にも等しく、問答無用で鳴る。
 無視してくれて構わない、というよりどうか無視してくれ。そんな願いとは裏腹に、伊佐敷くんは早速こちらを振り返った。

「みょうじ」

 私はその顔を見ずに俯いたまま謝った。

「……あの、さっきはごめんなさい。シャーペン向けちゃって」
「気にすんなって。あんなんただの事故だろ」
「でも」
「……つーかそれよりさ」

 と伊佐敷くんが居ずまいを正す。
 ああ、ついに来た。きっと彼は無邪気な鈍感さで私を傷つける。今までずっとそうだった。「絵がうまいね」なんて褒めながらも、心の中でバカにしている人はこれまで少なからず存在したからだ。
 だけど伊佐敷くんは、なぜかもごもごと言い淀んでいた。それから閉じられたノートを差し、

「……これってよぉ、その……」
「…………」
「あの……、王子だろ?」
「…………」
「……マンガの、ほら」

 一瞬、言葉に詰まった。それは、戸惑いとわずかな期待。でもすぐに自分の中で期待の方が大きく勝り、ぶんぶんと首を縦に振った。それこそもげそうになるくらい。
 もしかして、タイトルを口にするのが恥ずかしいのかもしれない。私が小声でタイトルを言うと、伊佐敷くんは恥ずかしそうに笑った。

「いや、すげーリアルな絵が描いてあるからびっくりしてよぉ。みょうじってやっぱ絵うまかったんだな」
「……あ、の」
「しかもあの作品知ってるなんて結構ツウだよな」
「ストーリーが奥深くて……好きなんだ……。絵も」
「わかる! 胸がこう、熱くなるっつーか。世界にどんどん引き込まれるっつーか」
「私、昔から大好きで……」

 それからはもう、夢中だった。私は人見知りなだけで無口ではないので、好きな分野だととめどなく話すことができる。伊佐敷くんも今まで分かち合う人がいなかったのか、やや興奮ぎみで作品についての感想をまくしたてた。
 一通り話したところで、私は先ほどから気になっていたことを、遠慮がちに訊いてみた。

「あの、さっき伊佐敷くん、『やっぱ絵うまかったんだな』って言ってくれたけど……どうして?」

 伊佐敷くんは、ああ、と頷いてから何てことなさそうに口にした。

「みょうじ、去年の全校集会で絵の表彰されてたろ。青道って表彰されるのたいてい運動部多いから、珍しいなって」
「……ただの佳作だよ」
「でも全国のコンクールなんだろ? すげぇじゃん」
「……あ、りがとう」

 うれしさと恥ずかしさで声が震えてしまい、ごまかすように咳ばらいをする。
 それは、運動部の華やかな表彰のあとの、おまけのような絵画コンクールの表彰だった。恥ずかしいから壇上には立ちたくないと先生に食い下がったのに、結局は全校生徒の前に立つことになってしまった。でもたとえおまけだろうと、こんなちっぽけな私の存在を覚えていてくれた人がいることに、胸がいっぱいになる。
 伊佐敷くんは楽しげに言った。

「またおすすめのマンガあったら教えろよ」
「うんっ!」

 勢い良く返事すると声が裏返ってしまい、伊佐敷くんに爆笑されてしまった。けれど今日は、それに笑顔で返すことができた。

 伊佐敷くんの後ろの席に着いて数日、気づいたことはたくさんある。
 伊佐敷くんの少女マンガ好きはお母さんと二人のお姉さんの影響らしい。話してみると、不朽の名作から最近旬の作品まで守備範囲はとても広かった。
 そして彼と言えばやはり野球は外せない。強豪と名高い青道高校野球部は練習が厳しいことは有名な話。けれど伊佐敷くんは、どれだけ疲れていようと居眠りせず真面目に授業を受けていた。たまにうとうと舟を漕ぎはじめることはあるけれど、自身の頬を叩いて活を入れたりと、真剣に取り組む姿勢が見てとれた。
 あの時から、伊佐敷くんに対するイメージが180度変わった。これまで、自分には合わない人なのだと食わず嫌いをしていた自分自身を恥じ入るほどに。
 六時間目の終わり頃になると、前の席の背中がそわそわ、せわしなくなる。きっと練習がしたくてたまらないのだ。そんなに慌てなくたってグラウンドは逃げないのに、といつも笑ってしまう。
 そしてそれに応えるように、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。

「起立! 礼!」

 私がのそりと顔を上げると、伊佐敷くんは早速、教科書や筆記用具をかき集めるようにリュックに押しこみ、帰り支度をはじめた。
 私は苦笑しながら、

「今日も早いね」
「あたりめぇだろ。練習時間惜しいっつーの」

 慌ただしく言い放ちリュックを背負う。

「がんばってね」
「おう! みょうじもな」
「うん」

 疾風のごとく、とはこのことだろう。授業が終わって三十秒も経たないうちに、伊佐敷くんは教室を出ていった。放課後、少しだけ呼び止めて話したいけれど仕方ない。彼は野球をするためにここへ来ているのだから。
 私もそれを見習って手早く支度を済ませ、美術室へと急いだ。


 夏になった。部活の傍ら、私は美大に入るため画塾に通いはじめた。野球部はというと、夏大の決勝を明日に控えていた。
 放課後私は、伊佐敷くんに激励をと、ひそかにグラウンドの周りをウロウロしていた。あたりは野球部に期待を寄せるギャラリーたちで溢れている。運良く話ができるかもしれないと来てみたものの甘かった。先ほどから選手たちはずっと熱心に練習に励んでいて、気軽に話せる雰囲気じゃない。

「帰ろ……」

 あきらめて数メートル歩いたところで、けれどグラウンドから聞こえる音がわずかに変わった。張り詰めた雰囲気は解け、弛緩した空気が漂ってくる。
 もしかして、と振り向くと、ちょうど休憩中の伊佐敷くんと目が合った。
 足が勝手に駆け出した。伊佐敷くんもこちらの様子に気づいて走ってきたので合流する。

「伊佐敷くん!」
「みょうじ、どーした?」
「あの、あのね……」

 いざ面と向かうと、言いたかったことはするすると頭から落ちてゆき、途端に緊張しはじめた。湿気を含む生暖かい風が頬を撫で、身体中に嫌な汗が伝う。
 言わなきゃ、言わなきゃ。

「ごめん、なんか邪魔しちゃって……」
「いや、休憩入ったし大丈夫だぜ。――んで、なんだ?」
「あっ……と、明日……がんばって」

 こわごわ伊佐敷くんの方を見上げると、きょとんとした顔があった。

「それだけなんだ……こんなことで来てもらってごめん」

 自分の気持ちが先走りしすぎて失敗した。そう思った。だけどその時、伊佐敷くんの目の色が少しだけ柔らかくなった気がした。

「はっ、稲実なんてブッ倒して甲子園の切符かっさらってやるぜ! よーく見とけよ!」
「うん」

 伊佐敷くんはふと、遠くへ視線を向けた。

「ずっと夢だったからな……甲子園」
「……………」
「ま、最終目標は全国制覇だけど」
「……叶うよ」
「あ?」
「叶うよ、その夢。伊佐敷くんがんばってるもん」

 ひどく月並みで無責任な言葉。少女マンガの主人公なら、背中を押すようなもっと気の利いたセリフが言えるだろうけれど、あいにく私はそんなものを持ち合わせていない。それでも伊佐敷くんは、笑顔で頷いてくれた。


 秋も深まり、教室は受験モード一色となった。もうすぐ文化祭がはじまる。夏が終わり、引退を迎えた伊佐敷くんに一学期の時のような元気はない。最近、私はそれをずっと心配していた。
 互いの席はもう離れてしまったけれど、私が伊佐敷くんの所へ気軽におしゃべりをしに行くのに不自然ではない間柄にはなっていた。時々、小湊くんが茶々を入れてくるからどきりとするけれど。
 休み時間に伊佐敷くんの席に行くと、同じ野球部の小湊くんと話しているところだった。

「出し物が喫茶店って大丈夫かよ、ウチのクラス。受験勉強もあんのに」
「みんな結構やる気だよね。純、女装でもしたら?」
「は?! ざけんな、ぜってぇやるかっての!!」
「見てみたいなぁ、伊佐敷くんの女装。ヒゲ女子?」
「みょうじまで乗っかんな!」

 小湊くんは不敵に口の端を上げ、

「あえてヒゲ剃ってもいいんじゃない? イメチェンもできるよ」
「やめろ! ヒゲは俺のアイデンティティーだ!」

 と、必死に力説する。

「そんなご立派なもんなの?」
「アイデンティティーだったんだ……」

 私たち二人の発言に、伊佐敷くんはがくりと肩を落とした。
 それを華麗に無視するように小湊くんが話題を変える。

「みょうじは美術部だよね。展示でもするの?」
「あ、うん。一応ね」
「一応ってなんだよ」
「いや、毎年やってるんだけど全然人来ないから……」

 美術室は三階北側の一番端にある辺鄙な場所だ。出店やステージイベントの多い華やかな文化祭で、地味な展示にわざわざ足を運ぶ者は少ない。
 すると伊佐敷くんは拳を胸にドンとかざし、

「俺は行くぜ? 亮介も来んだろ?」
「じゃあ俺も行こうかな」
「ええ?! いいの? ありがとう!」


 文化祭当日。午前中にクラスの喫茶店を手伝い、部活の方の店番は午後からとなった。
 本日、何度目かのチャイムが鳴る。隣のパイプ椅子は空だ。当番は私とD組の女の子なのだけれど、その子は一向に現れる様子がなかったため、私はパイプ椅子に座り、ぼんやり文庫本を広げていた。美術室はしんと静まり返り、お客さんはいない。毎年のことだ。
 でも今年は、いつもとは違う。だって約束があるから。
 室内には油彩画が四点と、粘土による立体作品が二点。人を呼ぶには余りに寂しい展示だけれど、人数ギリギリの弱小部だからこればかりは仕方ない。
 それから一時間ほど経った頃、ドアから「ちーっす」と控えめな声がした。しかし、中を窺うように教室に入ってきたのは伊佐敷くん一人だ。
 私は不思議に思いながら、

「来てくれてありがとう。……小湊くんは?」
「なんか急に用ができたとか言いやがってよ、アイツ。行くっつってたのに」
「へぇ」

 もしかして私、小湊くんに気を遣われてる? いや、まさか、と心の中で自問自答する。
 伊佐敷くんはキョロキョロとあたりを見た。

「つーかマジで客いねぇな」
「だから毎年のことなんだって」
「けど、こういう静かなのも悪くねぇな」

 伊佐敷くんは展示してある作品をぐるりと見回したあと、すぐに一枚の油彩画の前で足を止めた。

「これ、すげぇな……」

 並んだ作品の中で、もっとも大きい50号サイズの油絵。それは私の作品だった。ただ、大きさだけで言えば、他の作品と並ぶと目立つのは当然だ。

「……あ? これ、みょうじのやつか?」

 伊佐敷くんが作品の下の私の名前に気づく。

「うん、高校で最後の作品だし気合い入れてみた」
「最後、か……」

 噛みしめるように言って、伊佐敷くんは絵に視線を固定したまま、徐々にその距離を詰めていく。

「俺、絵のことはよくわかんねーけどなんか……色とか雰囲気とか、圧倒されるっつーか。……うまく言えなくて悪ぃな」

 私は必死で首を振った。飾られたお世辞より、伊佐敷くんの純粋な反応がうれしかった。その言葉で、表情で、十分心に届いたから。
 開け放した窓からは午後の気だるい風が流れ、カーテンをふわりと揺らす。時折小さく、中庭からの喧騒が聞こえてくる。絵の具などのあらゆる匂いが染み付いた、自分には慣れ親しんだ美術室で、私たちは二人きりだ。
 そう意識しはじめると、急に胸の鼓動がうるさくなった。今だけはどうか、誰も来ませんように。

「――なぁ、夢ってなんだろな」

 その時、心地よい沈黙を破るように、伊佐敷くんがぽつりと言った。

「え?」

 先ほどからずっと甘やかなことを考えていたから、伊佐敷くんの「夢」という言葉が妙なリアルさをもって響いた。
 あいかわらず私の絵を見ながら言葉を続ける。

「もう高三にもなるとさ、自分にできることとできねぇことってわかってくるじゃん。それでも夢がどうのって押し付けられてよ、なんなんだって」
「…………」
「でも卒業するから、とりあえず道は選ばなきゃいけねぇし」

 そこでふっと、伊佐敷くんは、ところどころ絵の具で汚れた床に視線をやった。その表情は固い。

「伊佐敷くんの……夢、は?」
「俺の夢?」
「その……野球、関係とか」

 野球選手と言っていいものか一瞬迷った。確かに高校野球という場で伊佐敷くんは優秀な選手かもしれないけれど、かといってそれがプロに通用するかというとそうじゃない。現時点でプロになれると見込まれた者は当然、そういった話が出るはずだ。噂によると、キャプテンの結城くんにはプロの話が持ち上がっているらしい。
 こちらの戸惑いを汲み取ってくれたのか、伊佐敷くんはすぐにこう続ける。

「大学で野球は続けるつもりだぜ。でもなんか今は……前みたいなやる気が起きねぇ」
「高校での野球が終わっちゃったから? 燃え尽き症候群っていうの? バリバリ働いたあと定年退職したお父さんみたいな」

 どこがツボだったのか、伊佐敷くんはぷっと吹き出したあと、「そうだな」と力なく言った。
 私はパイプ椅子を伊佐敷くんにすすめ、自分も隣のそれに座る。
 伊佐敷くんの目はどこかうつろに遠くを見ていた。

「今までずっと甲子園甲子園ってガムシャラに突っ走ってきたけど、急に目標なくなったらなんか、な。俺にとってあの場所は、すげーデカかったんだなと思って」
「……もう一生、届かない場所になっちゃったんだもんね」

 「ああ」と呟いて目を伏せる。その瞼には、まばゆいばかりの甲子園球場が映っているんだろうと想像し、痛む心中が伝わってくるようで、しばらく言葉を発することができなかった。
 キュッと自身の拳を握る。ちょっとだけ汗をかいている。
 今ここで、言っていいんだろうか。伊佐敷くんをさらに落ち込ませることにはならないだろうか。そう危惧したものの、次の瞬間に私は覚悟を決めていた。

「――私ね、夢があるの」

 隣から返事はない。

「昔から絵を描くのが好きで、将来それで食べていきたいって思ってる」

 口にした途端、それはひどく陳腐なものに思えた。具体的な職業も挙げられないのだ。まるで綿菓子のような、ふわふわしてて甘ったるくてすぐになくなってしまうような、そんな不確かなもの。自分自身を必死に説得して、ようやく繋いでいるような夢。
 伊佐敷くんは私みたいに「叶うよ」なんて無責任な言葉は言わなかった。きっと夢の重みを誰よりも知っているからだろう。
 おそらく伊佐敷くんは、私からそんな告白をされて反応に困ってるんじゃないかと思った。だから次に飛び出した伊佐敷くんの言葉が、少し意外だった。

「……それは画家か何かか?」

 とこちらを見る。

「画家じゃなくてイラストレーターに近いかな、感覚としては」
「ふーん」
「私、人見知りだから、人と関わるより一人の作業のが向いてるし……」
「イラストレーターかぁ」

 伊佐敷くんがむっつりと何か考えこんでいた。

「ごめん、なんか大それたこと言って……」
「なんで謝んだ。そういうことは声に出した方がいいに決まってんだよ。誰かが聞いてたら仕事くれるかもしんねぇじゃねーか」
「……ああ、うん。そうだね」

 至極真っ当な意見だ。私は自信のなさから、この夢を今まで誰にも打ち明けられないでいたけれど、声に出した方がいいに決まっている。
 それから伊佐敷くんは、気まずそうに頬を掻いた。

「あのよぉ……実は身内にそういう仕事の奴がいて……」
「えーー?! うそっ!! ほんとにっ?!」
「声がデケェ! 鼓膜破れるっつの!」
「あ、ごめん……」

 耳元で大声を上げてしまったことを詫びる。

「まぁ、身内っつーか姉貴なんだけど」
「えーー?!」
「だからデケェって!!」
「ごめんごめん。……でもすごいね、伊佐敷くんのお姉さん」

 私が褒めると、大したことじゃないという風にフンと鼻を鳴らした。

「給料少ねぇしまだ実家暮らしだぜ? 実家帰ったらいっつもいるから、就職したって実感がねぇんだよなぁ」
「へー……」

 私は今や、身近にそんな憧れの人がいることに興奮していた。

「けどな!」

 伊佐敷くんが突然、ずびしと私を指差す。

「これは姉貴の受け売りだけど、そういう仕事って人脈が大事らしいから、人見知りは直した方がいいぜ?」
「……え……」
「ま、みょうじは親しくなったらすげぇしゃべるタイプだし、大丈夫だと思うけど」
「はは……それって改善の余地大アリだね……」
「おう。せいぜいがんばれよ」

 ニッと歯を見せる伊佐敷くん。うん、私もこのくらい親しみやすくなりたい。

「あ、あのね、今ので思いついたんだけど」
「なんだよ」
「夢はとりあえず置いておいて、どんな自分になりたいかって考えてみるのもいいんじゃないかって」
「どんな自分になりたいか……」

 私は頷いて言葉を繋ぐ。

「例えば目標としてる人とかいる?」
「目標としてる人……」

 つかの間黙り込んだあと、「あ」と漏らした。

「片岡監督!」
「なるほど、片岡先生かぁ」
「あの人のさ、自分の信念曲げないとこと、人を大事にするとこ。すげぇ憧れる」
「そっか」
「ただ、自分がそんな風になれるかって言われたら自信ねーけど……」
「ほら、あくまで目標だから。ね!」
「そうだな……」

 伊佐敷くんは小さく笑って顔を伏せた。
 それからしばらく沈黙が続いた。私は展示された作品に目をやりながら、伊佐敷くんの進路について思いを巡らせる。

「なぁ、みょうじ……」

 そう言って伊佐敷くんが身体ごとこちらを向いた。その目には、先ほどのうつろな影は消えていた。

「ありがとな。なんかちょっとだけモヤモヤが晴れた気がする」

 ううん、と首を振る。
 伊佐敷くんは軽く伸びをしたあと、静かに言った。

「俺、関西の大学に行くわ」


 友達からの後夜祭の誘いを断って、私はまだ美術室にいた。暗闇に沈む部屋。明かりはつけなかった。きっと今、とてもひどい顔をしているから。
 私は都内の美大を受験するつもりだった。
 伊佐敷くんがこの土地を離れることなんて、最初から予想できたことじゃないか。なぜ私は、これからもずっと一緒にいられるなんて甘い夢を見ていたんだろう。泣きすぎて熱を持った頬に、再び涙が伝う。
 ずっと認めたくなかった。今まで認めないでいたから、やってこられた。けれどもう、限界だ。
 暗闇にぼんやりと浮かぶ50号のキャンバスを眺めながら、私は自分の中の本当の気持ち――伊佐敷くんが「好き」だという想いを、ようやく認めた。


 雪もちらつきそうなほど冷え込んだとある冬の日。学校はもうすぐ冬休みを迎える。私はあいかわらず受験勉強で忙しく、伊佐敷くんとゆっくり話す機会も減った。伊佐敷くんは、かねてより希望していた関西の大学の推薦が決まったらしい。
 夜、画塾からの帰り道、私は自転車を漕いでいた。帰る途中に必ず青心寮のそばを通るから、いつもなんとなくそちらへ目を向けてしまう。「偶然だね」なんて笑って、うまく遭遇することを想像しながら走るけれど、今まで一度も伊佐敷くんが一人の時に会ったことはない。たいていは誰かと一緒にいる。だけど今日は、本当にタイミングが良かった。
 暗闇のなか寮の裏手に、素振りをする見慣れた背中を発見した。自転車を降り、引きながらその背中を目指して歩みを進める。
 なんて声をかけようか。「偶然だね」はあざとすぎる。いや、考えすぎか。
 素振りに集中するその姿は逞しく、声をかけるのを一瞬、躊躇してしまうほどだ。けれど私が何か言うよりも早く、伊佐敷くんが振り返った。

「みょうじ?」

 私のいる道から、寮の裏手までは土手になっていて少し距離があるけれど、伊佐敷くんは気づいたようだ。

「……よ、よう」

 と、私はつい右手を上げた。
 「よう」ってなんだ、自分のキャラじゃないしわざとらしすぎる。上げてしまった右手の行き場がなく、そのまま髪を触ってごまかした。
 伊佐敷くんは素振りの手を止めニヤニヤしながら、

「『よう』ってなんだよ#苗字#」
「いや、なんとなく……」
「珍しいな、こんなとこで会うなんて」
「そうだね」

 適当に笑ってごまかす。会えるかもと思っていつも通っていたなんて、口が裂けても言えない。私は道端に自転車を止め、土手を下りていった。

「遅くまでトレーニングがんばってるんだね」
「普段から身体動かしとかねぇとすぐなまるからな。春からは本格的に練習始まるし。……みょうじは塾か?」
「うん。絵の方のね」

 私たちはどちらからともなく、寮の壁に並んでもたれた。

「……大学、受かりそうか?」
「どうかな……、ギリギリってとこ? あんまり余裕はないかな」

 伊佐敷は「そっか」と呟いて、ペットボトルの水をごくりと口に含んだ。

「そうだ、私さっきコンビニで肉まん買ったんだ。寒いし食べようよ」
「いーのか?」
「うん。一個しかないから半分こね」
「悪ぃな、ちょうど腹減ってたんだ」

 持っていたコンビニの袋から肉まんを取り出し半分に割ると、中から温かな湯気がふわりと立ち昇った。伊佐敷くんに半分の肉まんを渡すと、「サンキュ」と礼を言って受け取る。

「うめぇ」
「うん」
「やっぱあんまんより肉まんだよな」
「うん。あんまんも好きだけど」

 話すたび夜空に白い息が浮かぶ。それを見ると、まだ隣にいることのできるうれしさに涙が出そうになる。手の中の肉まんは徐々に冷えていくのに、私はしばらく食べることができず、ぼんやり眺めていた。
 それから伊佐敷くんは、唐突に口を開いた。

「あのよ……前に夢がどーとか言ってたじゃん」
「……ああ、うん」
「あれさ、俺、夢とかまだわかんねーけど……とりあえず、自分が今やりてぇことをやってみることにする」
「……そっか、うん。大学は四年あるんだもん。きっと見つかるよ、伊佐敷くんの夢」
「ああ……」

 ふいに目が合うと、なぜか伊佐敷くんは突然吹き出した。

「なに? なんで笑うの?」
「みょうじ……、顔にヨゴレついてんぞ」
「えっ?! 肉まん?!」
「いや、なんか黒っぽいの」
「うわぁ、きっと鉛筆だ。恥ずかしい……」

 デッサンをすると鉛筆の黒鉛で手が汚れるため、きっとその手で顔を触って気づかずにいたんだろう。慌てて頬をこすった。

「違う、逆」
「ここ?」
「もっと下だって」

 私が見当違いのところを触っているためか、伊佐敷くんが焦れたように言う。

「こっち?」
「だからそっちじゃねぇって。……ここ!」

 ふいに頬に温かな何かが触れた。それに伊佐敷くんとの距離がやけに近い。それを意識した途端、頬に触れたものの正体が伊佐敷くんの指だったことに驚き、とっさに身を引く。

「わ、悪ぃ……」
「……私こそ、ごめん」

 あたりを気まずい沈黙が支配している。
 周囲は暗く見え辛かったけれど、伊佐敷くんの頬は赤く染まっている気がした。先ほどまで冷たかった私の頬も、今や熱いくらいだ。そしてその熱に触れてしまったが最後、心に溢れた想いが抑えられなくなり、胸が痛みだす。

「……遠く、なっちまうな」

 伊佐敷くんは、聞こえるかどうかというほどの小さな声で言った。
 今、言わなきゃ。そんな衝動に突き動かされ、私が口を開きかけた時だった。

「夢、叶えろよ」

 そうやって優しく笑われると、何も言えなくなってしまう。
 春になったら、もう会えなくなるんだ。
 そんな当たり前のことが今になって、現実的な重みを伴い、心にずしりとのしかかった。


 年が明け、受験は大詰めを迎えた。そして二月半ば、私はようやく希望の大学に合格した。三学期に授業はほとんどなく、決められた登校日以外は自主登校のため、伊佐敷くんと顔を合わせる機会が少なくなっていた。
 気持ちを伝えたところで、春からは離れ離れになってしまう。希望の道に進むため、夢を叶えるため、離れてしまうのは仕方のないこと。何度自分にそう言い聞かせても、気持ちを割り切ることはできなかった。いっそ告白してしまったら、良い思い出としてきっぱりと葬ってしまえるかもしれない。だけど何かの拍子に再会した時、きっと私は平常心を保てなくなり、伊佐敷くんに嫌な思いをさせてしまうだろう。
 学校にいる間、チャイムが鳴るたびに、あと何回これを聞けるのだろうとせつない気持ちになる。最後のチャイムは、ゆっくりと、けれど確実に近づいてきていた。

 卒業式の朝。外は若干の寒さを残しながらも、柔らかい春の息吹きが漂っていた。空はこの日に相応しく晴れ晴れと冴え渡っている。
 チャンスはもう今日しかない。覚悟を決めた私は、朝、教室に入ってすぐに伊佐敷くんの姿を探そうと思っていたら――ちょうど入口のところで当の本人とぶつかった。

「悪ぃ! 大丈夫かみょうじ?!」
「……うん」

 軽く鼻をぶつけたものの、他に異常はない。腹を括ったのだからもう言うしかないと、いっそ清々しいくらいの気持ちだ。
 私はひと呼吸置いて、息を吸った。

「「あのっ!」」

 すると不思議なことに、私たちのタイミングはほぼ同時でおかしなくらいきれいにハモった。

「あ、伊佐敷くんからどうぞ」
「いや、みょうじ先に言えよ」
「私はいいから……」

 しばらくその場で押し問答を続けていると、

「邪魔。あっちでやったら」

 ちょうど登校してきた小湊くんが、怪訝な顔をしながら廊下の端を指す。

「そうだな……」
「うん……」

 私たちはきまりが悪くなり、急いでそちらへと移動した。
 それからわずかな沈黙ののち、伊佐敷くんはガリガリと頭を掻き、珍しく口ごもりながら言った。

「みょうじの言いてぇことってよ、その、今までずっと言えなかったこと、とか……」
「えっ?! うん……そう」
「……もしかして俺のことずっと怖かったとか」
「何それ? ないない!!」

 慌てて首を振る。
 すると伊佐敷くんは安堵したように笑った。とても、柔らかく。

「そんなことじゃなくて……」
「俺、今、一生懸命可能性潰してんだよ。自分が期待しすぎてヘコむ可能性。すげー女々しいけど」
「……………」
「……少女マンガ的な展開っつーの? 期待していいか?」

 息が止まるかと思った。彷徨っていた視線が、ぴたりと重なる。うるさいくらいの鼓動。
 最後のチャイムは刻一刻と迫ってきていた。


企画 ≪卒業の日≫ 様に提出

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