ハートブレイク
毎日あの人の言動に、よく胃が“キュッ”となる。
例えば、私が握った不恰好なおにぎりを手にして。
「何これ、団子?」
ーー“キュッ”
例えば、仕事の遅い私が使用済みの用具の手入れをしていて。
「朝まで拭くの?毛布ならあるけど」
ーー“キュッ”
例えば、非力な私が懸命にジャグを運んでいて。
「酔っぱらいもビックリな千鳥足だね」
ーー“キュッ、ビリッ”
小湊先輩の毒舌に、私の胃は日々“キュッ”と音をたてて縮みあがる。“キュッ”がしばらく続くと、ある日そこが“ビリッ”っと破れたような感覚に陥る。私はその破れた箇所を、時間という名の糸で丁寧に縫合するのだった。
ちなみに、病院で胃の検査をしても「異常なしです。きれいなもんですよ」と診断された。
今日も私は、神経質な姑にいびられる若嫁のような気持ちでマネージャーの仕事をこなす。
この間用具倉庫で仕事をしている時に、このことを思いきって同じ一年のマネージャー仲間の唯ちゃんに打ち明けた。
ひっそりとしたこの場所は、埃っぽささえ我慢すれば絶好の内緒ばなしスポットだ。
「それ心臓じゃないの?ハートでしょハート!」
唯ちゃんが私に向かって、ずいっとバットを突き付けた。
思わず私のバットを拭く手がぴたりと止まる。
「いや、まさか。胃だよ胃」
「そうかなぁ?あ、ほら『嫌よ嫌よも好きのうち』って言うじゃん!」
私は信じられないものを見る目つきで唯ちゃんを凝視した。
「ありえないよ。むしろ『嫌よ嫌よも嫌のうち』だから」
「あははは! なにそれ!」
私はごまかすように、熱心にバットの土を落とす。丁寧に磨かれたそれは、徐々に金属の輝きを取り戻していく。
「何が嫌なの?みょうじ」
突然真後ろから声がして振り返ると、ユニフォーム姿の小湊先輩が用具倉庫の入り口に立っていた。思わず漏れそうになった悲鳴を懸命に呑み込む。
やはり先輩は今日も笑顔を絶やさない。
「ねぇ?」
「なんでもないです!ドリンク作ってきます!」
私はボールを打ったあとのバッターよろしく、バットを放り投げて一目散にその場から駆け出した。とんでもない魔球に振り逃げする心境だ。
この人に私の「嫌なもの」なんて教えたら、きっとデッドボールくらいじゃ済まないだろう。
夏の大会を数日後に控えた今日、マネージャーの私たちは、食堂で願掛けのマスコットを作っていた。真っ白のフェルトをまるく切り、中央に赤のステッチ糸で縫い目をつける。周りをちくちく縫って綿を詰めて閉じ、青色の紐を付けたら完成。野球ボール形のマスコットだ。
「すごく上手ね。縫い目もキレイだし」
藤原先輩が私の作ったマスコットを手に取り、褒めてくれる。
「あ、ありがとうございます」
どんくさい私だが、細かい作業は得意だった。
その時カラカラと戸口が開いた。
「おーいマネージャー!ちょっと三人ほど手ェ貸して!」
藤原先輩が私に向き直る。
「じゃあ得意な一人に残ってもらおうかな」
かくして、私は一人マスコット作りに励んでいた。丁寧に一針一針「みんながんばれ」という思いを込め、無心に作業する。日々、小湊先輩が私の胃を破るものだから、きっと縫合がうまくなったのだ。もちろんただの心の問題だけれど。
しばらく周りの音が聞こえなくなるほど集中して作業をしていた。
五つ目が完成し、花模様のお菓子の缶の蓋にそっと置いた時に気付いた。完成したマスコットが一つ足りない。
「いいじゃん、コレ」
突然降ってきた声に驚いて顔を上げる。
いつからいたのか、私の隣に立った小湊先輩は、私の作ったマスコットを手にニコニコしていた。
今のは本当にこの人の発言だろうか。私は小湊先輩の顔を凝視する。やっぱりその表情からは、この人の真意は読み取れない。
「どうしたの?天変地異でも起こったみたいな顔して」
起こった。今、私のなかで。
小湊先輩が私を褒めるなんて今日はもしかして......と思い、壁のカレンダーへ視線を向ける。増子酒店のカレンダーは、エイプリルフールが三ヶ月も前に終わったことを告げていた。無機質な数字の羅列を見て、一旦心を落ち着かせる。
もう一度怖々と、小湊先輩の顔を見つめた。
ーー“キュッ”
あれ? けなされた時に鳴るんじゃなかったっけ?
処理しきれない感覚に、自分の中で嵐が巻き起こる。
「顔赤いけど熱でもあるの?」
そ う言いながらも全然心配そうな顔じゃない。小湊先輩はあいかわらず笑顔のお面を張り付けていて、私はそんな先輩の態度に歯噛みする。
「コレ、もらってくね。みょうじ」
そう言って、私の顔の前でマスコットをゆらゆら揺らす先輩。
「まだ途中です」なんて、もちろん反論できない私。
「......はい」
去っていく、小湊先輩の小さな、でも逞しい背中をぼんやり眺める。あの人は小柄なのに、なんというか存在が大きい。私は胸の辺りを押さえてみた。
さっきの“キュッ”は、いつもとは違う所のような気がする。けれど私はそれが胃だと言い聞かせる。
だってもしそれが破れてしまったら、もう取り返しはつかない。
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