スカートの下の秘密

 まるで人生の最果てに来てしまったみたい。それが、私の小さな頃からの印象だった。
 木造二階建て。築三十数年。70年代に建てられたというこのボロアパートは、相当歴史が古い。風呂なし、トイレ共同、六畳一間の和室のみ。人には「今時そんなアパートあるの?」なんてしょっちゅう言われる。ここはいわゆる、低所得者と呼ばれる人々の吹き溜まりだった。年金で細々と食いつないでいる一人暮らしの不機嫌な老女、日雇い派遣の中年男性、あきらかに夜の仕事だと思われる疲れきった顔の女性、いつもギターケースを抱えているミュージャン志望の男の子、ここの住人はいつも曇り空みたいな顔をした人ばかりだった。
 私がここへ越して来たのは十歳の時で、両親の離婚がきっかけだ。母が私を引き取り母子家庭になったため、家賃の安いこのアパートで暮らしはじめた。借金もあったため豊かな暮らしは到底望めなかった。
 アパートの外観は汚く、二階へと続く階段は塗装が剥げて錆びていた。音が異様に響くため、いつも足音に気をつけなければならない。しかし部屋の方は数年前に畳を交換したばかりのせいか、想像していたより汚くなかったが、それでも以前暮らしていた家より数段劣る。親娘の新天地は散々たるものだったが、憂いてばかりいても仕方ない。ここに来た時から私は、これからの自分の人生を静かに受け入れたのだった。

 ところで、住人たちは今まで私が接したことのない種類の大人ばかりだったが、とりわけ隣の住人は変わっていた。父ひとり、息子ひとりの父子家庭。初日にあいさつまわりをした時は単に「ああ、うちの男版か」と思った。父親の格好はだらしなく、よくテレビドラマで観るような無職の男の風亭を忠実に再現していた。酒とタバコとギャンブルに、もれなく借金。女遊びが加われば、もう救いようがない。そんなダメな大人のキーワードがぴたりとはまる。初対面の時は肌着一枚で、母をおおいに慌てさせた。気怠げで無精髭の、いかにもやくざな雰囲気だったが、話してみると意外に愛嬌があり、目尻に人懐こそうな皺が寄った。そんな父親の名前は雷蔵さん。
 息子の方は、数年後にも非行に走りそうなスレた感じか、もしくは親を反面教師にしたデキる感じか、と想像したがそのどちらでもなかった。一人息子の名前は雷市くん。私と同い年だ。私がよろしくとあいさつをすると、顔を真っ赤にしてどもりながらもよろしくと返してくれた。
 多少の個性はあれど、その時まではどこにでもいる普通の親子だと思っていた。予想していた通り、雷蔵さんは酒とタバコは苦手らしいが無職なのは本当らしかった。仕事へ出かけて行くでもなく、いつも隣からは人の気配がしていた。
 けれどある日。あの親子は河川敷で奇妙な教室をはじめた。それを知った時から、私の中であの親子は、普通とは少しかけ離れたところにいるのだと知ることになる。


「雷蔵さん、肉じゃが食べる?」

 申し訳程度にドアを二回ノックして開けた。在宅中でもカギくらいかければいいのに、昔からここはいつも開いている。ただ、盗られて困るような高価なものはないことも事実だ。
 数度目の季節が巡り、私は高校一年生になった。世間では進学校と呼ばれる都立の高校に通っている。
 十二月に入って寒さもいっそう厳しくなり、隙間風の多いボロアパート住まいには堪える季節だ。

「おー、いつも悪ぃな」

 雷蔵さんはテレビ画面に見入ったまま、視線を外さず応えた。そこに映るのは高校野球の試合の映像だ。
 腕時計は午後九時を回っていた。部屋のカーテンは開けっ放しで、窓から紺色の夜がのぞいていたので、私は肉じゃがのタッパーを持ったままカーテンを引いた。部屋の隅の石油ストーブには火が入っていたが、部屋全体に暖かさは行き渡らず、ひんやりした空気がそこここに漂っている。
 私はテレビを一瞥して、

「それ、青道の試合?」
「おうよ」

 映像を見ながら雷蔵さんは時折、ノートに何かを書き留めている。きっと私にはわからない野球のデータとか戦略だろう。それにしても、やっぱり汚い字。
 私はとりあえずタッパーを冷蔵庫にしまった。居間に戻り、制服のスカートのプリーツを整えて、色褪せた畳の上に腰を下ろす。紺色のセーターに同色のプリーツスカート。さっぱり可愛くないことで有名なうちの制服だ。
 すると雷蔵さんは突然声を上げた。

「うおっ、エグい球投げやがる! 最近のガキはほんと怖いねぇ」
「球、速そうだね」
「まぁ、雷市だったらこんなの目じゃねぇけどな!」
「あー、ハイハイ……」

 私はいつもの息子自慢を軽く受け流した。鞄から教科書と筆記用具を取り出して、ローテーブルの上で勉強を開始する。

「お前、よくこんなテレビのそばで勉強できんな」

 と、半ばあきれながらこちらへ視線を寄越した。

「集中力の問題じゃない?」

 私の答えに、雷蔵さんはつまらなさそうに鼻を鳴らして再び試合へと戻った。
 部活を終えた雷市は現在、橋の下で夜のトレーニングをしている。これは昔からの日課でもある。
 数年前、雷蔵さんはやっとのことで薬師高校野球部監督という職に就いた。それまでは定職を持たず、橋の下の河川敷で子供相手に轟塾という野球教室を開いていた。いかにもやくざな商売である。けれど四十歳まで社会人野球の現役選手だったという彼の元には、不思議と子供が集まった。野球教室といっても、受講料は一人百円でたいした儲けにもならない。それでも雷蔵さんは、あの場所でそれを数年間続けたのだった。

「さーて、メシ食うか」

 雷蔵さんはテレビを消し、食事の準備をはじめた。準備といっても皿に移すだけで、メニューはご飯と漬物と先ほどの肉じゃがという質素なもの。けっして贅沢はできない。雷蔵さんがあぐらをかいたまま食事をはじめると、時折、漬物をポリポリ咀嚼する音と、食器がカチャカチャ鳴る音がした。
 そして、向かいに座る私はかまわず勉強を続ける――ふりをしている、いつも。目の前の数式を冷静に解くふりをしながら、私の心はいつも別のところにあった。
 紺色のプリーツスカートから伸びた私の脚のすぐそばに、雷蔵さんのジャージに包まれた脚がある。狭い部屋の中で互いにローテーブルに向かい合っているため、今にも脚同士が当たりそうだ。私はこっそりスカートのプリーツを撫でた。

「そういえばこの前、スーパーで三島優太の母親見た」
「おっ、あのそっくりな母ちゃんか」
「目元がよく似てる。下まつげ濃いのとか」
「あのガタイもな」
「並んだらそっくり」

 雷蔵さんは出がらしのお茶をずずっとすすって、湯呑みに視線を落とした。

「昔、俺んとこに怒鳴りこんできたなぁ。そらもうすごいインパクトだし、ミッシーマに似てるしで思わず笑っちまった」
「笑い事じゃない。あの人が警察に通報するの、私たちで必死に止めたんだから」
「そんなこともあったなぁ。つーか、ありゃぜってぇマザコンだぜ」

 からから笑って雷蔵さんは肉じゃがに箸を伸ばす。
 自分だって息子ラブのくせに。この人は昔からそうだ。よく言えば飄々としている。悪く言えば、緊張感がないうえに危機感がない。本当にダメな大人だ。
 ちゃんと定職に就いているにもかかわらず、未だに格好はだらしないし、無精髭もそのまま。初めて会った時よりも目尻の皺は増えた。しかし、現役時代から自身のトレーニングも怠らないため、五十近くにしては引き締まった身体つきをしている。
 雷蔵さんは気だるい三白眼を細め、

「つーかなまえよぉ。そうやっていつもせかせか勉強してっけど、たまには遊んだらどーよ?」
「時間がもったいない」
「若いうちからそんなんじゃ、人生つまんねーぞ。遊びを知らねぇ奴はロクな大人にならん!」
「つまんなくていい。平凡でも普通に暮らせたらいい」
「へーへー、そうかよ。この頭でっかち」

 学校から帰ってバイト、食事の支度、勉強、私には一日の時間が一分一秒でももったいない。今日はバイトは休みだが、着替えるのも面倒なため制服のまま現在に至る。けれど、私が制服でいるのはそれだけが理由ではなかった。
 それからしばらく仏頂面の雷蔵さんだったが、急に名案を思いついたのか「おっ」と声を上げた。

「なまえ、女優んなれよ。母ちゃんに似て美人だしブレイク間違いなし!」

 そう言って親指をぐっと立て、中年男がするといかにも見苦しいウインクをバチコーンと決めてくる。全然可愛くない。私は勘弁してくれと、胸の内で深いため息をついた。
 母は昔からホステスをしていた。もう若くない母が未だに店で雇ってもらえるのは、持ち前の明るさと容姿の美しさのおかげだろう。私は母によく似ていると言われたが、私は容姿を生かすような職業は今のところ望んでいない。

「……お母さんの若い頃の夢、教えてあげよっか」
「ん?」
「女優」

 雷蔵さんは一瞬ぽかんとしたあとすぐ、

「……はっは! そりゃいいわ!」

 と高笑いした。私はその様子を冷めた目で見つめた。
 けれど、雷蔵さんから美人と言われたことだけは、キラキラの宝石に形を変え私の心に残った。テーブルの下でスカートをぎゅっと握る。
 石油ストーブが、ジジ……と炎の音をたてると、灯油独特の匂いがいっそう強くなった気がした。

「ねぇ」
「あ?」
「ここ出てもっといい部屋借りれば?」
「……なんだぁ? やぶからぼうに」

 雷蔵さんがぼりぼりと頭を掻く。

「仕事も安定してるし、借金も返せる目処が立ってるんでしょ。じゃあもうこんなとこいなくていいじゃん」
「……ガキが心配するようなことじゃねぇよ」

 そう言ってふっと私から視線を逸らした。

「いつ首切られるかもわかんねーのに贅沢できねぇだろ」
「ふーん……」

 一見もっともらしい言い分だが、私は雷蔵さんがここを離れようとしない本当の理由を知っている。あくまで私の予想だけれど。
 その答えは、テレビ台の中にあった。無数のDVDが乱雑に並ぶ中に紛れるように、ひっそりと立つそれ。古ぼけた写真立てだ。そこにはかつての轟家が映っており、雷蔵さん、雷市、それに奥さんがいた。
 待てど暮らせど帰って来ない人を待つなんて、バカな忠犬のするただの時間の浪費に他ならない。

『どうせもう帰ってこないよ』

 けれどこれを言ってしまったら、確実に何かが終わってしまうことを知っている。
 だから私はいつも、喉元まで出かかる重い言葉をぐっと飲み下す。そんなことを続けているからお腹の中は常に消化不良だ。

「てか、雷市って結構なキラキラネームだよね。奥さんがつけたの?」
「お? やっぱお前もそう思うか! あいつキラキラしてっだろ?!」
「……は?」
「やっぱ俺の『雷』の字継いでるだけあるわー。ぜってぇ将来大物になるしよ。な、金みてぇにキラキラだろ!」
「あー、……うん、そうだね」

 皮肉で言ったつもりなのに、通じなかったどころか逆に調子づかせてしまったらしい。普段は、大人なのに私たちと同じ目線で話してくれる雷蔵さんだが、キラキラネームを知らないところにジェネレーションギャップを感じた。本当に根っからの親バカだ。私も私で、よせばいいのに奥さんを貶めるようなことを言ってしまい、いつも少しだけ後悔する。
 その時だ。何気なく動かした脚が雷蔵さんのそれに当たった。
 ――あ、
 紺色のソックスに包まれた私の脚を、雷蔵さんが見る。スカートからわずかに覗く、むきだしの膝小僧。
 心臓がぴくり、跳ねた。それを合図に次第に鼓動が加速度を増す。
 けれどもすぐに雷蔵さんは、不細工なくしゃみを連発して、何事もなかったかのように食事を再開した。私の鼓動が徐々に本来のスピードへと戻っていく。やっぱり、今日も何も起こらない。
 ――ねぇ、もっと見てよ。
 心の中で毒づいた。
 私は容姿を生かす仕事に就く気はないが、今現在、女子高生という特権をおおいに生かそうとしている。つまらない賭けみたいなものだ。雷蔵さんにふと魔がさして、獣みたいに私を襲ってくれないだろうか。一線を越えてくれないだろうか。
 もちろんこんなはしたない気持ち、誰にも打ち明けたことはない。心の奥の小部屋にある小さな箱にそぅっとしまって閉じ込めている。惚れた腫れたの恋バナで盛り上がる学校の友人たちには、口が裂けても言えない。
 子供の時から世間を知り色んな大人を見てきた私は、他のコより少し早熟で、そして冷めていた。それは恋愛においてもそうだ。男の人から襲われたいだなんて、そんな欲望を人はあばずれとか淫乱とか言うのだろう。
 同じクラスに、女子から人気のとある男子がいる。いかにも無造作です、という本当は時間をかけてセットした髪型に、きれいに整えられた眉、流行りのブランドのマフラーを巻いて爽やかな笑みを浮かべながら、ある日私を遊びに誘ってきた。けれど私はその男子に何の興味も持てなかった。友人に、もったいない、なんで断ったのと問いただされたが、「なんだか薄っぺらかったから」としか答えられなかった。けっして、その男子が悪いわけじゃない。あくまで私の好みの問題だ。
 そしていつの間にか食事を終えた雷蔵さんが、ごろりと横になった。

「はー、食った食った。肉じゃか美味かったぜ。なまえ絶対いい母ちゃんになる」
「……どうも」
「おい、テキトーにあしらうな!」
「そろそろ雷市呼びに行ってくる」

 私が立ち上がりかけた時、またしても雷蔵さんは「あ!」と大声を出した。

「いいこと思いついた。お前の将来」
「なに」
「雷市に永久就職なんてどうだ? あいつは将来がっぽり稼ぐぞー。今のうちに唾つけとけ、俺が許す!」
「は? ……バカじゃない」

 人の気も知らないでなんて、身勝手な理由でついイライラした。立ち上がって、足元に転がる男の逞しい背中に軽く蹴りを入れてやる。
 しかし次の瞬間。私の足首ががしっと掴まれた。ガサガサでマメだらけで節くれだった雷蔵さんの大きな手。私はこの手が好きだった。なぜなら、自身の信念を貫き通す強い心の象徴だからだ。
 それが今、私の足首を掴んでいる。鼓動は先ほどとは比べものにならないくらい激しいリズムに変わっていた。そろりと足元に視線を落とすと、雷蔵さんの視線とゆっくり重なる。

「おい、そんな膝まる出しじゃあハラ冷やすぞ」
「別に私の勝手じゃん」

 そう応えると、雷蔵さんは懐かしそうに目を細めた。

「そういや雷市も小学生ん時、冬でも半ズボンだったなぁ。服買う金もなくてよ」
「雷市が風邪引いたのなんて見たことないけどね」
「だろ? あいつ昔から丈夫だったからなー」

 また息子自慢がはじまったので、私はいよいよ立ち去ろうとした。
 すると、

「おいなまえ、これ穿いとけ」

 雷蔵さんはそう言い、その辺にあったジャージのズボンを私に向かって投げつけた。手に持つと、それは薄汚れていてどことなく臭う気がした。

「……これちゃんと洗った?」
「あー? 二回しか着てねぇしキレイだろ」
「は?! 着てんじゃん!!」

 私が睨むと、「俺の脱ぎさし」といけしゃあしゃあとほざくので、そのむかつくツラにジャージをぶつけてやった。

「臭っ!何しやがる!」
「自業自得!」

 勢いよくドアを閉め、慌ただしく階段を駆け下りた。カンカンカンと古い階段が大きな音を立てる。下りきって深く深呼吸すると、肺が冷たい空気でいっぱいになり、頭がみるみる冴えてきた。
 ――雷蔵さんは、きっとずっと変わらない。
 私の奥底に眠る秘密がいつか明るみに出ればいいと願いながら、けれども、そうならないことにも、私は同じだけ安堵している。




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