しろく魔

※降谷、夢主共に成人しています。

 ――カチリ、コチリ。
 今夜は、時計の針の音がやたら大きく響いていた。いつもは全然聞こえないのに、今日に限って気がかりで仕方ない。
 エアコンを切ってからずいぶん経つので、部屋の中はひんやりとした空気が支配していた。真冬の、身体の芯から熱を奪うような寒さが苦手だ。でも今日は、下ろしたての温かいパジャマを着ているから幾分平気だった。モコモコした素材の上下で、白の色目も可愛らしく一目惚れして買ったものだ。
 ベッドの中でもぞりと寝返りをうった。すると、壁側にあったシロクマのぬいぐるみと目が合ったので、ぎゅうっと抱き寄せてみる。これは今年の春、暁と水族館へ出かけた際に買ってもらったもの。暗闇にぼんやりと浮かぶ、ぬいぐるみのプラスティック製の黒い目が、憂いを帯びて濡れている気がした。ぎゅう。もう一度抱きしめる。強く。
 その時。玄関のチャイムが二度、間髪入れずせわしなく鳴った。
 壁の時計に目をやる。もうすぐ午前二時を回るところだ。
 誰だろう。こんな真夜中に。
 一人暮らしをしていて、真夜中の訪問者というのは思いのほか緊張を伴う。ここは高級マンションではないから、セキュリティはそれほど万全ではない。友達なら訪問する前に一言連絡を入れるはずだ。マンションの住人で、こんな夜中に訪ねてくるほど親しい人はいない。
 暁だろうか。
 暁なら、連絡も入れず野良猫のようにある日突然ふらりとやって来ることも珍しくない。大人なのだから連絡の一つも入れて。毎度そう注意するのに、暁はたびたび忘れるのだった。自分がプロ野球選手で、有名人であることに未だ自覚が薄いのだ。
 不安の中にわずかな期待が入り混じって、一瞬そわそわしながらインターホンに手を伸ばす。けれどふと、ためらった。
 暁ならあんな風にせわしなくチャイムを鳴らしたりしない。一回だけぎゅっと押すから「ピン、ポォーン」と何やら間の抜けた音になるのだ。
 私は身を固くして、インターホンのディスプレイを覗きこんだ。

「――あれ?」

 はたしてそこには――予想に反して二人の男性の姿があった。レンズをじっと覗きこんでいるのは、暁の球団の関係者の人だった。私にはどういう役職の人かは知らないが、以前暁から紹介してもらったことがある。その際、暁はきちんと私を彼女だと紹介してくれた。明るく面倒見の良い人で、暁はこの人によくなついているようだった。
 そして、この人にしなだれかかるようにぐったりしているもう一人が暁だ。私はそれを見るやいなや、急いで玄関へと直行した。もどかしい手つきで扉のロックとチェーンを外す。

「なまえちゃん! ごめんね、こんな夜遅くに」

 扉を開けた瞬間、暴力的な冷気と共にぶわっとお酒の強い匂いがなだれ込んできた。

「いえ。暁どうしたんですか?」
「いやー、今日こいつと呑んでたんだけどさ、二軒目からもう潰れちゃって。家に送ってったんだけど鍵なくしたっていうからさぁ。うちでもよかったんだけど、前に暁からなまえちゃんちがここだって聞いてて近かったから」
「すいません。暁がご迷惑をおかけしたようで……」
「こっちこそごめんねー、急に。俺も明日早いから。――じゃあ暁頼むね!」

 カラカラと笑いながら暁の体を私に託すので、思わず手を伸ばして前から体を抱きとめる。再び礼を言ってから私は扉を閉めた。
 真夜中の訪問者の正体がわかって安心すると同時に、予想以上の重さが私を襲う。暁の目は開いているものの、トロンとしていて今にも瞼が落ちそうだ。一応立ってはいるが足元はおぼつかず、私にほとんどの体重を預けていた。おまけにお酒の匂いは強くなる一方。私はしなだれかかる逞しい胸をドンドン叩いて、

「ほら、ちゃんと自分で立って! こんなとこで倒れたら運べないんだから」
「……う……ん」

 暁はかすれた声を出して、瞼をこすった。
 私はすぐさま、暁の体を押し返しながら自立させようと試みる。
 それからようやく自力で立ったものの、その色白の頬はほんのり赤く、顔に出にくい暁にしてはかなり酔っていることが窺えた。そして、意識があるのかないのか、ぼんやりした目で私を見下ろして、一言。

「……あれ、シロクマの子どもがいる」
「……え?」

 一瞬何のことかと思い、周囲を見回す。けれどそこに、シロクマと見間違えるようなものはない。ベッドのぬいぐるみかと思ったが、それは布団を被っていてここからでは見えない。

「シロクマの子どもって……?」

 首をひねりながら暁の方へ視線を戻すと、不思議なことにそこにはキラキラした子どものまなざしがあった。

「僕、シロクマの子ども初めてみた……」

 暁は喜びを滲ませながら、なぜか私をぎゅうっと抱きしめた。すぐに私の頭の中を疑問符がぐるぐる飛び回る。
 私がシロクマの子ども?
 されるがまま抱きしめられていると、次第に息が苦しく、背中のあたりが痛くなってきた。元来の馬鹿力は朦朧とした意識では制御できないらしく、暁の純粋な力が私の全身に込められる。

「った……痛い……!」

 体を引き離しながら抗議すると、

「あ、ごめん」

 暁はあっさり体を離した。

「痛かった?」
「うん、すごく」
「ごめんね……」

 しょんぼり肩を落とす暁が急にかわいそうになったので、私は慌てて部屋の中へと促した。ここにいてはどのみち風邪を引いてしまう。

「ほら、中に入って。風邪引いちゃうよ」
「うん」

 私の後を、暁は聞き分けの良い子どものようにトコトコついてきた。
 あ、そうか。
 その時、私は自分のパジャマを見て気がついた。白いモコモコのこれを見て暁は私をシロクマと間違えたのだ。いくら酔ってるにしても、かなり飛躍した発想だけれど。
 それにしても、酔っぱらってキス魔になったり抱きつき魔になったりする例は聞いたことはあれど、彼女をシロクマに見間違える例なんて聞いたことがない。

「座って。今、お水持ってくるから」

 暁は神妙な顔でこくりとうなずいて、ソファに腰を下ろした。
 冷蔵庫を開けてミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。グラスにそれをなみなみと注いでいる間も、私は背中に何やら熱い視線を感じていた。

「シロクマの子どもが飲み物注いでる……」

 ぼそりと暁からそんな呟きがもれたので、小さくため息をついた。まだ勘違いしているらしい。
 キッチンの棚から小鍋を取り出し、牛乳を入れ火にかけた。自分用のホットミルクだ。
 鍋はそのままにしておいて、私は暁の元へ歩み寄りグラスを差し出した。

「はい」
「……ありがと」

 暁は喉を鳴らしながらミネラルウォーターを一気に飲み干した。

「おいしい」
「それはよかった。今、エアコンつけたからコート脱いでね」

 暁がうなずいてコートを脱ぎはじめる。私はそれを取りハンガーに掛けてやった。

「すごい。なんでもできるんだね」

 感嘆の声を上げる暁に、私は曖昧に笑うほかなかった。まるで大きな子どもみたいだ。
 こちらを見つめるその曇りのない瞳を目の当たりにすると、突然、数日前に見た洋画を思い出した。男の子の願いを天が聞き届け、クマのぬいぐるみに命が宿るという内容だ。今の暁の瞳は、あの男の子そっくりだった。

「ねぇ……君の名前は?」
「あ、ちょっとごめんね」
「あ……」

 私は名残惜しそうにする暁を残して、キッチンへと向かった。ちょうど牛乳が温まっている頃だろう。沸騰しはじめた熱々の牛乳をマグカップに注ぎ、角砂糖をぽんと一つ。ふんわりと幸せな湯気が立ち上る。
 私はマグカップを手に暁の隣へ腰を下ろした。

「ミルク?」
「うん。……飲む?」

 マグカップを差し出すと、暁はふるふると首を振った。
 私がホットミルクに息を吹きかけ冷ましていると、突然、隣から大きな手が伸びてきてマグカップを包んだ。

「僕が冷ましてあげる」

 私が返事するよりも先に、暁はホットミルクをふぅふぅ冷ましはじめた。しばし呆気にとられながらそれを見守っていたが、やがて適温になったマグカップが私へと戻された。

「ありがとう」
「……うん」

 暁は満足げにうなずいて、ホットミルクを飲む私をあいかわらずじぃっと見つめている。

「ミルク好きなの?」
「……普通かな」
「普通、かぁ……」

 何やら残念そうにつぶやく暁。こういうところは長年付き合っていても未だによくわからない。
 私がホットミルクを飲み終えると、暁はソファに座ったまま脚を開き、自分の前に空いたわずかなスペースをぽんぽんと叩いた。

「座れってこと?」

 私の言葉にこくりとうなずく。頬が急に熱くなったのは、きっと効きはじめたエアコンのせいだけじゃない。しばらくためらっていると、暁の大きな両手が私の手を包んだ。

「……しょうがないなぁ」

 そう溢す私だって満更ではなく、にじにじと身を寄せて、暁の前に座った。これは、後ろから暁に抱きしめられる態勢になる。案の定、暁は私の体をぎゅうっと包み込んだ。

「……痛くない?」
「うん」
「よかった」

 まだかすかにひんやりした暁の体からは、外の冷たい風の匂いがした。

「きもちいい」
「私も」

 私は前を向いているのでその顔は見えなかったが、暁が微笑んでいるのは手に取るようにわかった。暁の頭が私の首に乗せられているため、さらさらした黒髪が私の首元を滑り、くすぐったさに何度も身をよじってしまう。

「どうしたの……?」
「なんでも……ない」

 なんだかずっとこのままでいたくて、あえて黙っていることにした。ぴたりと体をくっつけていると、私と暁の体温が混ざり合って溶けてしまうような、そんな錯覚に囚われる。
 そんなことを思っていた矢先、後ろから肩をつんつんとつつかれ、

「……ねぇ」
「ん?」

 振り向いた頬にちょんと、柔らかい感触を受けた。なんとなく恥ずかしくなってその手をきゅっと握る。嬉しい反面、今のキスはシロクマの子どもにしたものなのだと、少しだけ嫉妬心みたいなものがこみ上げる。
 もう、ほんとにこの男は。
 そんな自分の可愛くない心にじりじりしてしまう。もう、もう。
 それから胸の内で葛藤を繰り返したのち、私は意を決して振り向いた。もうシロクマの子どもじゃないってわからせなくては。そんな思いでいたのに、そこには――静かな寝息をたてて眠る暁がいた。その顔は、安らかそのもの。

「……もう……」

 なんだか一気に拍子抜けしてしまった。けれどその無垢な寝顔を前にすると、先ほどの気持ちなんかきれいさっぱりなくなってしまう。仕方ないなぁ、と胸の内で溢したあと、

「さて、運びますか」

 軽く息をついて立ち上がる。これからが重労働だ。意識のない人間ほど重いものはない。暁は身長のわりに線は細いものの、普段から鍛えているだけあって想像以上に重い。半ば引きずりながら、どうにかこうにかベッドへと運んだ。大きな体をベッドの壁側へぎゅうと押しやって、丁寧に布団をかけてやる。そして部屋の照明を落とし、やっと私もベッドへ潜り込むことができた。
 するとその時、私の身動きで起きたのか、暁の目がうっすら開かれた。

「……なまえ」

 今度はシロクマではなく私を私として認識したらしい。思わず顔が緩むのをこらえながら、

「さっさと寝る!」

 布団をぺしっと叩いて横になる。
 だんだん暗闇に目が慣れてきた頃、ベッドの中で暁と目が合った。その黒い瞳は、先ほど私が抱きしめていたあのシロクマのぬいぐるみの目に似ていた。

「……さっき夢をみたんだ」
「どんな?」
「やさしいシロクマの子どもに介抱される夢」
「そっか……」

 暁の手が伸びてきて、私の髪を優しく梳いてくれる。その心地良さにうつらうつらしていると、暁が楽しげに言った。

「僕たちもあんな子ども欲しいね」
「そうだね」

 お互いに笑みを交わしていると、暁の手が私の背中をゆっくりさすった。するとそれが徐々に下へ下りてきて、モコモコの生地をかき分け、直接肌へと進入する。

「……ストップ」

 私は手を掴んで、直ちにその進入を阻止した。

「酔っぱらいとはしません」
「……ごめん」

 しょんぼりと謝る暁は、もう大きな子どもなんかじゃなかった。油断するとこれだ。本能で生きているというか何というか。
 だけどすぐに暁は、悪びれもせず両手を広げて言った。

「何もしないから。抱きしめるだけ」
「ほんとに?」

 暁は妙に真面目くさった顔でうなずいた。こんな時、暁は絶対に嘘をつかないことも私は知っている。
 もう、と不満をもらしつつも、その温かな誘惑に勝てるはずもなく、私は素直にその胸の中へ飛び込んだ。

「おやすみ」




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