愛をひとさじ

 あの匂いの正体を、私は未だに知らない。「あの匂い」としか形容できないあの匂いは、いつ来てもあの場所から漂っていた。だから私はよそであの匂いを嗅ぐと、いつも古い記憶とともにあの場所を思い出すのだ。

 株式会社御幸スチールという江戸川区にある小さな町工場の隣に越してきたのは、私が五歳の頃だ。子供心に工場というのは好奇心のくすぐられる場所であり、越してきて間もなく遊び相手のいなかった私は、たびたびそこへ足を運んでいた。そんななかで出会ったのが一也だった。一也は御幸スチールの一人息子で、父親がここの社長なのだと言った。
 私たちが連れ立って工場の裏手の方へ回ると、シャッターは開かれていて内部を見渡すことができた。八月の蒸し暑い日で、業務用の大型扇風機がせわしなく回っていたのを覚えている。あたりに絶えず響く大きなプレス機械の音は、小さな私を怯えさせた。近づくと更にあの匂いは強くなった。何か金属の匂いなのか、機械の匂いなのか、はたまた別のものなのか。未知の世界に触れ、私の好奇心は加速度を増す。
 「あれが父さん」と一也が指差した人物を見ると、首にタオルをかけて薄緑色の作業着を着たおじさんが、一人黙々と作業をしていた。「あれが社長?」確か私はそう訊き返した覚えがある。なぜならその人物は、自分の中の世間の社長のイメージとはかけ離れていたからだ。大人になった今は様々な業種があることを知っているが、当時の私の社長のイメージといえば、高そうなスーツを着て、オフィスのデスクにふんぞり返っているというものだった。そのため、薄汚れた姿でみずから作業するあの背中が、どう見ても社長だとは思えなかったのだ。
 そんな私の内心を見透かした一也は、不服そうに口を尖らせて「社長」と返した。「社長」は痩せていて背が高く、寡黙な人だった。私たちの存在を認めても、ちらりと一瞥し、軽く手を挙げただけですぐ仕事に戻った。「子供は近づくな」。背中はそう語っている気がして、工場の内部に足を踏み入れることを許さなかった。けれど、工場を一歩出るとおじさんは穏やかな人だった。そして眼鏡の奥の目が一也によく似ていた。

 一也ともすぐに仲良くなった。公園で遊んだり、秘密基地を作ったり、いろんな遊びをしたけれど、とりわけ頻繁だったのが野球だ。最初はおもちゃのバットとボールだったが、一也がせがんだのかおじさんが買ってきたのか、途中から本物のそれに変わった。
 家にもよく上がらせてもらった。しかし、最初は疑問に思わなかったものの、回を重ねるごとに覚えた違和感。

『お母さんは?』

 一也はふいと顔を背けて、いない、とだけ言った。最初は買い物か何かでいないのかと思ったが、次第に常日頃からいない存在なのだと悟るようになった。口には出さなかったが、子供心にそれは衝撃的なことだった。けれどそれを私が引きずらなかったのは、一也の態度のせいだろう。一也は母親がいなくとも他の子供と何ら変わることなく見えたからだ。けれど厳密に言えば、私からそう見えたというだけだ。まだほんの小さな子供だった一也が、母親のいない事実を簡単に割り切れているはずもなく、単に態度に出さなかっただけだと思う。一也は昔からそういう奴だった。


 今年、一也はプロ五年目を迎えた。私は社会人一年目であり、まだまだ慌ただしい日々が続いている。私たちは高校の時に付き合いはじめ、未だにその関係は続いていた。そして先日、念願叶ってプロポーズされたばかりだった。年明けに籍を入れ、時期を見てから世間に公表されるらしい。最近になり、ようやく有名人と結婚するという自覚が湧いてきたものの、私とって一也は一也だ。何も変わらない。今も、そしてこれからも。
 十一月は契約更改の時期で忙しく、一也の誕生日は電話口で簡単に祝っただけで、後日改めてやろうということになった。オフシーズンである十二月に入り、やっと落ち着いたところで、私はとある提案をしたのだ。

 キャリーバッグのゴロゴロという音と、スーパーの袋のガサガサという音が、乾いた冬の空気に響いていた。冷たい木枯らしが吹き踊り、隣を歩く一也の色素の薄い髪を揺らす。冬は日の入りが早く、まだ五時半だというのにあたりはすっかり薄闇に包まれていた。

「この道懐かしいなぁ。よく自転車すっ飛ばしてさ」
「おー、あったあった」

 一也はダウンジャケットを着た背中を寒さで縮めながら、懐かしそうに微笑んだ。
 一也の実家で誕生日パーティーをしたいと私が提案したため、私たちは久しぶりにこの地へと戻った。私は大学入学を機に実家を出たため、自身にとっても帰省は久しぶりと言える。
 古びた木造の一軒家を曲がると、もうすぐだ。

「あれ? コロいねぇの?」

 一軒家の庭先を覗きこみながら一也が言った。ここには昔、おばあさんが一人で住んでいて、庭にコロという雑種犬が繋がれていたのだ。

「死んじゃったんだって。二年前くらい前かな、お母さんが言ってた。おばあさんは息子さん夫婦と同居だって」
「ふーん、そっか」
「時が経つのって早いよね。私もあっという間に歳取るんだろうな……」
「なにしんみりしてんだよ。行くぞ」

 一也は私の頭を軽く小突いて家へと促した。冬の夕方は物悲しさを一気に増長させるから苦手だ。
 少し歩くとすぐに灰色の工場が顔を出した。こじんまりとした、どこにでもある町工場。佇まいは何ら変わっていないはずなのに、昔より小さく、どこか寂しく見えた。子供の時はもっと大きく感じたはずなのに、自分が大人になってしまったからだろう。
 昔のように工場の裏手へ回ると、あいかわらず薄緑色の作業服を着たおじさんが、黙々と仕事に没頭していた。その背中もあの頃より若干縮んだように感じる。中にはおじさんの他に二人の従業員の姿があった。

「親父」

 一也が声をかけると、おじさんは振り向き、かすかに右手を挙げたあとすぐにまた作業に戻った。あいかわらずだな、と安心する。

「俺たちが帰ってきてもほんといつも通りだよなぁ」
「うん、おじさんらしいよね」
「ちゃんと食ってのかよ。一人にしとくとビールばっかだからな」
「ちょっと痩せたんじゃない?」
「……ったく」

 錆びた急な階段を上るとすぐ御幸家だ。ドアを開けると、懐かしい匂いに包まれた。人の家にはそれぞれ生活の匂いがあって、無人の部屋に外から帰ってくるとそれが如実に感じられる。工場の匂いが何の匂いかわからないように、この匂いの正体も何かはわからない。きっと家の中のあらゆるものが発する匂いだと思うけれど、昔からこれに包まれると不思議と安心した。帰ってきた、という心地がする。人の家なのに変な話だけれど。部屋はけっして広くはなく、つましい生活だったが、ここには確かなぬくもりがあった。

「おじゃましますっと」

 台所に買い物袋を置き、早速冷蔵庫を開けて食材を入れていく。その中はがらんとして寂しく、ポケットにはドレッシング類の他は全てビールで埋まっていた。大きく空いた空間にケーキの箱を入れると、かなり隙間が埋まった。一也もおじさんもチョコレートケーキが苦手なので、普通の生クリームを買った。
 野菜室の野菜はすっかりしなびてしまっている。もう使えなさそうなものは処分し、買ってきたばかりの野菜を入れていった。
 キャリーバッグのキャスターを拭き終えた一也が冷蔵庫を覗きこんだ。

「やっぱビールばっかじゃねぇか」
「あんまり料理しないのかな」
「食いモンなんもねーな。しまいに身体壊すぞ」

 苦々しくこぼす一也に私は、

「買い物してきてよかったね。よし、これでちょっとはにぎやかになった」

 明るく言った。
 すっかり彩りを取り戻した冷蔵庫に満足し、扉を閉じた。
 それからすぐ、一也が奥の部屋から自分用のエプロンを取ってきたので、私は無理やり席につかせた。

「ほら、今日の主役は座って座って!」
「なんだよ、手伝った方が早ぇだろ」
「いいからいいから」

 不平をこぼす一也をなだめたあと、すぐ台所に立った。誕生日の主役みずから料理をさせるわけにはいかない。一也は二人で作った方が合理的としか思わないだろうけれど、そういう問題じゃないのだ。

「一也の腕には遠く及びませんが、今日は私が振舞います。よろしくお手柔らかに」
「はっは、そりゃ楽しみだ」

 先ほどスーパーに立ち寄った際に何が食べたいか一也に訊くと、「普通のもん」と返ってきた。
 “普通のもん”
 プロ野球選手ともなると、美味しい料理を口にする機会は多いだろう。それこそ有名店のあれやこれ。料理の苦手な私に、今更、一也の舌を唸らせるようなものが作れるとは思っていない。「普通のもん」と言われて、私は昔ここでよく食べたカレーを作ることにした。
 一也が料理を始めたのは、小学校の家庭科で調理実習を習うはるか前だ。
 つましい父子家庭を案じた私の母が、夕方になるとよく私におかずの入ったタッパーを持たせた。「お母さんが作りすぎたからって」そう言って私は一也の家を訪ねた。今にして思うと、私も母も同情心がなかったと言えば嘘になる。けれど一也もおじさんもそのことにはいっさい触れず、いつも礼を言って受け取ってくれた。
 けれどある日、御幸家に行くと、台所で一也が木製の踏み台の上に立ち、器用に野菜を切っていた。おじさんの見よう見まねで始めたそうで、最初はサラダや野菜炒め、卵焼きなどの簡単なものだけ。しかし回を重ねるごとに一也は腕を上げてゆき、様々なメニューを作るようになった。
 そんな一也に変な対抗意識を燃やした私は、自分でも料理を始めた。でも人には向き、不向きというものがある。私はすぐに頓挫し、おとなしく一也の料理を堪能したのだった。
 おじさんが仕事で遅い日は、一也と私で一緒に食べた。あとから考えるとあつかましいことこの上ないが、当時の私は、あの家で一也が一人淋しくごはんを食べるのが嫌だったんだと思う。だって一人で食べるごはんはまずいから。一也にはいつもおいしいごはんを食べてほしかった。

 米を研いで炊飯器にセットする。使う食材を冷蔵庫から取り出し、並べた。
 料理好きの一也は香辛料を器用に調合して本格的なカレーを作るが、私には向いていないため市販のルーを使う。これだって立派においしいのだ。
暖房をつけてくれたものの、台所はあいかわらず寒い。シンクで野菜を洗っていると、水の冷たさが骨身にしみた。ジャガイモを手に取り皮を剥いていると、ふいに背後から声が飛んできた。

「おい、指切んなよ」
「大丈夫だって。心配しすぎ。お母さんか」
「お前、不器用だから」
「うるさいよー」

 しばらく野菜を切るのに集中していたが、ふと自分の左手を見て思い出した。そうだ、最初に猫の手を教えてくれたのは一也だ。
 そんな懐かしい気分に浸っていると、今度は一也が先ほどとは違い、静かに言葉を紡いだ。

「やっぱさ、誰かと食うメシってうまいよな。高校ん時はうまいっつーより体動かすためのガソリンって感じだったけど。でも今思うとうまかった」
「……そっか」
「昔、お前の失敗した煮物も食わされたよな」
「そんな忘れたい過去はいいから! まずいまずいって結局全部食べたの誰よ」
「ははっ、まぁ食えねぇことはなかったし?」
「もー、テレビでも見ててよ。見られると緊張するんだから」

 現に今だって人参を切る手がおぼつかないのだ。

「……なまえ」
「もー、なによ」

 今度は一喝してやろうと振り向くと、テーブルに頬杖をついた一也がこちらを見ていた。ひなたぼっこ中の猫のように目をクッと細めていて可愛らしく、途端に先ほどの気持ちは消え、代わりに愛おしさがこみ上げる。
 一也は頬杖をついたまま顔をわずかに傾けた。

「なんかいいなぁと思って」
「なにが?」

 わずかに考えるしぐさを見せ、

「……尻?」

 にししと笑った。

「尻、ねぇ……」

 私は無言でまな板の上で光るそれを手に取る。

「おい、冗談だって。物騒なもん向けんな!」
「エロ一也め」

 私がちゃかすと、一也もいたずらっぽく笑った。

「なんかこう、他人の包丁の音聞きながら待つのっていいなぁと思って」

 はっとしてその顔を見る。テレビで見る一也はいつも真剣な表情が多いが、今はとても穏やかな顔をしていた。

「……もう他人じゃないよ」

 私の言葉に、一也は一瞬表情を止めた。その顔はまるで、無防備な子供のそれだった。

「――そうだな」

 だって私たちはもうすぐ家族になるのだから。
 向き直ってすぐに料理を再開しようとしたけれど、視界が曇ってうまく集中できない。鍋の縁が金色に光り、輪郭が曖昧に揺れていた。




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