気になる背中

 夜を駆ける。光のように。
煌々とした明かりを振りまくコンビニ、赤提灯をぶら下げた昔ながらの居酒屋、すでに閉店して沈黙を保つ喫茶店。それらを追い越して、追い越して。街のあらゆるものが私の視界の端を走り過去になって、次々と新しい景色が飛び込んで来る。
 今日は不思議と足が軽い。先日新しくしたシューズも、足に馴染んできたようだ。高校に入ってからはじめたこの夜のランニングは、どうやら私の性に合っていたらしい。最初はただのトレーニングのつもりだったけれど、だんだんと楽しみに変わりつつあった。中学でも陸上をしていたので、高校でも当然のように陸上部を選んだ。
 九月に入り暑さも落ち着いたため、走りやすい気候になったのはありがたい。
 最近、ランニングコースを変えたばかりだ。この周辺には駅があり、まだそれほど遅くない時間帯のため、家路へと向かう人々が多かった。人が少ない方が走りやすいけれど、夜だから適度に人通りがあった方がいい。歩道で誤って人にぶつかってしまわないよう、呼吸をこころもち長めに切り替えて、スピードを落とした。
 くたびれた印象のサラリーマン、つんとすましてヒール音を鳴らすOLさん、いかにも部活帰りの高校生、その他ありとあらゆる人々を追い越して、徐々にスピードを上げていく。駅から離れると、先ほどまで近くにいた人々はちりぢりになって、もう視界に入るのは三人ほど。
 しばらく行くと住宅街に入った。そこからまた短い呼吸に切り替えて、加速しはじめる。お店のような明るい光はなく、ぽつぽつと寂しく点在するだけの街灯と、家々に灯る幸福な明かりたち。
 最近の私の楽しみは、彼を見ることだった。自然、足が急ぐ。こじんまりとしたアパートを過ぎた先にある月極駐車場。そこに、彼はいた。
 「ビュン」という空気を裂く音が、足を進めるごとに大きくなっていく。それに合わせて、私の胸の高鳴りも強まる。
 駐車場をそっと覗くと、やっぱり今日も彼はいた。暗闇にぼんやり仄白く浮かぶ、白いTシャツの大きな背中。服の上からでもわかる、無駄な肉のない鍛えられた身体だった。
 音の正体は彼の振るバットだ。彼のしなやかな身体から繰り出されるスイングは、そこに空気や重力がいっさい存在しないかのように、鋭く闇を裂く。何度も、何度も。そしてその軌跡は、彼の努力だった。
 一体いつも、彼は何回バットを振っているのだろう。ここを通るたびに考えてしまう。五十回か、百回か、はたまたそれ以上か。野球について詳しくないので、高校球児の一日のスイング量なんてわからない。
 でも、私は彼のことはよく知っていた。なぜなら彼――結城くんと私は、小中高と同じ学校だからだ。ただ、特別親しい間柄というわけではなく、十年近くの間で同じクラスになったのは、中学一年の一度きりだった。行事などで言葉を交わしたことはあるものの、厳密に言えば顔見知りといったところか。
 けれどその時の席替えで、たまたま結城くんの後ろになったことがあった。あの当時、学生服に包まれた背中はまだ小さく、その身幅はずいぶん余っていた印象だった。男の子はすぐに成長するだろうという親御さんの楽観で、大きめを着せられていたのかもしれない。しかし、小さいながらもそのぴんと伸びたまっすぐな背中は、今でも鮮明に覚えている。――きれいな背中。そう思った。
 私は再び結城くんの背中へ視線をやった。まっすぐな背中。それは今でも変わらない。けれど今はそこに、あの頃にはなかった逞しさや強さを秘めていた。知っているようで、知らないその背中。そこに私は今日もエールを送り、コンクリートを蹴りだした。

 ▽

 最近、日課の素振りをしていると、背中のあたりがどうも気になる。気配、とでも言うのか。いつもは一心にバットを振っていると、それ以外のことが考えられなくなる。神経は次第に研ぎ澄まされ、世界にはあたかも俺とバットだけしか存在しないような心地になるのだ。だが近頃はそこに、謎の気配が入り込むようになった。ただなんとなくだが、その気配に悪意のようなものは感じられず、どちらかというと好ましい類いのもののような気がするのだ。
 俺は背後の気配をそっと窺った。
 別段困ることもなかったので、今まで放置しておいたわけだが、どういうわけか今日はことさら気になった。
 素振りの手を止め、息をつく。あと五十回ほどで、一日に課せられた回数は終わる。このままやり過ごすべきか、それとも。
 見上げた群青の空に浮かぶ、脆弱に瞬く星。しばらくぼんやりと眺めていたが、やがて心を決めた。
 ――正体を突き止めよう。そう決意した時、すでに俺の足は動き出していた。
 駐車場に面した歩道に出てあたりを見回すと、ちょうど一人の人物が走り去ってゆくところだった。目を凝らすと、遠くの暗闇にわずかだがその姿が見える。全体的に線が細く、束ねた髪が背中で馬の尾のごとく揺れていたので、一目で女性だとわかった。
 俺はバットを掴み、勢いよく地面を蹴り出す。すぐに距離は縮まるだろうと、その背中を目指して走り出したが、しかし不思議と追いつく気配がない。そのため、先ほどよりぐんとペース上げると、徐々にその背中が見えてきた。
 が、その時、どうしたわけか目の前の背中がいきなり加速した。今までの走りは遊びだったんだとでもいうくらい、そのペースは段違いに速い。そのフォームは美しく整っていて、一見して素人ではないとわかる。そのため、俺も負けじとペースを上げた。視界の端を群青色が猛スピードで駆け抜ける。俺とて毎日練習で鍛えているから、足には自信があったため、畳み掛けるようにラストスパートをかけた。
 そしてついに、その時がやってきた。目の前の人物の息が乱れはじめたタイミングで一気に距離を詰め、前方に回り込んだ。
 しかし、次の瞬間。はぁ、はぁ、という苦しそうな息遣いが耳に入り、次にその顔を見た時、俺ははっと息を飲んだ。相手の方の驚きも、張りつめた空気を通してこちらに伝わってくる。俺は暗闇の中で目を凝らし、眼前の意外な人物を見つめた。

「……みょうじか?」
「ゆ、結城くん……?」

 荒い呼吸を繰り返すみょうじのその顔は、あきらかに強張っていた。闇のなか、わずかに見えるその瞳は、不安の色に揺れている。そしてその時になり、俺はようやく気がついた。みょうじの顔に浮かぶもの。それは恐怖だ。女性なら当然、夜道を誰かに追いかけられたりしたら逃げるのが普通だろう。近頃は痴漢だって珍しくないのに、俺はあろうことか追うことに夢中になり、すっかり失念していた。
 俺が一歩前に踏み出すと、みょうじの肩がびくりと大きく跳ねた。そのため、俺はこれ以上怖がらせまいと半歩下がり、みょうじに向かって深く頭を下げ、心から詫びた。

「怖がらせてすまなかった」
「う、ううん……大丈夫。なぁんだ……結城くんだったのか……」

 口では大丈夫だと言ったみょうじだったが、その声はかすかに震えていた。

「痴漢かと思っちゃった」
「すまない」
「結城くんでよかった……」

 そう口にするやいなや、黒のジャージに包まれた膝も同じく震えていたのか、へなへなとその場にへたり込んでしまった。

「みょうじ……?」
「……ごめん。安心したら腰抜けちゃった」
「大丈夫か?」
「うん。でもしばらく立てそうにない」
「そうか」

 ごめん、と繰り返すみょうじに、俺はすぐさま背を向け、屈み込んだ。
首を捻って背後を向くと、ぽかんと目を丸くするみょうじと視線が重なる。

「えっと……なに?」
「おぶされ。家まで送る」
「いや、いいよ。そんな」
「元はと言えば俺のせいだ。そのくらいさせてくれ」

 するとみょうじの頬は、暗闇の中でもよくわかるくらいふわりと朱に染まっていった。そのまま無言で首をふるふると振る。それはそうだろう。もう小さな子供ではないから、おんぶなんて恥ずかしいのだろう。だが、そうも言っていられる状況ではない。

「みょうじ」
「う……」
「もう遅い時間だ。家の人も心配するだろう」
「みょうじ」
「……わかった。じゃあ……お願い、します」

 みょうじがおそるおそるといった具合に、俺の背中に身を預ける。

「すまない、バットだけ持ってくれないか?」

 みょうじはこくりとうなずいてバットを受け取った。束の間、思案したすえその両腕を前方へと回し、バットを両手に持つ。背負った状態で立ち上がると、背中に触れるみょうじの身体が少しだけ強張った気がした。

「重かったらごめん」
「いや、みょうじは軽いぞ」
「……ふ、普通だよ」
「そうなのか?」
「むしろ、運動してるから筋肉ついて重いくらいじゃない?」
「いや、そんなことはない。たまにトレーニングで部員を背負うことがあるが、あれに比べれば何倍も楽だ」

 そう言うと、しかしみょうじは急に押し黙ってしまった。そしてすぐに小声で訴える。

「それはフクザツな例えかも……」
「そうか?」
「うん」
「……すまない」

 俺は元来、女心というものを察するには長けておらず、とりあえず傷つけたかもしれないと思い素直に謝った。すると、ううん、という小さな返事が聞こえ、それはなぜか耳に心地良く響いた。

「結城くん、いつもあそこで素振りしてるでしょ」
「ああ。青道に入ってからの日課だ」
「毎日ほんとよくがんばるよ」
「毎日?」
「え? ……あ、なんでもない……」

 みょうじは何かもごもご言ったあと、黙りこんだ。

「じゃあみょうじも毎日走っているのか?」
「毎日ってわけじゃないけど」
「そうか。がんばっているんだな」

 では、あの気配の正体はみょうじだったというわけか。俺が得心してうなずくと、背後からは「どうしたの?」という声。

「いや。なんでもない」
「ふーん……。変なの」

 みょうじは不満げに言って、足をぶらつかせた。

「それにしてもさ、私たちって練習バカだよね。学校で散々練習してるのに」
「ああ。でも、努力にやり過ぎなんてないと思うぞ」
「そうだね。私もそう思う。……でも、たまには休みなよ?」
「ああ。みょうじもな」

 それを最後に会話はふつりと途切れ、あたりは静寂が支配した。
 それにしても、みょうじとこんなに会話したのは初めてだったのではないか。ずっと知っている人物なのに、まるで今日初めて知り合ったかのような心地がした。
 静かな夜道には俺の足音だけが妙に大きく響く。暗い視界は俺から通常の視力を奪い、感覚が鋭敏になったせいか、背中のみょうじの温もりをより一層強く感じさせた。みょうじは先ほどまで走っていたため身体が火照っているせいか、子供のような体温がTシャツ越しに伝わってくる。それは俺の心に、温かい何かを灯した気がした。――まったく未知の感覚だ。
 その正体は不明だったが、俺はたった今生まれたばかりの小さな灯火が消えぬようにと、ただ願った。




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