雨の日に差し出された傘
※伊佐敷、夢主共に成人しています。 ばかばか意地っ張り。素直じゃないからこういうことになるの。早く謝らなきゃ。
雨音に呼応するように降り注ぐのは、後悔ばかり。
大粒の雨が、激しくアスファルトを叩いていた。まるで、空が怒り狂ってどしゃ降りの雨を降らせているみたいに。地面に溜まった水は、とめどなく排水溝の方へと導かれてゆくのに、その流れは依然として止むことはない。六月下旬、梅雨明けはまだ先で、最近は突然こんな天気に見舞われることが多かった。
私はコンビニの軒先で雨宿りをしながら、大きなため息をついた。けれどそれさえ、凶暴な雨音にかき消されてしまう。店内に目を向けると、突然の雨に足止めをくらった客たちが、並んで雑誌を立ち読みしていた。
――発端は本当に、些細なことだった。
靴下。純が帰宅してすぐ脱ぎ散らかした、裏返った靴下だ。
なんでちゃんと元に戻してくんないの?
あ? なにカリカリしてんだ。
最初はよくある口ゲンカだった。しかしそれは次第にエスカレートしてゆき、しまいにはこれを火種に、日頃の溜まりに溜まった鬱憤をぶつけ合ってしまった。それから私は何も持たずに飛び出して、あげくにこの雨。
ほんとばかだ、私。
急な大雨だったから全身ずぶ濡れでひどく寒い。前髪からは、小さな滴がぽたりと落ちる。
私たちは現在、同棲している。
私と純は高校の時の同級生だ。東京の大学に進んだ私は、関西の大学に進んだ純とは離れてしまったためしばらくは音信不通だった。だけど数年後、就職のため東京へ戻った純と、私は偶然再会した。久しぶりに高三の時のクラスメイトと飲もうということになり、集まったチェーンの居酒屋。そこに現れたのが純だった。
高校の頃、ひそかに想いを寄せていた純に、けれど私はそれを打ち明けなかった。お互い部活だとか、受験だとかに忙殺されて、付き合えたらいいな、くらいには思っていたものの、とうとう行動には移さなかった。
そんな思いを、再会できた嬉しさと興奮と、酔った勢いに任せて告白して、今に至る。まぁ、よくある再会話だ。
そんなこんなで、私たちの同棲ライフはもうすぐ一年を迎えようとしていた。が、最近はちょっと順調とはいいがたい。最初の頃は二人とも気を遣って、どこか遠慮していた部分があった。なんかままごとみたいだねって笑い合って。でも一年近く経つとお互いの存在が当たり前になり、そういった気遣いは減っていった。よく言えば、家族に近い存在になった。けれど、大切にしていた小さな一つ一つのことに、配慮が行き届かなくなっていたように思う。
混沌とした思考を一旦断ち切って顔を上げた。――あいかわらずの、雨。
そういえば、あの日もこんな雨が降っていた。ちょうど季節も今くらいで、梅雨の真っ只中。私も純もまだ高校三年生で、あの頃を思い出すと、むずがゆさと瑞々しい気持ちが胸いっぱいに広がった。
: その日、私は教室のそうじ当番だった。六時間目の終わりと共にくずりはじめた空は、放課後、そろそろゴミを捨てに行こうという段階になって盛大に泣き出した。室内はどんよりと薄暗く、雨が強く窓を叩いている。
「あ〜あ、とうとう降ってきたね」
私はロッカーにモップをしまって、振り向いた。
「……最悪だな。外で練習できねぇじゃねーか」
同じくそうじ当番の伊佐敷は、チッと舌打ちしてから、ゴミ袋の口を縛る。本当は当番があと二人いるのに、適当な理由をつけて早々に帰ってしまったため、室内には私と純の二人きりだった。
「伊佐敷ってあいかわらずの野球バカだね」
「うっせ」
「はぁ、こんな雨んなか帰るの最悪だよ」
「みょうじ、電車だっけか?」
「うん」
電車通学の私は学校から駅まで徒歩だ。これからこの雨のなか帰ることを思うと、窓の外を眺めるだけで憂うつな気持ちになった。そんな私の心中をおもんぱかってかは知らないけれど、伊佐敷はゴミ袋をひょいと持ち上げ、
「これ捨てとくからお前先に帰れよ」
と足早に教室を出て行く。
「あ、私も行く」
「別に俺一人で十分だろ」
「いーの! 最後までやり通すんだから。サボりじゃないんだからね!」
「別にサボりなんて言ってねぇだろーが。つか、あいつらとっとと帰りやがって! 四人いたらもっと早く終わったってのに」
悪態をつく伊佐敷に私は、ほんとにねぇ、とうなずいてその隣に並んだ。
伊佐敷はこれから野球部のキツイ練習が待っている。だけどこれまで一度だって、当番をサボったことはない。そりゃ、たまにふざけて友達とモップで戦ったりして子供っぽいとこもあるけれど、決められたことはキチンとやり通す奴だった。私はそんな奴がちょっとだけ――ほんのちょっとだけいいなぁなんて思ってる。今のところ打ち明ける予定はないけど。
それから私たちは、今日の数学の山田のズラのずれ具合がやばかっただとか、最近読んだおすすめの少女マンガの話だとか、結城くんの超天然エピソードだとか、そんなたわいもない話をして、すぐにゴミ捨てを終えた。教室へ戻りカバンを取って、短い帰途を共にする。雨は憂うつだけれど、こうやって二人っきりで過ごせたことがうれしくて、サボった二人に心の中でひそかに手を合わせた。
まぁ、許してやらんこともないか。
――けれどそのあと、事件は起こった。
「ない!」
「あ?」
「私の傘が……ない」
「マジかよ」
昇降口まで来て、私は傘立てに自分の傘がないことに気づいた。ここには生徒用の傘立てがクラスごとに設置してあり、雨の日はいつもここに置いていた。傘は最近買ったお気に入りで、水色地に白のドット模様が可愛らしく、雨の日でもテンションが上がるようにと選んだものなのに。
うちのクラスの傘立てには、数本の傘が寂しげに立てかけてあるだけだった。きっと部活でまだ学校に残っている生徒のものだろう。
「……盗られんだ。信じらんない」
呆然とする私に向かって、伊佐敷は意外にも冷静な調子で言った。
「まだ決まったわけじゃねぇだろ。他のクラスんとこに間違って入ってねぇか?」
「あ、そっか」
「どんな傘だ?」
「水色に白のドット」
「どっと?」
「水玉!」
「はじめっからそう言え!」
雨音に負けないくらい吠えたあと、伊佐敷は一番端の一年のクラスから順に傘立てをチェックしはじめる。対する私は、その反対側の三年生の端から見ていくことにした。三年生、二年生と見ていって、ちょうど真ん中あたりの二年C組のところで伊佐敷と肩がぶつかった。
「あったか?」
力なく首を振る。どこの傘立てにもなかった。
「はぁ……ついてない……」
「ひでぇことすんな」
「ほんとだよ……。この雨じゃしばらく止みそうにないし」
お互い外の雨へ視線をやるが、雨足は一向に弱まる気配がない。隣にいる伊佐敷は、ポケットに手を突っ込みじっと空を睨みつけている。
だけどその時突然、私のなかでビビっと。稲妻のようにそれが閃いた。災い転じて福となすとはまさにこのこと。うまくいけば、ちょっと恥ずかしいけれど“アレ”も夢じゃない。
即座に隣を向いて、
「伊佐敷傘持ってる?」
一縷の望みに賭ける。
「あ? 持ってねーよ」
「は?! なんで? 朝から曇ってたじゃん。なんで持ってないの? バカなの?」
「バカって言うな! つか寮だぜ? 学校まで走ればすぐだしこんな距離で傘なんかいらねーだろ」
と、なぜか偉そうにふんぞり返る始末。
私はたまりかねて、
「そんなドヤ顔で言うな! ようはただのズボラでしょ!」
「んだとコラァァ!」
「あんただって部室までずぶ濡れじゃん!」
「こんな雨たいしたことねーよ!」
雨音は「もっとやれ!」と私たちを焚きつけているようだ。不毛なケンカはしばらく続いたが、すぐにお互いバカらしくなり、どちらからともなく黙りこんでしまった。手持ち無沙汰になった伊佐敷が、気まずそうにコキコキと首を鳴らすだけが妙に大きく響いた。
「はぁ〜。もうしょうがない……」
「……どうすんだよ?」
私は覚悟を決めるため再び空を見上げた。ここで待っていても埒があかない。もう行くしか、ない。
「――決めた」
「あ?」
「走る」
「っておい! こんなどしゃ降りんなか帰んのか?!」
「ないもんはないんだし走るしかないでしょ」
カバンを胸に抱え込み、左脚を引いて身体にタメをつくる。イメージは駅までの最短距離を一直線。私は伊佐敷に手を振って、
「じゃあまた明日!」
そうして地面を蹴り上げ一気に駆け出そうとしたその時。
――がしっと、力強く何かが私の腕を掴んだ。
「待てよ」
声のした方を向くと、伊佐敷の手が私の腕をしっかりと掴んでいた。雨で室内が薄暗いなか、その真剣なまなざしがはっきり浮かび上がる。
「……なによ」
予想外に触れたその温かな人肌に、私の鼓動のリズムが早くなった。
「……待ってろ」
「え?」
「ここで待ってろ」
そう言いだすやいなや、伊佐敷はいきなり昇降口を飛び出した。頬に一瞬だけ感じた、躍動する風。私の腕を覆っていたぬくもりは離れ、肌は再びその体温を求めるように寂しく冷えていく。
駆け出した伊佐敷の、次第に小さくなる背中を襲うように、矢のような鋭い雨は真っ白なワイシャツを濡らし、靴から跳ね上がった泥がズボンに濃い染みを作っていく。雨に無謀な戦いを挑むようなその姿を、私は呆然と見送った。
「なによ……あれ」
それからすぐに伊佐敷は戻ってきた。こんな雨たいしたことないと息巻いていたわりには、頭からバケツの水をかぶったように全身ぐっしょり濡れていた。額には前髪が張り付き、水を吸って透けたワイシャツは、下に着たTシャツをくっきり浮かび上がらせている。
伊佐敷は、オラ、と乱暴に言って、私にシンプルな紺色の傘を差し出した。
「……え……」
「使えよ」
なぜか傘はきれいに閉じられたままだ。それを持つ手からは雫がぽたりと落ちて、地面に無数のシミをつくる。
私はどんな反応を示していいのかわからず、情けなく視線を彷徨わせた。
「な、なぁんだ。一応傘は持ってるんだ」
「当たり前ぇだろ。持ってきてねぇだけだ」
「なんで帰ってくる時に差さなかったのよ」
「こんだけ濡れたらどっちみち同じじゃねーか」
「……なにそれ」
受け取った時に、手が伊佐敷の指にちょっとだけ触れる。そこは、先ほどの温かさが嘘のようにひんやりしていて、思わずはっとした。
これから部活なのに、風邪ひくかもしれないのに、ばかだコイツ。大ばかだ。
目頭がジンと熱くなったけれど、表情を悟られないよう深く瞬きをして、口許をきゅっと引き結んだ。
「えと……ありが、と」
「おう」
満足げに笑い、そのまま再び雨のなかへ出て行こうとしたので、
「え、ちょっ、ちょっと! 伊佐敷!」
私がその背中を呼び止めると、伊佐敷が、んだよ、と怪訝そうに振り返った。
「あ、えーと……。部室まで一緒に……行こ」
自分のなかの勇気という勇気をありったけ詰め込んで、やっとのことで言葉を紡ぐ。だけど伊佐敷は、いじわるそうにニヤッと口の端を上げただけだった。
「バカは風邪引かねぇんだろ?」
「――な」
そして再び疾風のごとく駆けていった。傘と共に残された私は、本日二度目の背中を見送った。
「なにアレ……。めちゃめちゃかっこ悪いんだけど……」
さっきバカって言ったことへの嫌みか。
強面に顎ヒゲ、かっこ悪い決めゼリフ。普段少女マンガを愛読してるくせに、もっと気の利いたセリフくらい言えないの?
水も滴るいい男でもないし、悪いけど絵になる要素なんて一つもない。一つもないのに――。
「……ばーか。伊佐敷の、ばーか」
私は、ぱんっと勢いよく傘を開き、降りしきる雨のなかへ飛び出した。緩みっぱなしの口許を傘で隠して、ごまかすようにくるくる回す。先ほどより弱まった雨音は優しく、まるで歌うようだった。
: つま先にじっと視線を落とす。雨粒がアスファルトに落下して、弾ける。
ぽつり。
家を飛び出した時、勢いのままとりあえずつっかけたぺたんこのバレエシューズは、水を吸ってくたくたになっていた。濡れたシャツは肌に張り付いて気持ち悪い。ぶるりと悪寒がして肩を抱くと、へぷちっ、と変なくしゃみがでた。
このままじゃ絶対風邪ひくな。
他人事のようにぼんやり考えていたその時、雨音に混じって、前方から静かに足音が聞こえてきた。一人ぶんのそれが、徐々にこちらへと向かってくる。
もしかしたら――。いや、違う。純のわけがない。淡い期待なんて捨てろ。期待すれば、傷つくだけだから。
どうしても顔が上げられなくて、やっぱり見つめるのはつま先だけ。
ぽつり。
でもやっぱり、純かもしれない。純、他人、純、他人。幼い頃にやった花占いのように、雨粒を目で追って心のなかでひたすら繰り返す。純、他人、純、他人、純、他人、――純。
それはゆっくりと近づいてゆき、私の前でぴたりと音を止めた。
「――なまえ」
「…………」
「なまえ」
「……よくここにいるのわかったね」
「適当だ、適当」
何気なさそうに言うけれど、きっと相当探したはずだ。
「んだよ、泣いてんのか?」
「違う。ただの雨だもん」
「風邪ひくぞ」
「……わかってる」
ついに観念して顔を上げると、そこに、ビニール傘を差したずぶ濡れの純が立っていた。着ているTシャツは水を含んで、濃く変色している。それはあの日の光景と重なって、どこか不思議な気分だった。
純はぶすっとした表情で、怒っているとも、許しているとも、どっちつかずの顔をしていた。こういう地顔とも、いう。
私はかすれ気味の声でつぶやいた。
「……なんで傘差してんのに濡れてんの?」
「あー……、傘持たねぇで飛び出したら降ってきやがった。コレはさっきコンビニで買った」
と、真新しいビニール傘を軽く振ってみせる。私は唇を噛んで
「いかにも降りそうだったじゃん。傘も持たずに……バカなの?」
探るように、純の目を見つめると――瞬間。
「「バカは風邪引かねぇんだろ?」」
ふっと。どちらからともなく笑みがこぼれた。
「帰んぞ、なまえ」
私にしか見せない柔らかな笑顔で、すっと傘が差しかけられる。純の隣には一人ぶんのスペースしかなくて、「特別」なそこに居られることの幸せが、濡れた身体を優しく包み込んだ。
「うん……!」
迷うことなくそこへ飛び込む。すると、私の冷え切った肩に、純のそれがぶつかった。小さなビニール傘にずぶ濡れの大人が二人。どうしようもないばかな大人が二人。仲良く身を寄せて囁き合う。
「……濡れたシャツってよぉ……」
純は私の胸のあたりへ、チラチラッと控えめに目をやった。
「ん?」
「……エロいな」
「ほほう」
「――ぐほっ!」
「あ、ごめーん。肘当たっちゃった?」
「てめぇ……」
「誰かさんの鼻の下伸びまくってるみたいだったから」
恨めしげに脇腹をおさえる純がなんだかおかしくて、たまらずその腕を組む。あの日、相合傘の叶わなかった「私」の分まで、しっかりと。私たちは今、間違いなくビニール傘も曇るほどの熱を発しているに違いない。
「よし、今日はお詫びとして純の好きな料理作る!」
「おっ、マジかよ」
「えっと、チーズ系だとやっぱグラタン?」
「ピザ食いてぇな」
「ちょっ、作れるもんにしてよ」
ぽつり。
「チーズハンバーグでもいいぜ」
「えー、グラタンにしよ」
「つか自分が食いてぇだけじゃねぇか」
ぽつり。
「バレた?」
「ったく……」
幸せな音色は私たちと溶けて、溶けて。
――ぽつり。
企画≪JUNTAN≫へ提出
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