さよならネバーランド

 ※悲恋要素を含む暗いお話です

 だいたい、無理やり誓わせたのはなまえの方だ。俺はそれに仕方なく従ってやったにすぎない。――そう表面上は強がっていたものの、あの頃小さかった俺は確かに、本気で信じていた。幼い指に光るちっぽけなおもちゃに「永遠」を約束させる力なんかなかったけれど。
 「生涯をかけて誓う」こと。その本当の意味は未だわからないまま。あいつは今でも、覚えているだろうか。

 神奈川の実家へ向かう電車に揺られていると、あと二駅というところで母さんからメールが入った。
 “亮ちゃん、悪いけど正丸で餃子受け取ってきて”
 正月など節目の折に帰省はするものの、最近は仕事が忙しく、実家に帰るのは久しぶりだった。学生の頃に比べ、就職してからは帰省する回数がぐんと減った。
 駅から少し歩いて細い路地を進んだ先にある、年季の入ったたたずまいの中華料理店。毎度、滑りの悪い店の古い引き戸は、あの頃のままだ。店主は一向に直そうとしないらしい。ガラリと戸を開け中に入ると、醤油とニンニクと油が混ざったような、くどいけど食欲のそそる匂いに包まれた。油で滑りやすくなった床に気をつけながら店内を見回すと、あいかわらず厨房の奥では寡黙な店主が、ひたすら中華鍋を振っている。棚の上に設置された古ぼけたテレビには、夕方のニュースが映し出されていた。
 俺が予約していた餃子をカウンターへ取りに足を進めた時だった。会計をして餃子を受け取る一人の女性客。その見慣れた後ろ姿。一瞬迷ってから、声をかけた。

「なまえ」

 俺の声に反応して振り返ったその無防備な表情は、次第に驚きへ、喜びへとめまぐるしく変化し、親しみをめいいっぱい滲ませた瞳が俺を捉えた。

「亮ちゃん? 久しぶり! 今帰ったの?」
「うん」
「偶然だね。……あ、偶然ってこともないか。亮ちゃんのとこも正丸の餃子好きだったもんね」

 まくしたてるようにしゃべるなまえを横目に、俺も金を払って餃子を受け取る。

「最近、亮ちゃん全然帰ってこないからおばさん心配してたよ」
「忙しいんだよ、いろいろと」

 ふぅん、と、隣からは俺の返答に納得していないような呟きが返ってくる。
 俺たちは連れ立って店を出た。
 六月の夕暮れ時。まだ梅雨入りはしておらず、穏やかな風が吹いていた。まだ少し肌寒い日が続くからか、なまえは薄手のカーディガンを羽織っている。俺の手には小さめのボストンバッグとガーメントバッグ、そして先ほどの餃子の袋とそれなりの大荷物を抱えていた。

「あ、そっち持つよ」

 なまえが餃子の袋に手を伸ばした。その指先は、美しく手入れされていて、爪は淡いピンク色で彩られている。
 俺はそれを一瞥して、

「じゃあ……ハイ」
「え? あ、うん」

 なまえに全ての持ち物を差し出してやった。戸惑ったように受け取ろうとするなまえだったが、俺は、冗談だよ、と笑って引っ込めた。

「もー、あいかわらず亮ちゃんはいじわるなんだから」
「そう?」
「そうだよ」

 口をとがらせたなまえは、ガーメントバッグへと視線を落とす。

「それなに?」
「なにって、礼服だけど」
「あ、そっか……そうだよね。もう明日なんだもんね」
「……自分の結婚式忘れる花嫁なんて、なまえくらいじゃない?」
「ちょっ、忘れてたわけじゃないって! 意識がちょっとだけ昔に行ってたの!」
「ふぅん、どうだか」

 俺の言葉に憮然とした様子のなまえだったが、やがてゆっくりと夕焼け空を仰いだ。茜色が差した血色の良い頬が眩しくて、俺は目を細めた。

「こうやってさ、昔よく一緒に帰ったよね、三人で」
「うん」
「『夕日が落ちるー』って慌ててさ」
「なまえはよくベソかいてたね」
「そんなエピソードはいいの!」
「ハイハイ」

 夕闇の迫るアスファルトには、お揃いの袋を手に持って並ぶ二つの影が揺れる。パンプスのヒールで水増しされたなまえの背丈は、ちょうど俺と同じくらい。コツコツと、あの頃にはなかったヒール音が、静かな住宅街に妙に大きく響いた。
 明日、なまえの隣に並ぶあいつなら、俺より少し背が高いから多少なりとも格好はつくはずだ。ほんのちょっとの差だけど。
 家の前で別れようとした時、なまえはわずかにためらったあと口を開いた。

「ちょっとだけ……亮ちゃんち寄っていいかな?」
「いいけど」
「ありがと」

 なまえにとっては勝手知ったる小湊家。靴を脱いで上がる動作は淀みなく、まるで自分の家のようだ。まぁ、家も隣同士だし、昔はよくお互い行き来していたから当たり前と言えば当たり前だった。
 リビングに顔を出すと、ちょうどソファに腰掛けた母さんと春市がいた。俺たちの帰宅に気づいた二人が顔を上げる。

「あ、亮ちゃんおかえりなさい。なまえちゃんも」
「こんにちは」

 なまえがぺこりと会釈をする。
ふと母さんの膝元に視線をやると、一冊のアルバムが広げられていた。表紙の色から、春市のものだとわかる。

「兄貴、おかえり」
「ただいま」

 春市が照れくさそうに顔を伏せた。

「今ね、春ちゃんとアルバム見てたの。ほら、これは掴まり立ち始めた頃の。春ちゃんったら一生懸命亮ちゃんのあとばっかり追いかけて」
「もー、それさっきも聞いたよ」
「あら、そうだったかしら」

 母さんがおっとり微笑んでページをめくるのを、春市は目を細めて眺めている。二十歳を過ぎても、母さんにとっては俺たちはまだまだ子供なんだろう。しばらくアルバムを見つめていた母さんだったが、突然、思い出したようにこちらを向いた。

「あ、いけない! お夕飯の支度の途中だったわ」

 と、立ち上がりかけたところを俺が制した。

「まだいいよ。あとで俺も手伝うから、春市とゆっくりしなよ」
「亮ちゃん……いいの?」
「うん」
「今日はご馳走だから期待しててね」

 俺はうなずいて踵を返した。その時、視界の端でなまえと春市が、一瞬だけ視線を交わすのが見えた。なまえの口許がわずかに緩む。その間にはきっと、二人にしかわからない言葉が交換されたのだろう。
 それから俺となまえは、揃って二階の俺たちの部屋へ向かった。暗闇の空間に手を伸ばし、壁のスイッチを探って電気をつけると、なまえが懐かしそうに部屋じゅうを見回した。

「亮ちゃんたちの部屋、久しぶりだなぁ……」
「なまえ、ベッドでよく居眠りしてたよね」
「うん。居心地よくてついね」
「マンガも勝手に読みまくって、汚したりとかしょっちゅうだったし。俺のお気に入り」
「亮介サマ、それはもう時効ということで……」

 と、懇願するように手を合わせる。

「どうしよっかな。愛蔵版出たとこだし、それで手を打ってやってもいいけど」
「もう、鬼! たんまり稼いでるくせに!」
「それとこれとは別」

 そう言い放って毛足の長いラグに腰を下ろし、本棚からマンガを取り出した。久しぶりにパラパラとめくると、古いインクの匂いが鼻をかすめた。日に焼けて、もうすっかり色褪せた背表紙のタイトル。子供の頃は幾度となく読み返していたけれど、今はこれがなくても平気になった。というより、その存在自体をすっかり忘れていて、自分がここから遠のいていた年月を感じさせた。
 なまえは、ラグの上へストッキングに包まれた足をはしたなく投げ出し、はしゃいだような声で言った。

「亮ちゃんって怖い本好きだったよね。小学生の頃、学校の怪談に誰より詳しくて」
「『学校の怪談』って久しぶりに聞いたよ」
「トイレの花子さんとかあったよね」
「走る人体模型とかでしょ」
「あと……ひとりでに鳴るピアノとか」
「段数が変わる階段とかね」
「あとは……だめ、もうネタ切れ……」
「記憶力悪くない?」
「普通そんなに覚えてまーせーん!」

 なまえが駄々っ子のように足をばたつかせる。

「足」

 俺が非難するようにそれに視線をやると、なまえは恥ずかしそうに両手で膝を押さえて俯いた。
 こんな子供っぽいことをするなんて珍しいなと思う。まぁ、さすがに小さい時はよくやっていたけど。
 それから俺は、中学卒業とともに出たこの部屋を改めて見渡した。当時の俺と春市は、お互い思春期特有の「自分の部屋が欲しい」という願望は特になく、俺が出て行くまでずっと二人部屋で過ごしてきた。たまに帰省する時にはこの部屋で寝るけれど、部屋の模様替えなどはしていないので何もかもあの頃のままだ。母さんは昔の思い出をそのまま封じ込めるかのように、部屋のものをいじらないし、こまめに掃除をしているようだった。
 部屋はどこか、よそよそしい静寂で満たされていた。先ほどから俺たちは子供の頃の思い出ばかりに浸って、確信の部分には触れていない。中心部を避けるかのように、その周りをぐるぐる回るだけ。
 俺たちの関係性が崩れたのは、俺がこの家を出て行ったあとだった。一年の冬、久しぶりに帰省した時に覚えた強い違和感。それは、春市となまえとの間に感じた空気感だ。あの時から――いやもうそれ以前から、俺と春市となまえを繋ぐ何かがすっかり変容していたのだと思う。
 時間の止まったようなこの部屋には、パステルブルーのカーテンに、温かみのある木製の勉強机。いたずらで、当時好きだったキャラクターのシールを貼ってそのままになった本棚。全ては子供ためのものであり、大人の自分が今、ここにいることになんとなく居心地の悪さを感じた。あの頃は確かに、どこよりも落ち着くはずの場所だったのに。俺はふいにひどく遠いところへ来てしまったような、寄る辺ない心地がして、無意識にラグの毛足を指で引っ張った。
 その時、隣から衣擦れの音が聞こえた。

「これ……覚えてる?」

 なまえが俺に向かって開いた右手を差し出す。そこへちょこんと乗った、鈍く輝く小さなそれ。

「……なんだっけ」

 俺は、一瞬動揺したことを悟られないように、何気ないふりを装った。ポーカーフェイスは昔から得意だ。

「もー、覚えてないの? 子供の時に亮ちゃんがくれた指輪だよ」
「ああ、あれね。縁日で買ったやつ」
「そう。亮ちゃんが買ってくれたんだよ」

 それはおもちゃの指輪だった。赤い石を模したプラスチックがはめ込まれた、いかにも子供用のもの。なまえが何度も触っていたせいで、輪の部分の金メッキはほとんど剥がれていて、鈍い銀色が覗いていた。

『誓いの指輪が欲しいの』

 夜遅くまで起きて観ていたドラマの影響だろう。なまえがある日突然こんなことを言ってきた。その時は適当に聞き流していたけれど、ふと訪れた縁日でこれを見つけて、俺は密かに貯めていたお小遣いでこれを買った。本当は射的をやるつもりだったのだ。その時は少々名残惜しい気持ちだったものの、これを渡した時のなまえの顔を見たらそんな思いも一気に吹き飛んだ。
 あの時の笑顔が重なる。口許に笑みを浮かべたなまえが、人差し指と親指で指輪を挟み、蛍光灯の方へとかざした。

「私、亮ちゃんに無理やり永遠の愛を誓わせたんだよね。我ながらませた子供だ」
「レースのカーテンかぶって迫ってきたよね。『誓いますか?!』って。花嫁と牧師の一人二役」
「うわー、そうそう。なんかすごい恥ずかしい……」

 そう言って、少女のように赤い顔を覆った。今日のなまえは少し変だ。何がどう、というのはわからない。ただ、それは俺も同様なのかもしれない。なまえは、大人の顔に時折、昔の無邪気さが織り混ざって、俺自身は今、子供なのか大人なのか、自分の現在地がわからなくなる。昔に戻った気がするのは、この部屋が誘う幻影のせいだ。今という時間は、俺の意思とは関係なく刻々と流れているというのに。

「この指輪ね、すごくうれしかったよ」
「…………」
「……ありがとう」

 なまえは指輪を持ってすっと立ち上がり、それを勉強机の上に置いた。しんとした部屋に、コツッという安っぽい音が響く。

「……これは置いてくね」

 俺はそちらから目を逸らし、整然と並んだマンガのタイトルを見つめていた。すっと息を吸う。そして出て行く気配をみせたなまえに、できるだけ軽い調子で口にした。

「落ち着いたら、新居に遊びに行くよ」

 ふいになまえの足が止まる。それから短く息をついて、手土産弾んでね、と明るい声を残して部屋を出て行った。
 しばらくしてから、俺は立ち上がって机の上の指輪を手に取り、しげしげと眺めた。色褪せたおもちゃ。安っぽくて、軽すぎて、こんなものじゃ何も誓えやしない。
 明日、本当の永遠の愛を誓うなまえに、これは必要ない。俺のなかで、なまえへの気持ちはとうの昔になくなっていたし、共に歩む二人を心から祝福する気持ちでいる。そこに偽りはない。けれど――この場所に戻ると、ふいにあの頃の記憶が、目を背けたくなるような鮮やかさで蘇り、うっかり絡めとられそうになる。
 子供のずさんなおもちゃの片付けのように、散らかった気持ちをそこへ閉じ込めるため、乱暴に部屋の照明を落とした。無言で横たわる闇。俺はそれに向かって腕を振った。暗い部屋の片隅に吸い込まれた指輪は、一瞬だけ強く煌めき、乾いた音をたてて消えていった。




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