秒速のエモーション
面倒なことになった。
私はプリントに視線を落とし、ため息をついた。こんな役回り、いくらでもやりたい女子はいるだろうに、よりによってどうして私なんだ。
現在、私は昼休みという貴重な時間を割いて奴を探していた。――目的の御幸一也を。
いつもなら、昼休みは席に着いておとなしくスコアブックを読んでいるはずの御幸が、今日に限っていなかった。私はプリント片手に奴の行きそうな所――といっても、私はその行動を詳しく把握しているわけじゃない――をしらみつぶしに探していた。
もう、どこにいんのよ。
わずかな苛立ちを覚えながら中庭に足を踏み入れたその時、ちょうどベンチに奴の姿を発見した。なんのことはない、御幸の手元にはスコアブックがあり、単に場所を移しただけで行動は変わらないらしい。
私は嘆息したのち近づいた。
「御幸」
声に反応した御幸がスコアから顔を上げると、色素の薄い前髪がさらりと揺れた。レンズの奥の瞳が、興味深そうにこちらを見つめている。
「ん? 」
「ちょっといい? ヒッティングマーチのことなんだけど」
「ヒッティングマーチ?」
「そ、あんた夏大出るんでしょ? 吹奏楽部で応援の時演奏するから、曲こん中から決めて」
私は御幸にプリントを渡し、隣に腰かけた。
御幸は組んでいた長い足を解き、身を乗り出すようにしてプリントに視線を落とす。その中身はもちろん、ずらりと並んだヒッティングマーチ候補だ。
「自分のヒッティングマーチか……」
「そう。青道は各自ちゃんとあるからね」
「ふーん、結構いっぱいあんのな」
「定番曲から流行りの曲まで網羅してるよ。さぁ、どれでもどうぞ」
「つか、みょうじって吹奏楽部だったんだ」
「まぁね」
御幸は真面目くさった顔で、しばらくじっとタイトルを追っていた。けれど、すぐにふぅむと考えるようなしぐさをしたあと、すぐにぱっと顔を上げて、
「なんか知らねぇ曲ばっかだな」
「そう? どれも有名な曲だよ」
「俺そういうの疎いしなぁ」
と、困ったように頭を掻く。
「ま、いいや。みょうじに任せるわ」
「は?」
「だからお前が選べってこと」
「なんで私なのよ。だって自分の打席の時の曲だよ? それってかなり重要だよね?」
「まぁでも、そんなこだわりとかねぇし。つか、打てねぇ時は打てねぇよ」
「――なによ、それ」
急に声のトーンを落とした私を不審に思ったのか、御幸がわずかに眉を寄せる。
「こっちは一つでも多く勝てるようにって、暑いなか必死に演奏してんのよ! どうでもいい扱いすんな!」
私の剣幕に押された御幸が、はっとして黙りこむ。周りにいた生徒たちも何事かと振り返って、私たちを見ていた。
「……あ……」
その沈黙で徐々に冷静さを取り戻した私は、気まずいと思いながらも御幸へちらりと視線をやった。
「……ごめん。言いすぎた」
「いや、こっちこそ悪かった。でもさ、別にどうでもいいって思ってるわけじゃねぇんだぜ? 応援あるとやっぱやる気でるし」
「……うん」
「ただ、知らねぇ曲も多いしさ、よかったら教えてくんね?」
私が、うん、と頷くと、御幸はにっと笑って再びプリントを取り上げた。
「タイトルだけ見てもいまいちピンとこねぇんだよなぁ」
「御幸って流行に疎そうだよね。やっぱ友達いないから?」
「ん? なんか言った?」
私はそれをさらりと流して、
「まぁ、メロディは知ってるけどタイトル知らないってよくあるもんね。この中で気になるのある?」
「あー、例えばこの――『どか〜ん』ってどんな曲?」
「あ、それはダメなんだ。増子先輩の曲だから」
「あの曲、『どか〜ん』ってのか」
そうつぶやいたあと、御幸が小さく頷いた。
「言われてみるとすっげーピッタリ。増子さんが打つと『どか〜ん』って感じだもんな」
「でしょ? やっぱこの曲かかったらこの人! ってのがいいじゃん」
「ナルホドなー」
「――ね、さすがに結城先輩の曲はわかるよね?」
「ルパンだろ」
「……よかった。さすがにそこまではひどくないよね」
ほっと息をついたのもつかの間、御幸はあるタイトルを指して、
「この『紅』ってどんな曲?」
「『紅』知らないの?! よく甲子園でも聞くじゃん!」
「あんま曲名とか意識しねぇしわかんねぇよ」
と、ぶすっとした顔をしたので、私はいよいよ本格的に困ってしまった。
「どんなって言われてもなぁ」
「カンタンだろ。みょうじ歌ってよ」
「は?!」
「え、歌えねーの?」
御幸はこちらの反応を楽しむかのように、意地悪くニヤニヤ笑い。私は隣をきっと睨みつけて、
「『歌ってよ』なんて簡単に言うけどね! 楽器ができるからって歌がうまいわけじゃないんだから!」
「おいおい、そこ威張るとこじゃねぇって。つーかみょうじ、実は曲知らねぇとか?」
「知ってるわよ!」
「ほー」
つい、タンカを切ってしまった。
それを待っていましたとばかりに御幸は、私へ目配せをして先を促す。――いつでもどうぞ、と。
あー、もうっ! どうにでもなれ!
腹をくくった私は、深く息を吸い込んで歌い始めた。
――………
「……みょうじって音痴だな」
「あんたオブラートって言葉知ってる? そういう時はね、包むのよ!」
「ははっ、俺嘘つけねぇ性格だから」
「……知ってる」
「――えーと、じゃあ次コレな」
「まだやんの?!」
「もちろん」
御幸ファンならさぞたまらないだろう爽やかな笑顔で、ぬけぬけと鬼のようなことを言い放つ。私は、この憎きメガネを奪って叩き割ってやりたい衝動を抑えながら、渋々歌い始めた。そしてしばらくそんなやりとりをしているうちに、私もどこか吹っ切れてしまったのか、気がつけば御幸のリクエストに全て応えていた。
しかし、そんな私の努力もむなしく、当の本人は、
「うーん、どれもいまひとつピンとこねぇな」
不満気な様子だ。
「歌が悪いって言いたいわけ?」
「いや、そうじゃねぇんだけど。――ただ、どれも決め手に欠けるかな」
「決め手、ねぇ」
御幸の言わんとするニュアンスはわかるけれど、かといって私にもどうすることもできない。
「なんかオススメの曲とかねぇ?」
「オススメかぁ……」
私はタイトルを目で追いながら、
「『TRAIN TRAIN』は? 定番でノリもいいし打てそうじゃない? ……てか、知ってる?」
「あー、あれか。知ってるけど……」
「けど、何?」
「俺よりこういうの好きそうな奴がいんだよなぁ」
「夏大に出る人なの?」
「いや、でねーんだけど、秋には絶対出てくるぜ?」
「ふーん」
御幸がそこまで言うんだから、相当期待値が高いんだろう。
「あとは……、『サウスポー』どう?」
「いや、それはかぶるしダメ」
「かぶるって誰と? 今はコレ、誰のヒッティングマーチでもないけど」
「知り合いにいんだよ。『サウスポーは俺のためにある曲!』って思ってそうな奴が」
「なにそれ、超ワガママそう」
すると御幸は「あ」と呟き、何か思い出したように口を開いた。
「亮さんのヒッティングマーチ勧めたの、お前んとこの部長なんだって?」
「あ、うん。『キューティーハニー』しか認めないって言って、小湊先輩に詰め寄ったって話」
「あの亮さん相手に……なんつーかツワモノだな……」
「うん、怖いもの知らずだよね……」
実は今日のことも、その部長からの頼まれ事だったりする。
「なんかこう、打率上がるような曲がいいな」
「打率が上がる曲ねぇ……」
そんな曲あるんだろうかと疑問に思いながらプリントを眺めていたその時、私の目にあるタイトルが飛び込んできた。
「「狙いうち!!」」
御幸とほぼ同時に叫んでしまったので、驚いて互いに顔を見合わせた。にっと笑みを浮かべるその顔には、いいじゃん、と書いてあった。
「うん、『狙いうち』ってまさにピッタリ。バッテリーの配球読んで狙いうちってね」
「私もなんかテンション上がってきた。この曲好きなんだよね。よし、大会向けて練習がんばろっ」
「おー、俺らもお前らの応援楽しみにしてっから」
「うん!」
「がんばれよ」
「御幸もね」
御幸がスコアブックを手に立ち上がる。
「――んじゃあ、俺行くわ」
一人さっさと昇降口の方へ歩き出してしまった。散々人を巻き込んでおいて、決まった途端あっさりだ。
「なにあれ……」
苦笑いしながらひとりごちて、その背中を見送る。背が高いため、遠くから見ても一際目立つその存在感。
あーあ、なんかムカつく。
私はモヤモヤした気持ちをどうにかしたくて、立ち上がって右手でピストルの形を作り、すっと構えた。――照準は、御幸一也。
「ねーらーいーうーちー」
そっと歌を舌に乗せ、照準を御幸の背中に合わせる。初夏の日差しを浴びて、真っ白なカッターシャツが眩しいくらい輝いていた。
するとその刹那。色素の薄い髪が揺れ、メガネが光を受けて強く反射した。振り返った御幸と視線が重なり、その瞳に射すくめられて私の体が固まる。
その、意地悪くかすかに持ち上げられた口の端。
けれどそれは時間にすればほんの一瞬のことで、御幸はすぐに向き直って歩き出した。
私は左胸をぎゅっと押さえて、その衝撃に耐えていた。真っ赤な傷口から噴き出したのは、悔しさと情けなさと奴への――。
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