朝日にきらめく足跡

 107個目の凍てつく煩悩を、そっと置いた。
 先ほどからピリピリ痛む、氷のように冷たくなった指先。冬の日の出は気が遠くなるほど遅く、ようやくあたりが明るくなってきたところだ。昨晩にかけてしんしんと降り続けた雪は、住宅街をぽってり白く覆っていた。この辺でこれだけの量が降るのは珍しい。大晦日の朝はひっそりした静けさが横たわっていて、時折、庇から落ちる雪の音が耳をかすめる。


 ――昨日の夜、純から電話があった。
 私は伊佐敷家のリビングで、お姉ちゃんたちと一緒にテレビを見ながらあいつの帰りを待っていた。純とは家が隣同士の関係で、いわば幼なじみ。
 バラエティ番組のばかばかしい笑い声が響くなか、炬燵に入ってみかんを食べながら、積み上げられた少女マンガに手を伸ばす。毎年、年末にはあたりまえのように繰り返されてきた光景。けれど今年はこの中に、あいつがいない。
 今年から東京の学校で野球をするため、寮に入ったからだ。野球強豪校の冬合宿は、カレンダーの予定なんてお構いなしに、年末ぎりぎりまで組まれている。入学してから帰省したのは、夏の大会のあと一回だけ。昨日は、指折り数えて待った特別な日だった。
 学校はどう? 練習はどう? どんな友達がいるの? 少女マンガ好きなとこ引かれなかった? あいつに聞きたいことは星の数ほど。
 だけどあのけたたましいコール音が鳴った瞬間、すべてが無になった。

『なまえちゃん、ごめんね。純、今日は結城くんちに泊まるんだって』

 電話を取ったおばさんは悪くないのに、私に申し訳なさそうに謝る姿は、その事実を明確に突きつけられたようで言葉につまった。
 また“哲”か。
 純とのメールのやりとりの中で、圧倒的によく登場するのが“哲”だ。“哲”は野球のために努力を惜しまない奴で、囲碁と将棋と時代劇が好きらしい。正直、それだけ聞いてもイメージはおじいちゃんで、どうやっても頭の中で高校球児という像が結べない。
 毎日部活で一緒にいるんだから、こんな年の瀬くらい早く実家に帰ってくればいいのに。私の中の不満は、窓の外の降りやまない雪のように、静かに、けれど確実に積もっていった。


 大晦日に除夜の鐘を108回撞くのは、108の煩悩を滅するためだと、以前何かで読んだことがある。
 夜までにあいつは帰ってくる。除夜の鐘では、間に合わないのだ。
 純の家と私の家に面する道路で、私は先ほどから黙々と作業を進めていた。まだあまり踏み荒らされていない新雪の上に、ゴロゴロと並ぶ拳大ほどの雪玉たち。
 これは、私の煩悩の形だ。108回鐘を撞いて煩悩がなくなるなら、私は108個の雪玉を作ってそれをなくしてみせる。
 しばらくぼぅっと地面を見つめていたが、やがてひとつ息をついて立ち上がった。
 あとは、最後の1個を残すのみ。早く作ってしまえ。そうすればすぐ、楽になれる。
 ぎゅっ、ぎゅっと地面の雪を踏みしめながらその場を行ったり来たり。つかの間、逡巡していたけれど、やがて覚悟を決めてしゃがみこんだ。緩慢な動きで、地面の雪を両手ですくう。雪はこんなにも白くふんわりしているのに、手袋の中の私の手は、刺すような冷たさですでに感覚がない。すると――
 ざく、ざくっ。
 白く輝く世界の片隅で、突如、沈黙を破るその音は聞こえてきた。
 純はここへきてまだ、私を苦しめるつもりなのか。
 ためらいなくぱっと手を開く。するとそれは、ふわりと白い煙のように離れていった。立ち上がって足音のした方を振り返ると、朝日と、それに照らされた雪と、まだ遠くにいるあいつの姿が痛いくらい目に染みた。ダウンジャケットを着た純が、ポケットに手を突っ込み、寒そうに身体を縮めながらこちらへ向かってくる。

「よぉ、出迎えか?」
「......おかえり」

 どこかお気楽な純の声。私は押し殺すような調子で言いながら、そっと足元の雪玉を1つ掴む。そしてそれを、見よう見まねのピッチャーのフォームで思いきり繰り出した。

「あだっ!!」

 ぱしゃり。それは純の胸元で白く弾けて消えた。

「いきなりなにすんだコラァ!! 危ねぇじゃねーか!」
「......自分の胸に手ぇ当てて聞いてみれば」
「あ? なに言ってんだ?」
「絶対に教えてやらない」

 な、と反論しかけた純へ、続けざまに雪玉二発をクリーンヒット。撥水加工されたダウンジャケットは、何食わぬ顔で元の色を保っている。
 純は、このヤロー、とダウンについた雪を払うと

「なんか怒ってんのか?」

 しかめっ面でこちらの様子をうかがった。

「別に。そっちはそっちの付き合いがあるんだろうし」
「......昨日のことか?」
「............」
「だから早い電車で帰ってきただろーが」
「そういう問題じゃ、ない」

 じゃあ、と顔を歪めた純に再び雪玉をもう一発お見舞いする。

「いてっ」
「純のばーか」
「なっ?!」

 そのあとはもうひたすら、ばーか、ばーか、と手当たり次第投げつけた。純は丸腰状態だから、私にはもちろん何の攻撃もない。ぶつけて、ぶつけて、ぶつける、一方的な寂しい雪合戦。
 指先の痺れとともに、心が擦り切れていくのを感じていた。こんなのは単なる八つ当たりだ。ちゃんとわかっているから、余計にむなしかった。
 だけど純は、ぶつけられる雪玉をわずらわしそうにしながらも、それをよけることはなかった。その態度が、余計に私を苛立たせる。

「......なんでよけないの。青道じゃもっとすごいノック、飛んでくるんじゃないの?」

 純は少し困ったようにガシガシ頭を掻いた。

「お前、理由もなくこんなことする奴じゃねぇだろ」

 ふいに、胸をつかれる思いがした。言葉が出ない。
 隙ができたと思ったのか、真剣な顔をした純が、一歩ずつ踏みしめるような足どりで私のそばまでやってくる。そして、手を伸ばせば届く距離で歩みを止めた。
 まっすぐ、射抜くようなその視線。
 私がそれに耐えきれなくなって足元を見ると、まだ無傷の雪の上に純の足跡がくっきりついていた。それが、てらいのない朝の光を受けて、きらきら輝く。
 純は自分で青道に行くことを決めた。わかってる。私にはただ、自ら道を切り拓いて突き進んでいく純が、どうしようもなく眩しかった。力強く、一歩一歩踏み出す足に迷いはなく、その道程には確かな足跡が刻まれていく。目を背けようともそのきらめきは、否応なく私に突き刺さる。ずっと同じところにいたはずなのに、気がつけば純は、ずっと遠く、私の手の届かない場所まで行ってしまった。

「なまえ、どーした?」

 さっきから黙りこんでいた私の顔を、純は心配そうに覗きこんだ。もう、限界だった。ずっと焦がれていた懐かしい声を聞いて、心が、気持ちが、一気に決壊して溢れ出した。

「淋し......かったの」
「なまえ?」
「純、東京に行ってから全然帰ってこないし、メールしてもすぐ返ってこないし......」
「そ、そりゃ」
「わかってる!」

 戸惑う純の言葉を遮るように叫んだ。

「純のこと、ちゃんと応援したいんだよ。でも......」

 視界の中の白がゆらゆら揺れる。冷たい頬を伝う、熱い感触。純の前で泣いたのなんて、何年ぶりだろう。
 野球をひたむきにがんばる純が好きで、それを応援したいという気持ちはけっして嘘じゃない。けれど同時に、それを淋しく思う自分の気持ちにも、嘘はつけない。
 すると純はふっと息をついて、はめていた手袋を取りはじめた。そしてその両手は素早く移動し、いきなり私の頬を包みこんだ。

「ひゃっ?!」

 突然の出来事に、思わず変な声が出る。久しぶりの純の手のひらの感触は、以前よりずっと硬く、だけど変わらないあったかさがそこにあった。

「頬っぺた、冷てぇな......」

 せつなげな色を宿したその瞳。だけどすぐ、ニヤッといたずらな笑みを浮かべ、その手にぐっと力が込められた。

「あにすんにょよ」
「はっ、すっげぇブサイク! ざまぁねぇぜ」
「にゃめてよぉ」
「あ? なんだって?」

 純のいじわる。女の子にヘン顔の刑なんて、さっきの仕返しのつもりだろう。拳でその胸をどんどん叩いたけれど、鍛えられた胸板はびくともしない。そういえば、背もちょっとだけ伸びた気がする。
 それから純は、ちょっと照れながらもやわらかい笑顔を向けた。

「待っててくれて、ありがとな」
「待って......ないもん」

 あまのじゃくな言葉とは裏腹に私の涙は、雪どけ水のようにその温かな手の甲を伝う。純は仕方なさそうに小さく笑い、ちょっと乱暴に親指でそれをぬぐった。ほどなく私の頬は解放されたけれど、まだそこにはちゃんと、純のぬくもりが残っていた。

「春に大会はじまっから見に来いよ」
「ふ、ふぅん? まだレギュラーでもないくせによく言う〜」
「んだとテメェ!」
「うわ、『スピッツ』が吠えたー!」
「『スピッツ』じゃねぇ!!」

 また私の顔に手が伸ばされたので、そうはいくかとかわす。
 今はもう、ただ一緒に笑い合えたことが、心の底からうれしかった。

「ねぇ、今度“哲”を紹介してほしい」
「あ?」となぜか不機嫌そうに眉を寄せる純。
「あいつはクソ真面目な奴だから女になんて興味ねーよ!」
「え、なんのこと?」
「は? ......いや、なんでもねー」

 ポケットに手をつっこんで、ぷいとそっぽを向く様子がおかしくて、思わず笑ってしまった。
 それから純は、私が作った雪玉をあきれた顔でちょんと蹴った。

「にしてもお前、よくこんな作ったなぁ」
「うん、全部で107個だよ」
「怨念かぁ?」

 何も知らずにカラカラ笑う純を横目に、小さく首を振る。――今となってはもう、何だっていい。
 凍てつく雪玉は温かな光を浴び、顔を出したのは、私のちっぽけな孤独だった。けれど、心に確かな何かを見つけることができたから、きっとすぐ溶けてなくなる。春になっても、変わることのないきらめきに、きっときっと逢いに行くから。


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