signal red

 ガラス窓から弾けた日差しは無防備なその褐色を灼く。
 教室の入口に差しかかりその姿を認めた時、思わず息が止まった。初夏のためか、放課後にもかかわらず外はまだ明るくて、その褐色が動くたび隙間から漏れた光が柔く私の目を射る。
 ただ、目が離せなかった。
 でもこの色は。
 ――人とは真に驚いた時、とんでもない悲鳴をあげるものらしい。




「ちょっと神谷くん。いい加減笑うのやめてよ......」
「いや、だって......」

 先ほどよりは収まったものの、いまだクックッと喉の奥を鳴らすような低い笑い声が降ってくる。そもそも本を正せば彼のせいなのだ。

「ヤバい動物でも飛び込んできたかと思ってな。その悲鳴」
「ちょっ、女子の悲鳴を動物ってなに......。てか元はといえば!」

 勢いこんでバッと顔を上げたものの、またあの褐色が目に飛び込んで、慌てて顔を伏せた。目の前の彼、神谷カルロス俊樹のあらわになった上半身は、今の私にとっては未知の動物そのものだ。一体全体、彼がなぜ上半身裸でいるのかも理解できない。ここはプールでもなければ、彼の普段住んでいる寮でもない、ただの教室だ。

「もういい加減着てよ......」
「なに?」
「だから......。服」

 まとわりつくような蒸し暑さがうざったい。教室には私たち以外生徒はいなかった。時計の針はもうすぐ四時に差しかかろうとしているのに、今日は異常に気温が高く、おまけにさっきの衝撃の出来事のせいで、私は今、全身にひどく汗をかいていた。

「暑いのはわかるけど」
「............」

 間。
 だいたい、教室に忘れた携帯を取りに来ただけなのに、どうしてこんな珍事に出くわすのだろう。私の席はちょうど神谷くんの向こう側――しかもあろうことか隣――で、彼を横切らないと辿り着けない。そのあられもない姿から目をそむけるように、私は先ほどから床に向かって話をしていた。
 けれども、一瞬目撃しただけなのに、その美しい半身は、シャッターを切ったかのように心へ強く焼きついてしまった。聞くところによると神谷くんは、半分ブラジルの血が混じっているらしい。この謎の露出癖も、その血がなせる技なのか否か。鍛えあげられたその身体は、堅牢さと柔軟さを併せ持っているようで、どこか野生動物を彷彿とさせた。黒くてしなやかなイメージだから、黒豹? とかそんな感じか。
 今の今まで、ちょっと顔が濃いクラスメイトくらいにしか思っていなかったのに、シャツ一枚纏わぬだけでその印象はがらりと変わった。良く言えば年齢の割にセクシー。けれどなんというか少し、危険な感じもする。
 しばらく、肉食動物に出くわしたみたいにじりじり対峙していると、つかの間の沈黙のあと、神谷くんはぼそりとつぶやいた。

「別に、暑くて脱いでるわけじゃねぇんだけどな」
「え?」
「............」

 また変な間。なんなんだ、一体。
 でも私は下を向いているため、その表情がわからない。
 すると、何やらあきれたようなため息がひとつ漏れた。

「しゃべりにくいから上げろよ、顔」
「......服を、着てくれたら」
「............」

 突然、目の前でガタっという物音がした。驚いて思わず顔を上げると、神谷くんはあろうことかイスから立ち上がり私を見下ろしていた。長身のせいで、その迫力は尋常じゃない。私の視界はあの褐色で埋め尽くされ、その異常事態に今や脳内はキャパオーバー寸前。はやく逃げなくては危険だ、と私の中の本能が警鐘を鳴らす。

「な、な......」

 するとなぜか神谷くんは、私の顔を見て、よし、と呟き満足げに口の端を上げた。ただ単に人の目を見てしゃべりたいだけなのか、本当に露出狂で人の視線を集めたいだけなのか、よくわからない。それから、何事もなかったかのように席へと戻っていった。
 その様子を見て、なんとなくもうバカバカしくなり、私は素直にそちらへ視線をやった。

「野球部の人から、神谷くんは変態って聞いたことあったんだけど、まさかこのこと? その......そういう性癖?」

 顔を上げて改めて机の上を見てみると、そこには書きかけの学級日誌が広げられていた。神谷くんはそれに視線を落として、せわしなくシャーペンをくるくるくるくる。上半身素っ裸で机に向かい日誌を書く姿は、どこからどう見てもシュールそのものだ。けれど本人はまったく意に介さない様子で、あー、と気だるげに返事をした。

「セイヘキ、ねぇ......」
「なによ」

 私の言葉を、飴玉みたいに口の中で転がして楽しんでいるように見える。甘い声だな、唐突にそう思った。

「いつも脱いでるのは寮だけなんでしょ?」
「まぁな。学校で脱ぐといろいろ問題になるし」
「確かに......」

 納得しかけてから、でもすぐ

「じゃあなんで今?」

 間髪入れずに二の句を継いだ。
 すると、よくぞ聞いてくれましたとばかりに薄く笑ってから口を開いた。

「今日俺、日直の仕事してねぇから、せめて日誌書けって命じられたんだわ」
「ああ。加藤さんか」

 加藤さんとは、今日、神谷くんと一緒に日直をしていた女子だ。

「んで、いざ机に向かって書こうとすると何も浮かばねぇ」
「うん」
「で、脱いでたってわけ」
「............」
「............」
「いやいやいや」

 一番肝心なその理由がわからない。なぜ日誌のネタに困って脱ぐんだ。

「そんなまわりくどいこと言って、結局、暑かったからでしょ?」
「っていうより、リラックスに近いかもな」
「リラックス、ねぇ」

 わかったようなわからないような。メジャーの選手が試合中、ガムを噛むようなものか。ただ神谷くんの場合、即退場になるだろうけど。

「俺、部活に遅れそうなんだわ」
「うん」

 なるほど、それで焦った挙句、リラックスして日誌のネタをひねり出そうとしたわけか。でもだからどうした。私も携帯がなきゃ帰れないんだから状況は同じだ。こんなバカバカしい問答をいつまでも続けていられないし、もう自分の席へ向かおう。そう決心して足を踏み出した時だった。
 ゆらり。
 またしてもあの褐色が、ゆっくりと、でも確実に獲物へと照準を合わせるかのように私の前に立ちふさがった。

「なぁ、みょうじ......ネタくれよ」
「ちょ、ちょっと」

 流行りの壁ドンなら多少ときめいたかもしれないが、これはもうドキドキを通り越して冷や汗のレベルだ。逞しいその褐色が一歩、また一歩と私の方へ距離をつめてくる。

「もーー、わかったから! 動かないで! 考えるから!!」

 さっきの張りつめた緊張感はどこへやら。すぐに、ピュウ、とご機嫌な口笛が聞こえてきた。
 あれ、今、もしかしてまんまとはめられたのか。けどもういい、乗りかかった船だ。私はなかばやけくそで今日の出来事を振り返った。

「え〜と、三時間目の数学は自習だったこととか......」

 神谷くんは少し目を細めてこちらを一瞥してから素直に席へ戻り、スラスラと日誌にペンを走らせた。けれどすぐにその手が止まる。

「埋まんねぇな。もう一個頼む」
「もうっ、自分で考えてよ!」
「へぇ?」

 そうつぶやいて、再びイスから腰を浮かせたので、私は慌てて手のひらで制した。

「動かないでー! ちゃんと考えるから!」
「ハイハイ」
「......えっと、そう、家庭科。調理実習とかいいネタじゃん」

 神谷くんは、オッケ、とどこか楽しげに言ってラストスパートをかけはじめた。
 私はやっと肉食動物のターゲットから解放された気分で、たまらず、ほぅ、と息をついた。それからすぐ、この好機を逃すまいと自分の席へ駆け寄る。急いで机の中から携帯を取り出し鞄へしまい、背後を振り返った。
 するとその時、本当に何気なく、神谷くんの肘の下あたりに小さな赤いミミズ腫れのようなものを発見した。傷がまだ新しそうだったから、今日の調理実習の時にやけどでもしたんだろうか。それがまるで手負いの野生動物のようで痛々しかったからかもしれない。はたまた、美しい褐色の唯一の欠点に触れてみたかったのかもしれない。

「痛そう......」

 ただ無意識に、私は手を伸ばしていた。でも、本気で傷口に触れるつもりなんてなかったのに。
 瞬間、手が止まった。止められた。
 気づいた時にはもう、私の手首はその大きな褐色の手の中にあった。
 まだ夕焼けには早い時間なのに、私の視界では鮮やかな赤がチカチカしはじめる。頭の中では、鳴り止まないサイレンのように、逃げろ逃げろと誰かが叫ぶ。

「捕まえた」

 いまだ彼のテリトリーの中だ。





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