ずるいキスは笑顔のままで
窓の外を見ると、燃えるような茜色が、西の空全体を幻想的に染めあげていた。
吹奏楽部の演奏の音や、運動部のランニングのかけ声が入り交じる放課後の廊下を一人歩く。
今は部活が終わり、もう帰るところだった。週二回程度の文化部は気楽なものだ。我が彼氏のそれとは大違い。
もう教室には誰も残っていないだろう。忘れものをするなんて、今日はついてない。そんなことを考えながら、教室へ足を踏み入れようとしたその時だった。
夕焼けがすみずみまで入り込んだような室内。その入口で、思わず私は足を止めた。
「え......、あれ? 御幸?」
なんでこんな時間に御幸が教室にいるんだろう。
それに、これとは別種の、唐突な違和感。
教室の一番後ろの窓際の席に、御幸はいた。窓から差し込む西日を受けた御幸の整った顔が、すっと私の方を向く。
「なまえ? どうした?」
「ちょっと忘れもの」
私は、入口付近の自分の席からノートを取り出し、鞄の中へしまった。鞄はそのままにして、訝しげにその顔を捉えながら、窓際の席へと近づいていく。
御幸はその場であくびをしながら身体を伸ばしたから、今まで熟睡でもしていたんだろうか。
「えっと......ほんとに御幸、だよね?」
「なんだよ、彼氏の顔も忘れたのか?」
ニッといつもの笑みを浮かべる目の前の彼は、まぎれもなく御幸一也本人だ。
「だって......その、眼鏡が」
「ああ」
そう。当の御幸の顔には、今、本来ならあるべきはずの眼鏡がなかった。なんてことはない、違和感の正体はそれだ。
「寝るときは邪魔だろ」
「そっか。あと、練習はどうしたの?」
「オフだから今日は自主練」
御幸は億劫そうに首だけを傾ける。
「もう5時半か。6時から降谷と約束してんだ。あいつ球受けろってうるせぇし」
「そうなんだ」
「んで、ちょっと疲れがたまってたから時間あったし寝てた」
「......大丈夫?」
「おう。寝たらラクんなったわ」
安心させるためか、いつものように御幸が微笑む。
私は、無理しないでね、と呟いてその前の席へと腰を下ろした。そのイスは、夕焼けがたっぷり染み込んだみたいな色をしていた。
まだ眠そうに、御幸は再びあくびをひとつ。
「もうちょっと寝る? 時間になったら起こそうか?」
「いや、大丈夫」
そうやって御幸がやわらかく笑うから、お前と居たい、と言われているようでうれしくなる。自分の都合のいい解釈だってかまわないのだ。私はそれに笑顔で返し、後ろを振り返って壁の時計を見た。それから再び御幸へと視線を戻す。
今日、御幸と話せるのはあと30分。素顔の御幸を独占できるのも、あと30分。このまっさらな御幸はとても貴重だ。
「......なまえ?」
「え?」
「俺の顔になんかついてる?」
「あ、ええと......」
御幸が不思議そうな面持ちで訊き返す。無理もない。私が御幸の顔を、穴が空くほどじーっと見つめていたからだろう。
「しかし、ほんと眼鏡取ると雰囲気変わるね」
「そうか?」
「......眼鏡ない御幸って、こう、ちょっと幼い気がする。年相応っていうのかな。なんか新鮮」
「ふぅん、自分ではよくわかんねーけど」
「御幸はいつから眼鏡かけてるの?」
「さぁ、いつからだっけな。リトルの頃にはもうかけてたな」
「へぇ、じゃあ眼鏡歴長いんだ」
「まぁな」
いつも眼鏡をかけている人というのは、もう頭の中で眼鏡の顔の印象が焼きついていて、いざ素顔を拝んでみると違和感だけが先に立つ。むしろ違和感を通り越して、どこか別人の雰囲気さえ漂ってくる。この幻想的な夕焼けも、こころなしかそれを演出している気がする。
「いつものうさんくささが三割カット?」
「コラコラ、なまえちゃん?」
私はその文句を無視して頬杖をつき、引き続きじっくりと御幸の顔を観察する。眼鏡もスポルディングサングラスもない御幸の素顔。けれど、いつもあるはずのものがないというのは、どこか少し居心地が悪い気がする。その透明なレンズを介さない、澄んだ瞳を見つめていると、なんとなく何もかもを見透かされているような、不思議な心地がした。今の御幸は裸眼だから、逆にまったく見えていないはずなのに。
ーーあれ? 今、御幸はなにも見えてない?
ふと、そんな当たり前すぎる事実に今更ながら気づいた。すると、無意識のうちにこみ上げてくるある感情に、自分の頬が次第にふにゃふにゃと緩んでいくのがわかった。
「......ってことはさ、今、御幸は全然見えてないんだよね?」
「......お前さ、今よからぬことでも企んでんだろ」
「いいからいいから」
苦笑いをする御幸を無視して、自分の席へ向かう。私の席は廊下側の一番前、つまり御幸の席とは対角の位置に当たる場所だ。
私は鞄の中からノートと黒のサインペンを取り出し、ページいっぱいを使ってある文字を書いた。
「よぅし」
「なにやってんだ?」
そして、そのページを御幸の方へ向ける。
「どう? これ見える?」
「............」
御幸は眉間にシワを寄せてノートの文字をにらんでいる。やっぱりこの距離ではよく見えないんだろう。
ちなみに私は“モミアゲキャッチャー”と書いた。おそらく見えないだろうという余裕からだ。
「じゃあじゃあこれは?」
今度はこころもち太めの文字で“エロメガネ”
「あー......」
「やっぱり見えない?」
いつも自信満々で飄々としている御幸が、返答に窮している姿は、私の目にどこか可愛く映った。自分でも小学生みたいなイタズラだと自覚はしているのに、こんな貴重な御幸の姿を拝めるのだから楽しくて仕方ない。
私は愉快な気持ちのままノートをしまい、元の席へと戻った。
「で? さっきなんて書いたんだ?」
「ひみつです〜」
「ふーん?」
御幸は頬杖をつき、意味ありげにニヤニヤした表情で私を見上げる。これは御幸が何か企んでいる時の顔だ。さっきの仕返しのつもりか。
「なに?」
「そういや前にさ、眼鏡取った状態でキスしたいっつってたよな、お前」
「......えっ?」
唐突に飛びだした“キス”という単語に、私の鼓動が無意識に跳ね上がる。
「今まさに絶好のチャンスだと思うんだけど?」
「そ、そりゃあ言ったけど......」
キスする時に、眼鏡だと自分の顔をばっちり見られている気がして恥ずかしく、以前そう頼んだことがある。即、却下されたけれど。キスなんて至近距離だから、眼鏡あるなしにそれほど影響しないということはわかる。しかも、結局目は瞑ってしまうのだから。でも、気になるものは仕方ない。
突然そんなことを言い出すなんて、これが本当の“エロメガネ”か。ただ、今は眼鏡がない状態なだけだ。
私はせわしなくあたりの様子をうかがった。
「えーと、他に誰もいないよね......?」
「おう」
普段なら教室でキスなんて絶対にしない。でも、この燃えるような美しい夕焼けと、素顔の御幸。どこか非現実的な条件が揃い、私の判断能力はすでにおかしくなっていたのかもしれない。
すると、調子にのった御幸が、さらに衝撃的なことを言い放った。
「なまえからキスしてくんねーの?」
「ええっ?!」
「ほら、今、俺あんま見えてねーし大丈夫だって」
「え、ああ、うん......」
こうやって私を手のひらで転がして、本当にずるい奴だと思う。けれど私は、やっぱりその優しい瞳に抗うことができず、次第にそこへ吸い寄せられていった。
どくんどくんと、自分の心臓の音がやけに大きくリアルに聞こえる。座っている状態だから、私が背伸びする必要も、御幸が屈む必要もない。本当に造作もないことだ。大丈夫。誰も見ていない。
静かに御幸の方へと顔を寄せていく。あと十センチほど近づけば、その愛しい唇に触れる。
どくんどくんどくん。
その距離は次第に縮まってゆき、激しさを増すその音。
けれどその時、胸の鼓動に割り込むように、ふとあることが脳裏をよぎった。
ーーそうだ、もうすぐ自主練の時間だ。今、何時だろう。
とても大事なことなのに、私は目の前の誘惑にうち勝つことができず、その思考はぐずぐずに崩れてゆく。夕暮れ時の教室でキス、なんていうロマンチックなシチュエーションに酔っていたのかもしれない。御幸は時計が見えないから私が教えなくてはいけないのに。
ーーキスしてからでも。......いや、だめだ。できるだけ早く教えなくちゃ。もう時間かもしれない。
目を閉じはじめた御幸の顔に、濃い睫毛の影が落ちる。
ーーもうちょっと、もうちょっとなのに。......時間さえあれば。
あと少しでゼロ距離になる直前。けれども急に、その思考の波はサーッと押し戻された。
ーーあれ、今何かが引っかかった。なんだろう。自主練の時間。......時間?
その瞬間。ふいにはっきりと気づいた。
青天の霹靂とでも言うのか。鮮やかに脳天へ落ちた衝撃が身体じゅうへと伝わって、私は思わず御幸の両肩を押していた。
「......なまえ? どうした?」
「みっ、みっ......」
不思議そうな顔でこちらの様子をうかがう御幸を、私はひたと見据える。
「御幸さん? もう一度聞きますけど、今、本当になにも見えてませんか?」
私の問い詰めるような口調に、御幸は一瞬きょとんと表情を止める。そして次の瞬間、火がついたように大声をあげて笑いだした。お腹を抱え、目元にはうっすら涙さえ浮かべている。
「み、御幸......?」
「っお前、さすがだな。負けたわ......ははっ」
けれどその発作のような突発的な笑いはすぐにおさまり、代わりにその口許にはいつものあの自信に満ちた笑みが浮かんでいた。
「......バレた?」
少しも悪びれることないその物言いに、私の頭はゆっくり混乱していく。
「なっ、なんで......? なんで眼鏡かけてないのにちゃんと見えてるの? そう、時間! さっき自主練の時間確認した時、あきらかにあの」
と言いながら振り向き、黒板の上の時計を指し示す。
「あの壁の時計見たよね? 眼鏡なしでこんな一番後ろの席から時間わかるの?」
「ま、見えねぇな。目ぇ細めてじっくり見たら、うっすらわかるくらい?」
素直に観念して肩をすくめる御幸を、呆然と見つめるしかなかった。
先ほど御幸は、ちらりと一瞥しただけで時間を即答した。裸眼の視力でその芸当は無理があるはずだ。
心の動揺を隠せずにうろうろと視線をさまよわせると、窓の外の空は、急激に夕闇の濃さを増していた。夕焼けの茜はそれに対抗しようとせいいっぱいの色をにじませるが、夕闇の濃紫はそれを支配するかのようにじわじわ侵食していく。
散らかった思考を少しずつ片づけるように、私はゆっくり言葉を繋げた。
「じゃあ、なんで......?」
「コンタクト」
「え?」
「だから今コンタクトつけてんだって」
「コンタクト......? 御幸、コンタクトなんか使ってたの?」
「いつもつけてるぜ? 」
野球する時、と付け加えて笑う御幸を見た瞬間、やっと自身の理解が追いついてきた。
「え? えーー?! あれってあのサングラスに度が入ってるんじゃないの?」
「あれは単なるゴミよけみたいなもん。度が入ってるわけじゃねぇよ。今から自主練だし、起きたついでにコンタクトにしただけ」
「そうなんだ......。ずっと勘違いしてた」
「......“モミアゲキャッチャー”に“エロメガネ”か。なまえちゃん、なかなかひでぇよな」
「もぉ〜、忘れて! それは忘れて!」
私の頬は急速な熱で次第に火照ってゆき、思わず両手で顔を覆った。
「う〜だまされた〜」
「え? 俺、見えてねぇなんて一言も言ってねーけど?」
「はっ」
そうだ、今思い返すと御幸は、ただ黙ってノートをにらんでいただけだ。
「なんで黙ってたの?」
私の言葉を受けた御幸が、いじわるそうに口の端を上げる。
「イタズラするなまえが可愛いかったから? あと、恥ずかしそうにキスを迫るなまえも」
「それは言わないで......」
「お前ってカンタンに騙されるくせに、そういう動物的なカンはよく働くよな。ほんと、見てて飽きねーぜ! はっはっはっ」
「もう!」
まだおかしそうに笑い続ける御幸を、私はじとっと見つめた。
「だいたい、それってズルじゃないの?」
「まぁ、キャッチャーなんて裏をかいてなんぼだし」
むうぅ、と思わず言葉にならないうめき声がもれてしまった。確かにキャッチャーとしてはこの上ないほど優秀だ。優秀だけれども。惚れた弱味というやつか。私はそれ以上反論することができない。
御幸はニッと笑ってから、再び時計に目をやった。
「お、そろそろタイムリミットか」
御幸が緩慢な動作で立ち上がる。私もそれに合わせて、御幸の前に立ち、その顔を見上げた。
「さて、俺の手の内はぜんぶバレたから、この件はご破算になったわけだ。......あとはなまえに任せるけど」
またどこか試すようなその瞳。
ああ、そうやってたきつけておいてまた焦らす。本当にむかつくくらい無敵な策士だ。
御幸の後ろに昂然と広がる濃紫。茜が弱々しく最後の輝きを放っている。
私なんかが到底かなう相手ではないけれど、せいいっぱいの強がりでその瞳を見据えた。
「どうする、やめるか?」
「......まさか」
目を細めた御幸の視線と、私の視線が絡みあった瞬間。
小さな反撃とばかりに私は、強引にそのネクタイを引っぱって顔を寄せた。
企画 ≪1117〜みゆたん〜≫ 様に提出
text /
top