でこぼこな愛を君に
「あ〜だりぃ〜〜......」
俺の小さな嘆きは、無情にもただ二段ベッドの天井にむなしく吸い込まれていく。
昨日の朝から若干の寒気はあった。秋は季節の変わり目だしヤベェな、と思った時にはもう熱が上がりはじめていたのだ。普段から身体は動かしているし、風邪とは無縁だとたかをくくっていたのがまずかったらしい。引退して、知らず知らずのうちに気が緩んでしまったのだろう。俺もまだまだ甘いな。
さっき嫌な夢を見た。
もう二度と戻らない夏を悔やんで何になるってんだ。
今は十時くらいか。時計を見るのも億劫だ。寮生は皆、登校しているため、寮内はいつもの喧騒からは想像できないほど静まりかえっていた。
「......静かだなぁ、オイ」
静けさを確かめるように、自分のかすれた声を発してみると、それは異常なほど室内に大きく響く。やってすぐにむなしいだけだと気づき、激しく後悔した。
右に寝返りをうつと、枕元にさっきまで読んでいたマンガが目に入った。一昨日買った、現在集めている少女マンガの最新巻だ。もう読んでしまったが、だるいため他のものを取りに行く気にもなれない。本来なら今日、あいつにこれを貸すはずだったのに。
左に寝返りをうつと、ベッドのそばに盆が置かれ、その上にどんぶり鉢いっぱいのお粥が鎮座していた。今朝、ゾノが気を利かせて部屋に運んでくれたものだ。その気持ちは素直にうれしいが、しんどい状態でこの量はさすがに食えない。
その左右どちらとも、今の俺が求めているものとはほど遠く、ため息をついて再び天井を見上げた。
そういえば実家にいた頃、風邪をひいた時は、母親がよくりんごをすって食べさせてくれた。あとは、たまに姉貴が缶詰のみかんを運んできてくれたり。こういう時は女の方がうれしい。別にやらしい意味とかではなく。
普段、実家が恋しいとか思ったことはないが、こんな静かなところに風邪ひいた状態で一人寝ていたら嫌でも思い出してしまう。
「バカヤロォ、ここは東京だぞ......」
そう自分に言い聞かせてから、俺はぎゅっと目を瞑った。
『伊佐敷くん』
すると、閉じた瞼の裏に、一週間前から付き合いはじめたみょうじの顔が浮かんだ。今日も会えると思ったのに風邪なんて本当についてない。
『伊佐敷くん』
みょうじの笑顔を想像してみる。......少しだけラクになった。
『伊佐敷くん』
今度はやけにリアルな幻聴だ。いよいよ俺もヤバイかもしれない。
『伊佐敷くん』
「だーーっ! ヤベェぞ俺!」
幻聴を振り払うように勢いよく起き上がると、わずかに頭がくらくらした。
「伊佐敷くん」
「......あ?」
今度は幻聴じゃない、しっかりしたみょうじの声が俺の耳に届いた。もしや、と思い声のした方向を見る。
窓だ。
俺はベッドから転がり落ちるようにカーペットへ下り、窓まで這っていって、おそるおそる開けてみた。
「おーい、伊佐敷くーん」
「みょうじ?!」
眼下に見えたのは、なんと大きく手を振るみょうじの姿だった。ここは二階のため、みょうじがいつもより小さく見える。
「なんでそんなとこにいんだ?! 授業はどうした?」
「今、休み時間だよー」
「お、おう、そっか」
みょうじは恥ずかしそうに顔を伏せてからこちらを見上げた。
「あの、昨日の夜、小湊くんからメールがきたの。伊佐敷くんが風邪ひいたって。それで、迷惑とは思ったんだけど心配で来ちゃった......」
またみょうじがうつむいたので、俺からはみょうじのつむじしか見えない。それでも、みょうじの可愛らしいつむじを見下ろしていると、熱とは違うあったかい何かがこみ上げてくるのがわかった。
ヤベェ、すっげぇうれしい。
俺は一旦後ろを向き、ニヤけた己の頬をパンッ!とひとつ叩いて引き締めた。
「あー、その、なんだ。みょうじが来てくれたの、スゲェうれしいっつーか......」
「えー? なんてー?」
「っ、すげえうれしいっつったんだよ!!」
それを聞いたみょうじは、目をまるくして俺を見つめたあと、ふわっとやわらかくはにかんだ。
その顔も別の意味でヤベェ。
「寮だから食べるもの困ってないと思うんだけど、よかったらと思って......」
そう言って、手に持ったビニール袋を持ち上げる。どうやら見舞いの品らしい。
「わりぃな」
「ううん。たいしたもの入ってないけど」
「いや、もらっとく」
「うん」
喜びもつかの間、俺は今の自分の情けない格好を思い出した。そうだ、俺は今、寝巻きのどうでもいいスウェットを着ている。髪はボサボサだし、ヒゲは昨日剃り忘れたため、まばらに無精ヒゲが生えはじめていた。こんな姿をみょうじに見られているかと思うと、今すぐにでも部屋の奥へ引っ込みたくなる。でもそんな素振りを見せたら、女々しい奴だと思われかねない。
あー、うれしいけどうれしくねぇ。
だが、みょうじは特に気にすることなくあいかわらずニコニコしていた。
ま、あんま気にしすぎんのもよくねぇな。
俺がそんなことを考えている下で、みょうじは何やら下を向き、ぐっと握りこぶしを作った。
「......よし!」
みょうじは気合の一声を発したあと、両腕をぐるぐる回しはじめる。
「あ? どーした?」
なんだ? なんか嫌な予感がする。
「私がこれ下から投げるから、伊佐敷くんが受け取ってね!」
「お、おお......」
寮生以外は寮内に立ち入り禁止のため、表からは持って来られないから、そんな突拍子もないことを言い出したんだろう。この時間でも寮を管理する人間はいるから、もし見つかったら事だ。
みょうじはビニール袋の口を固く縛ったあと、それを右手に持ち、身体をくっと反らして投げのフォームに入る。その瞬間、俺の脳裏に、以前体育でやったスポーツテストの光景が鮮やかにフラッシュバックした。
「ちょっと待てーーい! みょうじ!」
「え?」
俺の声に勢いを削がれたみょうじの右腕が止まる。
そういえばあいつはひどい運動オンチだった。スポーツテストのハンドボール投げで、めいいっぱい投げたみょうじの記録は、確か女子の平均もいかなかったはずだ。だが、そのあと顔を真っ赤にして肩を落とすみょうじを、俺は少し可愛いと思ってしまったのだ。あの小ぶりなフォームとか、全く飛ばないボールとかが、なんなく女子っぽいと思ったからかもしれない。ただ、本人にとっては不名誉なことなので口には出さないが。
「......ところで、その袋の中身はなんだ?」
「えっと、りんごとみかんの缶詰だよ」
さすがみょうじ、ナイスチョイス。俺がまさに今食べたいと思っていたものばかりだった。
「よし、缶詰はあきらめろ。お前の力じゃ、そんな重いモンここまで投げられねぇ。ヘタすりゃ窓ガラス割れっぞ」
「あ、そっか」
納得したみょうじは小さくうなずき、缶詰を取り出して地面に置いた。
そして俺は窓から少し身を乗り出す。
「よし、俺がちゃんと受け止めてやっから思いっきり投げろ」
「了解!」
昔、よく母親に食い物を投げるなと叱られたが今は緊急事態だ。許せ。
「よぅし。......えいっ!」
みょうじがやたら気合いのこもったかけ声でりんごを投げ上げる。しかしそれは、ぽいーんという効果音がつきそうなほどのゆるやかさで舞い上がり、建物の壁にぺちっとぶつかって落ちていった。
「おっとっと」
「うおっ! あぶねー」
みょうじがギリギリのところでりんごをキャッチする。
「はぁ、落ちなくてよかった......」
「気にすんなよ!」
「うん! もう一回やってみる!」
「おう、今度はもっと腕を振ってみろ」
「わかった!」
みょうじが笑顔で応えて手を振る。そして、ひとつ息をついてから先ほどよりしっかりと腕を振って投げた。が、今度はコントロールが悪く、窓よりだいぶ右の方の壁へ当たり、またしてもりんごはニュートンの法則よろしく墜落していった。それを再びキャッチするみょうじ。
「また失敗しちゃった......」
「大丈夫だ、力加減は悪くねぇ。あとはコントロールだけだ!」
「う、うん!」
肩を落としてしょぼくれるみょうじに俺はせいいっぱいの活を入れる。
それを聞いたみょうじが、仕切り直すようにもう一度りんごを投げた。しかし、今度は左に逸れてまたみょうじの手元に収まる。
そのあと数回チャレンジするが、なかなか俺の手に収まる気配がない。さすがにみょうじも最初の頃に比べて少しぐったりしはじめていた。
「よしよし球はきてんぞー! ......げほっごほっ」
「伊佐敷くん?! 大丈夫?」
「お、おう、ちょっと咳こんだだけだ」
「ごめんね、私が変なことはじめちゃったばっかりに。......これ、やっぱりあとで小湊くんに届けてもらうね」
みょうじがりんごを両手で包みこんでぎゅっと胸に寄せる。下を向いたので、その表情はわからないが、きっとものすごく悲しい顔をしてるんだろう。
「......あきらめんのかよ」
「え?」
「お前はそれでいいのかよ」
「............」
しばらくうつむいていたみょうじだったが、やがて決心したようにぱっと顔を上げた。その瞳は、本来の輝きを取り戻していたので、俺はさぁ来いとばかりに腕を伸ばし手を広げてどしっと構える。
あ、なんか一瞬、クリスや御幸の気持ちがわかったかもしれねぇ。まぁ気のせいか。
みょうじはきゅっと唇を引き結んだあと、一旦すーはーと深呼吸をする。そして、身体をひねりめいいっぱい腕を振った。それに合わせて制服のスカートがふわっと揺れる。
いい感じだ。そう思った時にはすでに、ひんやりと冷えきったりんごが俺の手のひらにすっぽりと収まっていた。俺はその感触を確かめるように、りんごを握る手に力をこめる。
「ナイスボール!!」
俺が下へ向かって拳をぐっと突き出したので、みょうじもそれに倣う。
「ナ、ナイスキャッチ!」
「おう!」
俺たちは、何か偉大なことをやり遂げたあとのように笑顔を交わしてうなずきあった。
「いい球投げるじゃねーかみょうじ」
「伊佐敷くんの投球指導のおかげだよ」
「はっ、伊達に昔投手やってたわけじゃねぇからな!」
「さすが“強肩”!」
「誰が“狂犬”だコラァ!」
みょうじが俺の言葉を受けて目を白黒させている。まさか“強肩”って言いたかったのか。俺は、わりぃ、と慌てて謝った。
つーか俺自身が“狂犬”を認めてどーすんだ!
みょうじはゆるやかに首を振ってから俺に笑顔を向けた。
「伊佐敷くん、ゆっくり休んでね」
「おう」
その時、ひゅっと一瞬弱い風が吹き、みょうじのやわらかい髪を揺らしたので、俺は発作的にそれに触れてみたいと思った。
くそ、ここが一階だったら触れるのに。なんでここ二階なんだよ。
「......そーだ、これ持ってけ」
「なに?」
俺はベッドの方へ歩み寄り、さっきまで読んでいた少女マンガを手に取り、窓辺へと戻った。熱で足元が若干おぼつかないが、それでもぐっと足を踏みしめて耐える。
「これ、この前出た最新刊。読んだか?」
「ううん、まだ」
「よし、受け取れ」
「うん!」
みょうじが下からすっと手を伸ばす。俺はその手のひらに収まるようにパッとマンガを離した。それは引力に従って素直に落下してゆき、みょうじの
「あたっ!」
額に直撃した。
「ぷっ、なんだよ、あいかわらずどんくせぇなお前は!」
その光景がまるでコントのようで、思わず吹き出してしまう。
みょうじは恥ずかしそうに額に手を当ててこちらを見上げている。そのあと小さく手を振り、寮をあとにした。
それを見送ってから窓を閉め、俺はその場に崩れるようにうずくまった。
やばい、マジでふらふらする。
千鳥足でベッドまで行き、倒れこむように勢いよくダイブする。もちろん手のひらのものは離さない。ぐるりと仰向けになり、りんごを持った手を天井に向けてぐっと突き出して、目の前に掲げてみる。真っ赤なりんごは、数カ所でこぼこにうてており、早く食べなければすぐにそこから腐ってしまう状態だった。
「はは......表面ボッコボコじゃねーか」
だがそのへこみすらも、みょうじの努力のあとのようで愛おしく感じるのだから、好きという感情は偉大なものだと思う。
身体があつい。先ほど寒い外気に晒されたせいか、本格的に熱が上がってきたようだ。それともみょうじの姿が見られて胸が熱くなったせいか。
りんごを早く冷蔵庫にしまわなければ、と思うのに、身体がだるくて言うことをきかない。しかしそれは、どこか幸福な倦怠感だった。
「あ〜だりぃ〜〜......」
静かに目を閉じると、瞼の裏にさっきのみょうじの残像がはっきり浮かぶ。
今からきっと、すげぇ良い夢が見られそうだ。
text /
top