月で逢瀬

 秋の夜長は人恋しいだなんて、遥か昔、途方もない昔から言われてきたことだ。
 小さな頃に見た恋愛ドラマで、おとなの女の人が夜遅く、急に恋人に会いたくなってマンションに押しかけて泣き出す。

「なんてはた迷惑なやつだ」

 幼い私はそう思った。
 けれど今なら、愛おしいと思う人が存在する今なら、この感情がほんの少しだけわかる気がする。



「あれ、偶然〜」

 へらへらと笑いながら右手をあげる私を、彼氏である御幸くんは怪訝な表情で見つめ返した。

 秋の夜長。私は学校から帰ってきたあと、部屋の窓辺でぼぅっとまあるい満月を眺めていた。今日は中秋の名月だ。
 そうしたら、その満月のクレーターの模様が御幸くんの顔に見えてきて、どうしようもなく会いたくなって、いてもたってもいられなくなった。
 望遠鏡のない時代の人は、この模様に、うさぎとかカニのハサミとかいろんなものを見たらしい。昔の人の方がきっと、想像力豊かだったんだろう。

「なまえ、今何時だと思ってんだ?」
「う〜ん、九時頃?」
「こんな時間に一人で危ねぇだろ」
「う、ん」

 私は、御幸くんがグラウンドと寮を分ける一本道で、ちょうど一人素振りをしているところを捕まえた。
 御幸くんは野球に忙しいから、私がこんなことをして困らせるのはわかっていた。けれど、会いたいという衝動を抑えこむことは、到底できそうになかった。

「月がきれいだから散歩してたんだ。そしたらなんと偶然! 御幸くんが!」

 私は大げさに両手をあげて驚いてみせた。自分でも芝居じみているという自覚はあったけれど。

「ふ〜ん? 偶然、ね」

 わかってる。御幸くんと付き合う前から、彼がよくここで素振りをしているのは知っていた。なんせ私はこの近所に住んでいるのだから。こんなのは偶然じゃなくて、ただの必然だ。

「......素振り、今日も精が出るね」
「......いつものことだろ」

 苦しまぎれに言ったセリフが、更に墓穴を掘ったのはわかっている。私は無理に笑顔を作ってみせるけれど、御幸くんのどこか不機嫌な表情は変わらない。
 それから御幸くんはジャージのポケットに両手を突っ込んで下を向き、深く、深く息をはいた。

「......送ってくから。このへん結構暗ぇし」
「あ......ううん、大丈夫! 一人で帰れるよ!」
「はぁ? なに言ってんだ。なんかあってからじゃ遅ぇだろ」

 そう言って御幸くんは私の前をずんずん歩きはじめた。

 ああ、今、あきれられちゃったな。邪魔したかったわけじゃないのに。どうして私はいつもこうなんだろう。
 前をゆく御幸くんの足元には、大きな、背の高い影が長く長く伸びていた。今の私は御幸くんと一緒にいられないから、その影さえも愛おしいと思ってしまう。

 どうかお月さま、
 御幸くんの影をください。
 今日は御幸くんを諦めるから、御幸くんのからだから御幸くんの影を切りはなして私にください。
 そうしたら私は、素直に御幸くんの影と仲良くおててつないで帰ります。
 それから一緒にお布団で眠ります。
 いっぱいいっぱい可愛がるから、御幸くんの影を私にください。

 私は、ばかな祈りをひそかに月へ捧げてみる。けれど、こんなこと叶いっこないってちゃんとわかってる。

「ジャジャーン!」

 私の声に反応した御幸くんが、何事かとゆっくり振り返った。
 私は手に持った小さなトートバッグから、防犯ブザー、催涙スプレー、スタンガンを取り出して御幸くんの目の前に印籠のごとく突き出した。

「この三種の神器を見よ!」
「おまっ、スタンガンはさすがに物騒だろ」
「威嚇だよ、い か く!」

 わかってる。スタンガンなんて本当は絶対に使わない。でもこうでもしないと、御幸くんは私を送ると言って聞かないのはわかっていたからだ。

「だから......本当に大丈夫だから......」

 なんとなく瞼の裏側がじんわり熱を帯びてくる。御幸くんの顔が見られたからうれしいのか、御幸くんを困らせてしまったから悲しいのか、この瞳の洪水の原因は自分でもよくわからない。自己嫌悪、なのかもしれない。
 だけど御幸くんに悟らせてはいけないから、私は下を向いてぐっと耐えた。そのまま地面を見つめていると、なぜか御幸くんの影が徐々に近づいてきた。
 ああ、本当に影が切りはなされたのかな、と思った瞬間、体じゅうを何かがふわっと包みこむ感触がした。そのまますっぽり覆われる。まるで雲を抱くようにやさしく、やさしく。そのふんわりした感覚は、まるで地上の出来事とは思えないほどだった。

「あ、あれ......?」

 背中にポンポンと温かな感触。まるで赤子をあやすような。

「どうした? なまえ......」

 私の瞳は、もう洪水が起きる一歩手前だ。せき止められるか、決壊するか。

「わ、私......、御幸くんの影が欲しいと思ったの」
「影?」
「うん、御幸くんに会うのを我慢するから、せめて影だけでもって......」

 私のわけのわからない告白に、御幸くんはただ黙ってうなずいてくれた。

「影か......。お前、俺の影で満足なわけ?」

 私は強く首を振った。

「違う。御幸くんが、御幸くんがいい」

 御幸くんはひとつ息をついたあと、いたずらっぽい声色で、だろ?、と笑った。

「俺に満足してもらわなきゃ困るぜ」
「み、御幸くん......」
「違わねーだろ?」
「ちがわない、です......」

 まわされた、優しい手のぬくもりが私の背中に伝わって、じんわりと体中に染み込んで広がってゆく。瞳の洪水は勢いを失って、私の深い深い海へと帰っていった。
 繋がる二つの体と体。このまま二人、ふわふわふわふわ漂って。まるで満月に閉じ込められて、あの模様になってしまったみたい。

 それからその感触は自然にほどけていって、私たちは体を離して向かい合った。今度は無理して作る笑顔じゃない、心からの笑顔を御幸くんへと向ける。

「......よし、御幸くんが満タンにチャージされた今の私は無敵だから一人で帰れるよ」
「本当に送らなくていいのか?」
「も〜、これ以上送るって言ったら、御幸くんの顔面に催涙スプレー噴射するから」
「コラコラ......」
「あ、でも眼鏡だから効かないかも」
「お前な!」
「ははっ」

 私はタタタと走って御幸くんから一気に遠ざかった。それからぶんぶんと大きく手を振る。

「また明日ねー!」
「おー! 襲ってくるヤツいたらスタンガン使えよー」
「『物騒』じゃなかったのー?」
「前言撤回!」

 ニシシと笑う御幸くんを背に歩き出した。私は御幸くんと御幸くんの影にさよならをする。そして夜空にぽっかり浮かぶ月を見上げた。

 大丈夫、また明日会えるから。
 だから今日は、このきれいな満月と一緒に帰る。





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