名前をつけてやる

「命名! “山田 プードル 花子” !」
「了解。ありがとね」

 まだわずかに夏の暑さが残る九月のとある昼休み。
 今日は隣のクラスの花ちゃんが、私に“犬名”をつけてほしいとやって来た。まわりのみんなに「犬馬鹿」と呼ばれるほど犬が大好きな私が、二学期になって偶然はじめたことだった。
 “犬名”とは、その子に似ている犬種名を本名にくっつけた名前で、私が勝手に作ったものだ。ちなみに、ブリーダーの間で用いられる“犬名”とは特に関係ない。
 きっかけは、一番最初に冗談でつけた友ちゃんがその二日後、ずっと好きだった先輩に告白されたことだった。

「何かご利益があったのかも」

 報告に来た友ちゃんは、笑顔でこう言ってくれた。

 それから、これを聞きつけて私の元に来た達子ちゃんにも“犬名”をつけてあげた。そうすると、達子ちゃんは翌週のテニスの試合で見事勝利をおさめた。他に名付けた二人も、どういうわけか近日中に幸運が訪れていた。
 それからというもの、このジンクスを信じて私の元によく女の子がやって来るようになった。これは別に私に特別な力があるわけじゃない。こんな小学生みたいなジンクスをみんな本気で信じているわけではないけれど、何か大きなことを成し遂げる時は、背中をほんの少し押してくれる何かが必要なんだ。

「花ちゃん、明日がんばれ!」
「うん! なまえありがと!」

 私は、明日サッカー部の鈴木くんに告白するという花ちゃんにエールを送り、教室を去る彼女を見届けた。

「ま〜たやってんのか、お前」

 その呆れたような声に反応して振り向くと、隣の席でさっきまで寝ていた伊佐敷くんが、両手を組んで前に突き出し伸びをしていた。その動作とか、何かにつけて伊佐敷くんは犬っぽいなぁと私はひそかに思っていた。

「あ、伊佐敷くんおはよう。ごめん、起こした?」
「いや、カーテン閉めるだけ」

 伊佐敷くんは「くそ暑ちー」と言いながら勢い良くカーテンを引いて再び席に戻った。

「......さっきのあいつはプードルか」
「うん! 花ちゃんにピッタリだと思わない?
「あの天パなとこか?」
「それだけじゃなくて、くりっとした目とか頭がいいとことかね」
「ふ〜ん」

 気怠げに言いながら犬みたいなあくびをひとつ。

「......ねぇ、伊佐敷くんも“犬名”、どうかな?」
「『どうかな』じゃねぇ! いらねーよ!」
「え〜。伊佐敷くんはやっぱ、ス」
「うるせぇ」

 伊佐敷くんは私の言葉にかぶせるようにして妨害した。そして私の顔を見てフンと鼻をならす。

「だいたい俺はあんなうるさくねぇっつーの!」
「そうかな? まぁ、うるさいと言われたのは昔の話で、今は改良されてムダ吠えは少なくなったらしいよ」
「へぇ。そりゃよかった」

 また私は伊佐敷くんにくだらない犬の豆知識を披露してしまった。

 同じクラスの伊佐敷くんは、入学当初は顔が怖くて近づき難かったものの、親しくなってみるとその印象はがらりと変わった。野球に一生懸命打ち込む姿とか、さりげなく優しいところとか、私はそんな伊佐敷くんのことがたぶん......好きなんだと思う。私が「犬馬鹿」なら伊佐敷くんは「野球馬鹿」だ。おまけに部活中にギャンギャン吠える姿がうちで飼っている犬にそっくりで、私は気づけば伊佐敷くんを目で追っていた。友ちゃんには「何その理由」と言われたけれど、気になるんだから仕方ない。席が隣同士になれた時にはすごくうれしくて、一日中ニヤニヤが止まらなかった。
 自分のジンクスを信じているわけではないけれど、もし“犬名”をつけて伊佐敷くんが幸せになるのなら、私は伊佐敷くんに幸運をあげたい。

 まだ五時間目まで時間があったので、私は机の中から「愛犬のともだち」という犬の雑誌を取り出した。

「は〜、やっぱりかっこいいなぁ。グレート・デーン......」
「あ?」

 思わずもれてしまった独り言でも、伊佐敷くんは一応反応してくれる。私は雑誌の写真を指差した。

「ああ、このコだよ」
「でけぇ! 何キロだこれ」
「え〜と、オスで最大90kgくらい?」
「俺よりあんな。つか、まだ増やす気かよ。今何匹いんだっけ?」
「六匹だよ」
「十分じゃねぇか......」
「まぁそうなんだけどね。......ちょっと好きなもの見て現実逃避してるだけ」

 私の声色に反応して、伊佐敷くんは雑誌から顔を上げた。

「......あぶねーのか?」
「う〜ん、まだ大丈夫だと思うよ」

 私のうちではセント・バーナードのポチをはじめとして、犬を六匹飼っている。みんな私の大切な家族だ。けれどその家族の一人が今、危機に直面していた。
 私は携帯を出して一枚の写メを伊佐敷くんに見せる。

「ほら」
「ああ、ちゃんと起きてんな」
「もう食欲もなくてずっと横になってるんだけどね」

 その写メの中には、白くて小さいジュンが力なく横たわっていた。
 ジュンは私が産まれた年にうちに来た犬で、私と同じ十五歳の、犬の中ではもう相当なおじいちゃんだ。うちの犬の中で一番小さいくせに、人一倍気が強くてよく吠えるけれど、面倒見が良く他のコたちの兄貴分的存在なのだ。

 伊佐敷くんにはじめてジュンのことを話した時は、ものすごく微妙な顔をされた。伊佐敷くんの下の名前と、うちの犬の名前が一緒なのがお気に召さなかったんだと思う。まぁ、誰だって犬の名前と同じなんて嫌だろう。けれど伊佐敷くんは呆れた顔をしながらも、いつも私の犬の話をちゃんと聞いてくれた。

「よし、今日も少しでも長くジュンのそばにいられるように走って帰るね!」
「おう、ついでに体力つけとけよ!」
「うん!」

 伊佐敷くんと笑顔を交わし合ったところで午後のチャイムが鳴った。
そうだ、今日もずっとジュンのそばにいるんだ。ジュンが淋しい思いをしないように。



 ーーけれどその日の晩、ジュンは静かに息を引き取った。

「今日は伊佐敷くんとたくさん話せたんだよ」

 そうジュンに語りかけて、私が眠りについた後のことだった。



「......おはよ」
「遅かったじゃん! てか昨日どうしたの? 無断欠席なんて」

 友ちゃんが私の席まで駆け寄る。鞄を置いて席に着くと、どっと疲れを感じた。

「一昨日の夜、ジュンが......」
「......そっか
「昨日お葬式済ませた。最近のペットのお葬式って人間並みなんだよ。すごいよね。さすがに学校休んじゃってまずかったかなぁ......」

 事情を知っている友ちゃんは私の背中をさすってくれた。もう涙は止まったものの、私の目は真っ赤でまぶたは腫れている。こんな顔で伊佐敷くんに会いたくなかったけれど、さすがに二日も学校を休むことはできなかったし、ジュンのいない家にいるのも辛かった。

「おう......大丈夫か?」

 隣の伊佐敷くんが私に気づいて遠慮がちに声をかけてくれる。

「うん、ありがとう」

 ひどい顔を見られたくないのと、伊佐敷くんに気を遣わせているのが申し訳なくて、私は隣を見ることができなかった。老衰だから仕方ないと覚悟はしていたものの、受けたショックは予想以上に大きかった。


▽▲▽


 六時間目の終わりを告げるチャイムが鳴り、隣の席のみょうじは素早く帰宅の準備を終え足早に席を立った。いつもは「伊佐敷くんバイバイ」と笑顔で手を振ってくれるのに、今日は俺の存在を忘れたかのように無言のままだった。
 あいつ、本当に大丈夫かよ。
 しばらく席で悶々と悩んでいたものの、やっぱり追いかけることにした。部活まではまだ少し時間がある。
 教室を出たみょうじは、とぼとぼと廊下を歩いていた。その小さな背中を救ってやれない自分のふがいなさに、次第に苛立ちが募る。

 はじめは犬好きの変な女くらいにしか思ってなかった。でも話すうちに、あいつが友達や家族や犬に対して愛情深いところを知った。俺の退屈であろう野球話にも、嫌な顔をせず笑顔で耳を傾けてくれた。
 最近は"犬名”などと幼稚くせぇものを始めたなと思っていたが、でもそれはただの方便で、あいつの元に来る奴らはみんな、あいつに相談に乗ってもらいたいだけなんだ。
 最初、あいつの犬が俺と同じ名前と聞いて、正直気に食わなかった。あいつが愛おしそうに「ジュン、ジュン」と呼ぶたびに、俺の心臓はビクッと跳ね上がったからだ。あいつの呼ぶ「ジュン」と、その笑顔が俺に向けられたものじゃないことぐらいわかっていた。けどそれはごくたまに、俺に対してなんじゃないかと錯覚してしまい俺をイライラさせた。いつからだ、あの笑顔を俺だけに向けてほしいと思ったのは。

「“犬名”くらいつけさせてやりなよ」

 いつか俺たちのやりとりを見た亮介がそう言ったが、俺は断固として反対した。それを許した途端、自分が本当にジュンになるみたいで、絶対に認めることはできなかったからだ。

 目の前のみょうじは廊下の真ん中で立ち止まり、数秒その場で固まっていたと思ったら急に走り出した。

「あ?」

 小走りに駆けていくその後ろ姿を見失うまいと、俺はあとを追った。
 何やってんだ、俺は。追いかけたところでどんな言葉かけるつもりだよ。
 昇降口を出たみょうじは、そのまま中庭の方へと走った。放課後のひと気のない小さな中庭に飛び込んで、ふらふらと校舎のそばまで進んでいく。そして、わずかなコンクリのスペースに崩れるように小さくうずくまった。膝に顔を埋めたので、あいつの表情がわからない。一瞬声をかけるべきか、一人にさせるべきか迷ったが、俺は心を決めて足を踏み出した。俺自身、一人になれない寮生活は気が滅入ることもあるが、人がいることで救われることも多いからだ。

「おい......みょうじ」

 みょうじは俺の声に反応してはっと顔を上げた。

「伊佐敷くん......」

 みょうじの頬にほんのりと涙のあとを発見し、やっぱりかと思う。みょうじは慌てて手の甲で涙をぬぐい笑顔を作った。

「どうしたの? 部活は? 監督に怒られちゃうよ」
「や、まだちょっと時間あっから」
「そう?」

 俺はみょうじの隣に腰を下ろした。

「............」
「............」

 こうやって話しかけるチャンスを掴んだものの、いざその場面になると何を言っていいのかサッパリわからない。「元気だせよ」とか、そんな月並みな言葉じゃ駄目なことぐらいわかってたのに。
 くそ......何やってんだ俺。
 とりあえず何か言わなければと必死に言葉を探す。

「ジュンもよ......幸せだったと思うぜ。お前が飼い主で」

 考えに考え抜いてやっと出た言葉がやっぱり月並みで、俺は自分にうんざりした。

「うん......そうだね」
「立派な葬式もあげたんだろ?」
「うん」
「十五年だろ。犬にしたら大往生じゃねーか」
「うん」

 俺の上っ面だけの言葉がみょうじの心に響くはずもなく、むなしく滑り落ちていく。あいかわらず下を向いて俺の顔を見ることはない。まるで一人で壁に向かってボールを投げ続けているような気分で、焦りが次第に俺を支配していった。

「まぁよ、落ち着いたらまた新しいやつ迎えりゃいいじゃねーか。......お前がこの間言ってたグレートなんとかってやつとか」

 何を言っても無反応だったみょうじが急に顔を上げた。そのまま俺の方を向いたみょうじの強張った表情を見た瞬間、やっちまったと思った。

「......ジュンの代わりなんていないのに」
「あ、いや、俺は......」
「伊佐敷くんのバカッ!!」

 みょうじはそう叫んで勢いよく立ち上がり、俺の元から走り去った。簡単に追いつくことはできるけど、今の俺に弁解できるはずもなく、そのままみょうじの背中を見送ることしかできなかった。

「くっそ......!」

 俺は、腹いせに中庭の土を思いきりローファーの先で蹴り上げた。


▽▲▽


 学校の校門を出てすぐのコンビニの駐車場で私は足を止めた。走っている時はただ夢中だったけれど、立ち止まってさっきの伊佐敷くんとのやりとりを思い出すと、途端にとてつもない自己嫌悪に襲われた。あんなのただの八つ当たりだ。伊佐敷くんは私を元気づけようとしてくれただけなのに。

「はは......嫌われちゃっただろうな」



 重い気持ちを抱えたまま帰宅して、いつものようにジュンの名前を呼ぶ。

「あ、そっか......」

 ポチがリビングから心配そうに顔を出したので、私はその柔らかな毛を優しく撫でた。

「ジュンもいなくなって、伊佐敷くんにも嫌われて......明日からどうしよう」

 私が「ジュン」と呼ぶ度に見せた、伊佐敷くんのあの苦い表情が蘇る。伊佐敷くんが嫌がっていたことは明らかだったけれど、私は公然と伊佐敷くんと同じ名前を呼べるのがうれしくてやめられなかった。だって今のは犬の名前だもん。そう言い聞かせて自分に言い訳をしていたんだ。私はずっと、伊佐敷くんの優しさに甘え続けていた。でもそれじゃあダメなんだ。嫌われたままでもいいから、明日ちゃんと伊佐敷くんに謝ろう。私は心の中でジュンに誓った。


▽▲▽


 次の日の昼休み。俺が昨日のことをどう切り出そうかと迷っていると、意外にもみょうじの方から俺に話しかけてきた。

「伊佐敷くん、ちょっといいかな」
「......おう」


 俺たちは廊下を歩いている間中、終始無言だった。「これからもう話しかけないで」とか言われるんじゃないかと思い、今の俺の心は鉛のように重かった。まるで断頭台に向かう囚人みたいだ。
 こんなことならもっと早く気持ちを伝えるべきだった。本当情けねぇ。

 みょうじが向かった先は、昨日の中庭だった。目の前のみょうじは下を向き唇を噛み締めていたが、しばらくして決心したように顔を上げた。

「......い、伊佐敷くん! 昨日はごめんね。あんなこと言って」
「......え」
「伊佐敷くんは元気づけようとしてくれたのに、ダメだね私。八つ当たりしちゃって」
「いや、俺の方こそあんなヒデェこと言って悪かった」

 みょうじはきょとんとした顔で俺の顔を見た。

「悪いのは私だよ」
「や、俺だって」
「私!」
「うっせぇ俺だ!」

 俺たちはしばらく無言のまま見つめ合った。

「......これは仲直りってことでいいのかな?」
「ま、そーだろうな」

 俺の言葉を聞いた途端、ずっと固い表情だったみょうじが、やっといつものように笑った。俺も思わずそれにつられる。

「っはー、よかった......!」

 俺は頭をガシガシかいて思わずその場にへたりこんだ。それは偶然にも昨日と同じ場所だった。それに倣ったみょうじも、同じように隣へ腰を下ろす。

「伊佐敷くんも、もしかしてちょっとは気にしてくれたりした?」
「ったりめーだろうが!」
「そっか、よかった......」

 みょうじは安心したように空を見上げた。
 そうだ、今の俺にしてやれることは......

「あのよ、俺にできることはなんもねーけど......」
「え?」
「“犬名”つけろよ。んで、俺に訪れた幸運をお前に分けてやる」
「でも、伊佐敷くん嫌なんじゃ......」
「いいからつけろ」
「う......」

 うるうるしたみょうじの瞳に見つめられて、俺は不覚にもたじろいでしまう。

「......ありがとう。ごめん、一昨日から私、涙腺緩みっぱなしなんだ」
「おう」
「......ジュンの犬種で、いいかな?」
「好きにしろ」

 みょうじはすっくと立ち上がり、しゃがみ込んだ俺の前に立った。そのまま俺の鼻先に人差し指をピッと突きつける。

「命名! “伊佐敷 スピッツ 純”!」

 これが後に俺の通り名として定着する“スピッツ”誕生の瞬間だった。偶然にもそれは俺の誕生月だったものだから皮肉な話だ。だが、この時の俺はまだそんなこと知る由もない。

 眼前には、校舎に囲まれた狭い空を背景に、みょうじの溢れんばかりの笑顔が広がっていた。
 本当、俺はこいつのこの顔に弱ぇな。いつもこれに負けて許しちまう。
 その時俺は、目の前に突きつけられたみょうじの指を見てふっとイタズラ心が湧いた。いつも従順な犬と思ったら大間違い、時には噛み付いてやることも必要だ。

 俺はみょうじの手を右手でがっしと掴んでやった。その小さな手は俺の手のひらにすっぽりうまく収まる。

「い、伊佐敷くん......?」
「............」
「伊佐敷くん! 手! 手っ!」

 みょうじは面白いくらいに真っ赤な顔をして、俺の手を振りほどこうと必死に腕を振る。だが簡単には離してやらない。まるでお気に入りのおもちゃを取り上げられるのをごねる犬みたいだな、と自分でも思った。俺は恥ずかしがるみょうじの瞳を真正面から捉えた。

「......俺は『ジュン』じゃねーから」

 ここはしっかり釘を刺しとかねーとな。こいつ鈍感そうだし。
 それを聞いたみょうじは腕を振るのをやめ、目をぱちぱちさせた。

「うん、わかってるよ......純」

 頬を紅潮させたみょうじは、俺の目を見てふわりと微笑んだ。その笑顔が俺のストライクゾーンのど真ん中にズドンと食い込み、俺は直視できなくなって思わず下を向いた。

「伊佐敷くん?」
「うるせぇ!!」

 顔が一気に沸騰してしまったみたいにめちゃくちゃ熱い。今の俺の顔も、さっきのみょうじみたいにきっと真っ赤だろう。
 くっそ、やっぱりこいつには敵わねぇな......。
 こいつは確かにしっかりと手綱を握った飼い主気質で、俺はどうあがいたって忠実な犬気質からは抜け出せないようだ。

 ーーだがこいつに従うなら、それも悪くないか。


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