雑念バット
うちのバットは万年護身用だ。
玄関の傘立てに、忘れ去られたように立てかけてある。
昔、弟が野球を始めて、たった1ヶ月でやめた名残りだった。母はもったいないから護身用にと残していた。でもいざ強盗が襲ってきたって、きっと家族の誰も思い出さないだろう。
私が唐突にこれを思い出したのは、御幸と付き合ったからだった。御幸は彼女の私よりも、この冷たい金属棒と過ごす時間のほうが長いんだろう。ただ、私はそんな御幸が好きで付き合ったのだ。
けれど12月のある夜、私は無性にこいつが憎くなり、凍えるような寒空の下初めてこいつを振ってみた。
真冬の凛とした空気を肺いっぱいに吸い込むと、鼻の痛さに閉口した。氷の粒を吸い込んだみたいだった。夜空の星は落っこちてきそうなくらい満点だ。向かいの小さな家はまだ明かりがついている。
重くて冷たいこいつは持つのも億劫だ。
とりあえず、一振り。
その時、あ、と気付いた。私はどうやら御幸と同じ左打席らしい。
1回、2回と振ってるうちに、余計な雑念が振り払われていくようだった。
「御幸と話したい」という思いを薙ぎ払う。
「御幸に会いたい」という思いを薙ぎ払う。
あと20回ほど振ったら、無心の境地に辿りつけそうな手応えを感じた時、尻のポケットがムーッと震えた。しばらく震え続けるそれは珍しく着信だった。
さっき御幸にメールを打った。"練習お疲れさま"
私は御幸に「?」で終えるメッセージを打たない。忙しい彼が、返信できないことに罪悪感を持たないように。私が無駄な期待をしないように。
私は息を整えてから、震える手で通話ボタンを押した。
「もしもし、こんばんは」
「おうなまえ、まだ起きてた?」
「うん」
「夜更かしだな。何してた?」
「えっと、バット振ってた」
「お前んちバットあったのかよ?!」
「うん、昔弟が野球やってて」
「へぇ」
「1ヶ月でやめたけど」
「早っ!」
ははっと笑う御幸は楽しげで、練習の疲れなど微塵も感じさせない。
耳へ流れ込むのは御幸の声だけで、周りは森閑としていた。きっと私同様、外で電話をしているのだろう。そう思うと、この寒さも悪くない。
「珍しいね。こんな時間に」
「なんか急に声が聞きたくなって」
「............」
「おい、何か言えよ」
そんなうれしいことを言われると、さっき振り払ったはずの雑念が蘇って私のワガママが漏れそうになる。
「うん」
「......なんでバットなんか振ってんの?」
いくつか浮かんだ選択肢から、慎重に選び取る。
「......御幸の気持ちが少しでもわかるかな、と思って」
嘘だった。私はこいつが憎い。でも今はこれが正解だ。
「......俺、なまえのそういう健気なとこ、好き」
「............」
「だから何か言えって」
咄嗟についた嘘にすぐ耐えられなくなる。急に寒さが増した気がして、右手をズボンのポケットに突っ込んだ。
「ごめん、嘘だよ。私そんなに健気じゃない......私は御幸のバットくらい、御幸と一緒にいたい」
"でも、忙しいのちゃんとわかってるから"と二の句を次げば、イイ彼女。このまま黙れば、ワガママ彼女。
私は一瞬、逡巡し、黙ってみることにした。
「............」
「............」
「何か言ってよ」
やはり選択肢を間違えてしまったようだ。
「......いや、なんかすっげぇ嬉しいなと思って。お前そういうのあんま言わねぇから」
目から鱗。私のワガママが、御幸を喜ばせるなんて。
「そうかな」
「そうだよ」
ほんの少しだけ、調子に乗ってみてもいいのかもしれない。さっき薙ぎ払った雑念は、まだ新鮮な状態で辺りに散らばっているのだから。
「......素振り続ける、から、もし休みができたら一緒にバッティングセンターに行ってみたい」
「ああ、連れてってやるよ」
「......ありがとう」
向かいの家の電気が切れた。いつも12時きっかりに寝る、規則正しい夜更かしじいさんだ。
「日付けが変わったからもう切るね。明日も練習がんばって」
「おう」
「また、メールする」
今度は5通に1通くらい「?」を付けて。
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