わがままな私を許して

 重い瞼を押し上げると、鈍い頭の痛みと、のしかかるような気だるさが全身を襲った。掛け布団からはわずかに肩が出ていて、冬の朝の寒さに思わず体がぶるりと震える。昨日の夜、着替えた覚えがないのに、私はなぜか自分の持ってきたパジャマを身につけていた。

 ひとつ息をついて右側へ頭をよじると、壁に掛かった時計は、無機質に午前五時を指していた。更にその反対側へ視線を向けると、横向きの姿勢の純が、ごぅごぅと盛大にいびきをかいて眠っていた。
 起こさないようにそっと掛け布団を持ち上げると、Tシャツにトランクスというなんともマヌケな格好で小さく丸まっている。いびきの大きさに比べて、お腹を守るその姿勢がまるで子犬のようで、こみあげる愛おしさに思わず前髪へ手を伸ばした。
 寝ぼけているのか、うー、とわずかに眉を寄せる。
 すると、純の髪に触れたその時になってようやく、私は自分の手の甲の異変に気づいた。しげしげと見つめると、その手には真っ白い包帯が丁寧に巻かれている。私はその白をそっと撫でながら、ずきずき痛む頭の片隅から、昨日の夜の記憶を、一本の頼りない糸をたぐり寄せるように思い起こした。



 昨日は私の二十回目の誕生日だった。
 大学で野球をしている純は、この日もいつものように練習があった。けれど、それが終わればまっすぐ家に帰り、一緒に誕生日を祝うと約束してくれた。

「悪りぃ。急な飲み会が入って遅くなる。抜けられそうならすぐ抜けて帰っから」

 携帯をきゅっと握りしめる。こういうことは大学に入ってからたびたびあった。運動部での先輩の権力は絶対だ。でもよりにもよって、なんで今日なんだろう。

「大丈夫。ごはん作って純の部屋で待ってるよ。帰り、気をつけて」

 最後の方は語尾が震えてしまったけれど、電話越しならこんな些細な変化は伝わらないはずだ。
 “できた彼女”
 純の野球部の友人たちから、私はこう言われていた。もしくは“理解のある彼女”。
 純と付き合ったのは高三の時で、野球部を引退したあとだったが、クラスが同じだったため、その忙しさとハードさは当初から知っていた。それを承知で付き合った。だから私は、純に淋しいとかそばにいてほしいとか、そんなことは今まで絶対に言わなかった。
 純が野球をすることはもはや呼吸をすることと同じであり、「○○と私、どっちが大事?」などというマンガやドラマの中で登場する例の台詞なんて愚問だ。それらを一切合切しょいこんだうえで、初めて恋人と言えるのだ。そう思っていた。いや、今でも思っている。

 小さなテーブルの上の、次第に冷えて固くなっていく料理を見下ろす。純の一人暮らしの部屋に大きなテーブルなんて置けないから、小さなちゃぶ台みたいなテーブルを使っている。どこかままごとじみた見た目に反して、料理と並ぶビールや酎ハイの缶がいやに滑稽だ。
 「お酒は二十歳になってから」という法律をこの歳まで忠実に守り続けた私は、未だにお酒を飲んだことがない。「そんなのみんな守ってないよ〜」と友達は笑うけれど、なんとなく破る気にもなれなくて今日まできた。数ヶ月前に誕生日を迎えた純は、今頃先輩たちに浴びるように飲まされているだろう。

 時計の針がチクタクチクタク。
 フローリングの上で三角座りをした状態で顔を上げると、時計はもう午後十時を指していた。一時間ごとに長針と短針の間の角度が鋭くなっていくのが嫌で、十二時でそれがぴたりと重なった時、私の胸にぶすりと突き刺さるんじゃないかという恐怖に怯える。
 はやく、はやく帰ってきて。
 嫌な妄想を振り払うようにテレビをつけると、ちょうどバラエティがやっていて、他人の無責任な笑いの渦に少しだけ心が救われる。
 その時ふと、視界に飛びこんできた先ほどの酎ハイの缶。私は半ばやけになって発作的にプシュッとプルタブを開けた。その勢いで一気にアルコールを喉へ流し込む。喉がかーっと熱くなり、続いて体が火照ったように熱を持ちはじめる。そこからは一気にタガが外れたように次々と缶を開けた。初めてのお酒は、抵抗なく私に馴染んだようだった。頭がフワフワして陽気な気分になる。
 楽しい楽しい、純がいなくてもこんなに楽しい。

 けれどその時、目の前の壁からドンッ、ドンッという音が聞こえてきた。明らかに意思を持った音。ここは壁が薄いのだ。きっと、テレビのボリュームを下げろという隣人のひそかなアピールだろう。イライラしたけれど、ぐっと堪えてテレビを消しに立つ。
 その拍子に壁のそばへ視線をやると、一本の瓶が目にとまった。“伊佐錦”というお酒は、私が以前ネットで発見し、“伊佐敷”と似ていて親近感がわいたため冗談半分で買ったものだ。これは今日、二人で開けるはずだった。

「開けてしまえ」

 どこからともなく暗い囁き声が聞こえる。
 私がしばらく逡巡してその瓶をぼぅっと見つめていると、ふいに先ほどの壁からくぐもったような声がもれてきた。なんだろうと耳をすませていると、男女の二種類の声を聞き分け、とっさにアルコールとは違う熱が顔を覆った。

「......私よりあんたたちの方が幸せなんじゃない」

 頭が朦朧として自分自身をうまくコントロールできない。おぼつかない手でもどかしく瓶を開封する。

「テレビの音くらい我慢しろ!」

 そう怒鳴って私は薄い壁を殴った。そしてお酒を一口。酎ハイとは比べものにならないほどの灼けるような喉の痛みに少々むせたが、かまわずもう一口あおった。

「うるさい!」

 再び瓶を傾けて喉に流し込み、勢いよく床の上に置く。が、手元のコントロールが怪しくなっていた私は、あやまって瓶を倒してしまい、透明なお酒がフローリングに流れて地図を作った。だけどそれからも惰性で壁を殴り続けた。
 そんなむなしい行為をしばらく続けていると、隣からは声がやみ、私は満ちたりた気分になった。

 けれどそれも一瞬のことで、今度は壁沿いのスチールラックにずらりと並んだ純の蔵書が視界に入った。純が尊敬してやまない先生が描いた少女マンガの文庫版だ。それは整然と並んでいるにもかかわらず、真ん中のあたりがぽっかりきれいに欠けていた。おそらく五冊分ほど。私はその大きく口を開けた空白が急に怖くなり、欠けてしまったその部分を埋めたくて埋めたくてたまらなくなった。
 どうして欠けてるの。埋めてよ。ちゃんと満たしてよ。
 純への理不尽な怒りがむくむくとこみ上げて、視界が真っ白になる。満たせないなら最初からない方がマシだと思いつき、私は慌ただしくスチールラックへ駆け寄り、そこに並ぶマンガを引っぱり出した。気分的にははたき落としたいところだが、わずかに残る理性がそれを制止し、それらを丁寧に取り出して、フローリングの上に数冊ずつ重ねた。それから、床にへたりこんで無数のマンガの小山を眺めた時、私はふと思い出した。
 そうだ、欠けた途中の巻は私が先週純に借りて、今、私の家にある。
 がらんと空いたスチールラックを前に、私は呆然として動けなくなった。純はちゃんと私に与えてくれているのに私はなんだ。あの空白が埋まらないのは他ならぬ私のせいだ。

 部屋の中がいやに静かで、おもちゃのような小さな冷蔵庫の稼働音だけが、ぶぅーんとやたら大きく響く。
 世界に一人、ぽんと放り出された気分になり、私は怖くなってベッドにすがりつき泣いた。本当は“できた彼女”なんかじゃない。私は実際はわがままで、ただそれを表に出さないだけだ。
 青道の色だ、と一緒にはしゃいで選んだ深いブルーのシーツとカバー。こんな風に約束をふいにされて部屋で待つ間、私はしばしばそれを握りしめて、声を押し殺して泣いた。私の心の奥底に澱んだみにくいわがままは、すべてこの群青の海が飲みこんでくれるから。

 そのままうつらうつらしていると、急に体がふわりと浮遊する感覚に包まれた。目の前の、おそらく人型が私に向かって何かを言っている。何気なく首をそらして時計を見ると、時計の針がL字型になっているなぁと霞がかった頭でぼんやり思った。それらがどの数字を指しているのか、自分の脳へ理解が行き届くまえに、私は意識を手放した。



「なまえ、ハデにやったな」

 その声にびっくりして包帯から視線を上げると、いつの間にか目覚めた純が、うつぶせで枕を抱えてニヤリと笑っていた。

「ご、ごめん。部屋散らけちゃった。すぐ片付ける」

 私は勢いよくベッドから起き上がったが、いきなり純に左腕を掴まれベッドに引き戻された。ばふん、と私の体がベッドに跳ねる。

「なにするの......?」
「気分悪りぃんだろ? もうちょっと寝とけ」

 私は、うん、と力なくうなずいて再び布団をかぶった。
 ベッドの外へ視線だけを投げると、まるで泥棒にでも入られたみたいに、部屋中がぐちゃぐちゃに荒れていた。缶は転がり放題、マンガは無秩序に積まれてあちこち点在し、伊佐錦の瓶は倒れ床を汚して、記憶にはないがおつまみのスルメが床中に散乱していた。これがすべて自分の仕業だとはにわかに信じがたい。すんと鼻を動かすと、むっとするようなアルコールの匂いが部屋中に充満していることに気がついた。

「初めての酒、どうだった?」
「う〜ん、まずかったかなぁ。途中で味がよくわかんなくなって......」
「でもお前、とんでもねぇ酒豪だぜ?」
「そうなの?」
「先輩らでもこんな飲まねぇぞ」
「そうかぁ、私、才能ありかぁ〜」

 この飲んだくれが、と純がいたずらっぽく言い、わき腹をくすぐるから、私はお返しにその締まった腹筋にパンチをお見舞いしてやる。
 それから純は一旦言葉を切って、ためらいがちに目を伏せたあと、私の顔をまっすぐに見つめた。

「昨日、ほんとに悪かった......」
「大丈夫だよ。先輩命令なら仕方ないよ」

 私が“できた彼女”にお決まりの台詞を選んで口にすると、純の表情がなぜか険しくなった。今の言葉の何がまずかったのだろうと心がひどくざわついた。

「......なんで文句のひとつも言わねぇんだよ。バカヤローとかなんとか言えよ」
「そ、そんなこと思ってないよ......」

 なんとなく真剣な雰囲気を察知して、私は上体を起こした。純もそれにならい、私たちは向かい合ってベッドの上に座った。

「お前はいつももの分かり良すぎんだよ」

 純の吐き捨てるような物言いに、私は次第に混乱する。

「なんでそんなこと言うの? 文句なんてないよ」

 純は私の言葉に眉を寄せ、それから顎で部屋を指した。

「じゃあこの部屋なんだよ。なんか言いてぇことあんだろ?」

 私は唇をぎゅっと噛みしめて目の前に広がる純の部屋をにらんだ。ぐちゃぐちゃに荒れたこの部屋は、確かに、私の本心が盛大に散らかっていた。私はもうそれを見ていられなくなって顔を伏せた。

「......バカヤロウ、純のバカヤロー」
「おう」
「先輩の誘いくらい断れ。ボケナス」
「おう」
「強面。スピッツ。......えっと、チョビヒゲ!」
「おう!」

 鼻の奥が次第にじんと痛くなってくる。私の頬には、昨日の涙の乾いたあとがぱりぱりの筋になり残っていた。そこにまた、新たな涙が流れる。
 純はうつむいた私の頭に手を伸ばして、髪をぐしゃぐしゃと掻きまぜるように撫でた。
 ボサボサ頭を上げると、あぐらをかいて腕を組んだ純が満足気なやわらかい笑顔を見せたので、私の視界は再び涙でかすんだ。

「この際なんでも言ってみろ。全部聞いてやる」
「......え、えっと、うめあわせにデパ地下のケーキおごって」
「おう」
「あと、マネージャーの女の子とあんまり仲良くしないで」
「おう」
「毎日好きって言ってほしい」
「......お、おお」
「............」
「なまえ?」
「......もっと、もっともっと私を愛して」

その瞬間。純は私の首に腕をまわして、そのたくましい胸にぐっと引き寄せた。慈しむように、その大きな手が私の頭をゆっくりと撫でる。

「......ねぇ、純」
「あ?」
「わがままでごめんね」
「こんなんわがままじゃねぇよ」
「じゃあ、これはなに?」
「あー、だからその......これはつまりそのなんだ」
「うん」

愛だ、と呟いた時の純の顔は、熟したりんごみたいに真っ赤だった。

「さすが少女マンガで育った人は言うことが違いますね〜」
「ちゃかすんじゃねぇ!」

 そう吠えたあと、私たちはその姿勢のままベッドへばふっと倒れこんだ。何がおかしいのかよくわからないまま、私も純もひとしきりお腹がよじれるくらい笑った。そのままのしかかる純の幸せな重みに、私はまた泣きたくなる。

「一応よぉ、昨日、誕生日間に合ったんだぜ」
「うん、なんとなく覚えてる。たぶん日付が変わる十五分前だった。......ありがとう」

 鼻先が触れる距離の、潤んだ純の瞳と私の瞳が交差する。
 願わくは、その愛しい瞳にたまる涙が、私と同じ味であればいい。そして淋しくなった時、私を想って泣けばいい。純の瞳に吸い込まれそうになりながら、私はそんな嗜虐的なわがままを楽しむ。純ははたして、これも愛だと許してくれるだろうか。
 迫り来る快楽の波の音に耳をすませていると、カーテンの隙間からもれる淡い光が朝の訪れを告げていた。それは群青のベッドの上にも等しく落ちる。私のわがままが溶けだした深い海には、すべてを許すような優しい光が降りそそいでいた。


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