かみかくし願い
「「かみかくし〜?」」
「そ。子供がちゃんと言いつけを守らずに勝手にウロウロしてると、神隠しに合うのよ」
わたしは、てっちゃんとかおをみあわせた。おかあさんのいってること、ほんとかな?
「てっちゃん、しんじる?」
てっちゃんはコクリとうなずく。じゃあ、わたしもしんじよう。
「特になまえ。あんたは落ち着きがなくてすぐどっか行っちゃうんだから。ちゃんと気をつけなさいよ」
「え〜〜?!」
またてっちゃんは、コクリとうなずいた。
ーーピピピという、明らかにそのシーンにはそぐわない電子音がして、私ははっと目を覚ます。
懐かしい夢を見た。
携帯に手を伸ばすと、ディスプレイには「8月23日 AM6:00」と表示されていたが、窓の外はすでに明るくなっていた。夏の朝は早い。私は起き上がって、うーんとひとつ伸びをして、窓の方へ歩み寄った。ほのかに熱を持ったカーテンを控えめに開けながら、私は隣の家の窓を見る。隣の窓のブルーのカーテンは閉じられているから、てっちゃんはきっとまだ夢の中だろう。
けれど数週間前までは、いつもこの時間にはすでにカーテンは開いていた。高校最後の夏休み、あの試合の日までずっと。
私はズキンと痛む胸をそっと押さえた。でも、あの人はこの痛みの何百倍も苦しんでいるはずだ。
てっちゃんはあの日からずっと、もう二度と戻らない夏と、どうやって向き合ってるんだろう。
「てっちゃん来たわよー」
「はーい、今行くー」
今日はてっちゃんの気晴らしになればと、近所にある神社の夏祭りに誘った。最近は一緒に行くことはほとんどなくなったけれど、幼い頃は二人でよく浴衣を着て出かけたものだ。
今日の私は、最近頼みこんで買ってもらった、紺地に水仙の花が散った浴衣を着せてもらった。紺色の中に、香り立つように美しく浮かび上がる白い水仙の姿は、清楚でおしとやかな印象を与える。私の性格とは縁遠いものだ。
ちょっと大人っぽすぎる気がしたけれど、どうしてもこれが着たかった。だって、てっちゃんも浴衣を着ると言うから。
「てっちゃん、おまたせ」
「ああ」
玄関先で待つてっちゃんは、黒の浴衣をびしっと着こなしていた。帯も同じく黒系で、正統派にまとめている。まるで、古い日本映画から出てきた凛々しい役者のようだった。おしゃれ云々というよりも、精悍な顔立ちのこの人にはそれがとてもよく似合っている。背筋のすっと伸びた姿勢の美しさが、それに拍車をかけていた。
その姿を見た瞬間、やっぱりこれを着てよかったと思った。赤やピンクの可愛いのじゃ、きっと釣り合わない。
「......てっちゃん、やっぱ浴衣似合うね」
「父さんの昔のものだそうだ」
「うん、すごく格好いい」
「ありがとう」
てっちゃんは私をじっと見つめた。
「な、何......?」
「もう金魚の浴衣じゃないんだな」
「......もうあんな子供っぽいの着ないよ」
私はむくれながらてっちゃんの手の甲をぴしっと叩いた。
「......なまえ、綺麗だな」
もう夕方なのに、てっちゃんは私を眩そうに見つめた。
私はその言葉に息が詰まりそうになる。この不器用な人の辞書に「お世辞」なんか載ってないから、余計にタチが悪いんだ。
私たちは下駄を鳴らして歩きだした。
夕方になり、蒸し暑さが少しだけ身を潜めた。柔らかな夜風が、神社からの祭囃子の音を静かに運ぶ。あたりを漂う、色濃い夏の夕方の匂いに胸がいっぱいになった。草や夕餉やアスファルトや大気の匂いが、絶妙に混ざりあってこの匂いを生み出す。昔、二人で遊び疲れて、ふと気づいた時に漂っていたそれそのものだった。
てっちゃんは、慣れない下駄を履いた私に歩調を合わせるように、ゆっくり歩いてくれた。私はその足元にちらりと視線を落とす。
「いつもズボンばっかり履いてるから、浴衣なんてスースーするんじゃない?」
「いや、大丈夫だ。下にステテコを履いている」
てっちゃんはそう言いながら膝を上げた。すると割れた浴衣の裾から、黒のステテコがひょっこりと顔を出す。
「ちょっと! こんなとこで見せないで!」
「ああ、すまん」
てっちゃんは少しも悪びれることなく脚を戻した。
「ステテコなんて......てっちゃん、おやじみたい」
「む、そうか? でも、今はいろんな種類のものが出ているらしいぞ」
「まぁ、流行ってるもんね......」
赤くなった顔を見られたくなくて、私は持っている巾着の中を漁るふりをした。そうか、男の人は浴衣の下にステテコを履くのか。
私は手元の巾着はそのままに、まっすぐな姿勢で前を見据えるてっちゃんを、ちらりと盗み見る。
実は今から行く近所の神社には、私はとある理由で毎日通っていた。てっちゃんが青道に入学してからずっと。でも、もうその必要はなくなってしまったから、本人に言ってもいいのかもしれない。
「実は私さ......てっちゃんが青道に入ってから三年間、毎朝この神社にお祈りしてたんだよ。『青道が甲子園に行けますように』って」
私は意を決して話したつもりだった。
けれど、てっちゃんはさほど驚いた様子も見せずに、ただ困ったように笑った。
「......実は、前におばさんから聞いていた」
「ええっ?!てっちゃん知ってたの?!」
「......ああ」
「も〜、お母さ〜ん! 内緒って言ったのに〜!」
私は下駄のことなど気にせずに足を踏み鳴らした。なんか私一人バカみたいじゃないか。でも、今日はこの浴衣に見合うような大人っぽい女の子になるんだと思い直し、ピッと姿勢を正した。
「でもなまえは体力がないから、この神社の階段はいいトレーニングになったんじゃないか?」
「......まぁ、そうだけど」
なんとなく恥ずかしくて顔を上げることができず、私は下駄の鼻緒を見つめながら歩いた。けれどなぜか、隣からは一向に下駄の音がしない。不思議に思った私は後ろを振り返った。
てっちゃんは後方で足を止め、私をまっすぐ見つめていた。その視線に、私は息ができなくなる。
「......なまえ、今までありがとう」
「......どういたしまして」
私はその視線に耐えきれず、また鼻緒を見る。
下駄を鳴らしたてっちゃんはすぐ私に追いついた。私たちは再び並んで歩きだす。
嬉しい気持ちと淋しい気持ちが半分ずっこ。「今まで」って、これから私はこの人に必要とされなくなるんだろうか。まぁ結局いつも、私は頼ってばかりの役立たずだから。
そんなことを思っていると、私の脇を赤い何かがカラコロと音をたてながら駆け抜けた。白地に金魚が泳ぐ浴衣を着た小さな女の子。小学校低学年くらいだろうか。リボン結びしたピンクの兵児帯が、ふわふわ揺れる。
「はやくー! おいてくよー!」
その子が後ろに向かって叫んでいる。
「もう、そんなに走ると転んじゃうよー!」
更に後ろから、同い年くらいのグレーの甚平を着た男の子が、金魚の女の子をたしなめている。
その瞬間、幼い頃のお祭りの記憶と重なった。ちいさなわたしとてっちゃん。祭囃子がどんどん近くなる。
朱色の鳥居をくぐると、ずらりと並んだ屋台からは香ばしい匂いと甘い匂いが漂っていた。人の多さに少し辟易しながら、歩を進める。
「なまえ、ベビーカステラが売っているぞ」
てっちゃんが屋台を指しながら私の方を向いた。
「そこは黄色の袋のとこ。私が好きなのは白い袋のとこだよ」
「む、そうだったか」
昔から幾度となくこのやり取りをしているのに、てっちゃんは一向に覚えてくれる気配がない。
私の足元をお母さんの手に引かれた小さな子供がちょこちょこ歩いている。てっちゃんをそれを見て目を細めた。
「そういえば昔、おばさんから神隠しに合うって言われた事があったな」
「あ〜、夏祭りに子供をおとなしくさせるための方便でしょ」
「なまえは気が多いせいで、すぐどこかへ行ってしまったからな」
「そんなのもう直ったってば」
「そうか?」
真顔で言うてっちゃんにむっとして、またむくれそうになったけれど、ここはぐっと我慢。
「そういえば、『あの大きな木に近づくと神隠し!』とか言ってたね」
「『あの垣根をくぐると神隠し!』とかな」
「あ」
「「神隠しゾーン!」」
私たちは顔を見合わせてハモった。どちらからともなく、自然に笑みがこぼれる。
「懐かしい......。そんな遊びしてたね」
「ああ」
「私、わざとそこに飛び込んだりしてたなぁ......」
「そうだったな」
てっちゃんの気を引きたかった私は、それでよく困らせたりした。子供だから仕方ないけれど、昔から私はやっぱり子供っぽい奴だった。けれどてっちゃんは、必ず私を見つけてくれた。
しばらく人の流れに任せて道を進んでいく。何気なく屋台に目をやると、そこにはきれいなオレンジ色がずらりと並んでいた。
「あ、みかん飴だって! へぇ〜、こんなのあるんだ。......ねぇ、てっちゃん」
私の右手は空をきった。隣にいるはずの人がいない。
「てっちゃん?」
少し離れた所に、見慣れた短髪の後ろ頭がわずかに見え隠れする。
「てっ......」
私が足を一歩踏み出した時、向かいの男の人と肩がぶつかった。舌打ちしながら去っていくその人を見送って再び前を向くと、今度は完全に見失ってしまった。
「てっちゃん? どこ?」
とりあえずあたりを見回して探すけれど、どこにもいない。
さっきまで涼しいと思っていたのに、今は人混みのせいでひどく蒸し暑かった。男の人の汗の匂い、女の人の香水の匂い、おじさんの煙草の匂い。雑多な人々から色んな匂いを感じて、急に心細くなる。
「てっちゃん!」
私の弱々しい声は、祭囃子と屋台の客引きの声にかき消されてしまう。
私は完全にはぐれてしまった。一人ぼっちだ。心臓がどくんどくんと脈打つ。大げさかもしれないけれど、これが私とてっちゃんの今後の人生を予見している気がして、私は叫び出したいほど不安になった。ただやみくもに歩きながらあたりを探す。てっちゃんは背が高くて姿勢がいいから、すぐに見つけられるはずなのに。
そういえば昔来た時も、私はてっちゃんとはぐれて迷子になったんだ。あの時は確か、私の好きなキャラクターのお面が並んでいてそれに気をとられたんだっけ。
その時唐突に、さっきのてっちゃんとの神隠しの話を思い出した。ずっと不安定だった私の心に、追い打ちをかけるように黒い何かがじわじわと広がっていく。
神隠しってどんなだろう。どんな世界に行くのかな。そこに神様はいるのかな。本当に神様がいるなら、どうしてあんなに願ったてっちゃんの甲子園の夢を叶えてくれなかったの。神様の役立たず、私の役立たず。決勝で負けて帰ってきたてっちゃんに、私は何も言えなかった。私なんか、てっちゃんの隣にいる意味があるのかな。
私は足を止めて俯いた。慣れない下駄に足が痛くなって、もう歩きまわる気力を失っていた。
こんな役立たず、てっちゃんはもう昔のように本気で探してくれないかもしれない。私の心は、黒い何かで全て覆われてしまう。
ーー私なんか、消えてしまっても
ふと顔を上げると、屋台と屋台との間に暗い空間が広がっていた。まるでその深い闇が、口を開けて私を手招きしている気がした。確かここも、昔私たちが指定した神隠しゾーンの一つだった。
あそこはいったい、どこへ繋がってるんだろう。
私は魅入られたようにそちらへ向かって歩を進めた。私はわるい子だ。お母さんの言いつけを守らず、怖いところへ足を踏み入れようとしている。カランコロンという自分の下駄の音が、どこか他人事のように聞こえる。私はその暗い影へ、恐る恐る足を踏み入れようとした。
「なまえ」
突然、私の手首が掴まれた。肌から伝わる温かい人肌の感触に、はっと我に返る。
「てっちゃん......」
『やっと見つけた』
そう言って静かに笑うてっちゃんに、昔の記憶が重なる。
『もうどこ行ってたの? 散々探したのに』
無意識に私から出た言葉は、あの時と全く同じ台詞だった。私はどきどきしながらてっちゃんの顔を見上げる。
『悪かった』
てっちゃんの台詞もあの時と同じ。それからこの人はこう言うはずだ。
『泣き虫だな。なまえは』
てっちゃんの台詞に予想がついていたはずなのに、私はびっくりして自分の頬に触れた。ああ、これは涙か。
『泣いてなんか、ない......』
私は上手な言い訳が思いつかず、ただ首を振って否定し続けた。これもあの時と同じ。もう何年も経っているのに、未だにうまい言い訳を生み出せない。本当に私は、進歩がない。
けど、てっちゃん。一つ違うよ。私はもう泣き虫は卒業した。でも、てっちゃんが優しいと、私はまた泣き虫に戻っちゃうんだよ。
てっちゃんが私にすっと手を差し出した。私はその優しい手に、自分の手を重ねる。するとその温かい手から優しさが伝わって、私の心はそれで満たされる。
この展開も同じだけど、また一つ違う。昔のこの人の手のひらは、こんなにも硬くなかった。でも私はその硬さが心地良くて、きゅっと握り返した。てっちゃんは高校に入って背がぐんと伸びたから、繋ぐ時にてっちゃんの手の高さに合わせると、私の手が少し浮いてしまう。昔のように同じ高さでは繋げなくなってしまった。あの頃と同じようでいて、圧倒的に変わってしまったこと。
ただ、今の私にはその変化が、泣きたいほどに嬉しい。
「私が迷子になったら、また見つけてくれる?」
てっちゃんは、優しい瞳で私を見下ろした。
「ああ、見つけてやるさ。何度でも」
てっちゃんは私のわがままを決して咎めない。私はこの人がいてくれるから、安心して迷子になれる。けれどいつか、いつか私は、この人を支えられるくらい強くなる。でも今だけは、ずっとこのままでいたいというわがままを許してほしい。
私たちはぎこちない高さで手を繋ぎながら、下駄を鳴らして歩きだした。
どうか、かみさま。今だけ私たち二人を、神隠しに合わせてください。
text /
top