夜の海と君と、

『ハァ......海行きてぇな』

 別に特別な意味があって言ったわけじゃない。ただ、毎日毎日乾いたグラウンドの上にいるから、本能的に水を求めただけだ。

『うみ......?』
『海』
『そんな時間あるの?』

 電話越しのなまえの口調には非難の色があるわけじゃなく、ただ単に聞き返したという感じ。来た球をそのまま打ち返すような。
 夏大が終わり、今は新チームのことで揉めていて、もちろんそんな時間は皆無だ。ましてや俺は副主将。しかも盆過ぎの海なんて、クラゲが浮きまくって泳げたもんじゃない。だから、ただ言ってみただけだ。

『ま、ねぇよな』
『そっか......海かぁ。う〜ん、海か〜』

 なまえは俺の言葉を無視してしばらくうんうん唸っている。何でそこで悩むんだコイツは。

『......うん。よし、わかった!』
『何がわかったんだよ?』
『海、行こう!!』
『............』

 付き合い始めてから随分経つが、未だにコイツは理解不能の時がある。



 翌日の深夜0時。夏も終わりに近づき、暑さのやわらいだぬるい風が漂う。俺は寮を抜け出してなまえと近くのコンビニの前で待ち合わせた。グースカ眠る沢村の目を盗んで抜け出すなんざ、いとも容易い。

「じゃ行こっか」
「......ああ?」

 なまえは肩にデカイエコバッグを掛けていた。足元はビーサン。そこだけは立派な海スタイルだ。

「おい! どこ行くんだよ」
「いーから! 黙って付いてきて」

 俺は少し呆れながらなまえの後ろを歩く。前を行くなまえの短いスカートが、歩くたびにゆらゆら揺れる。海なんて足もねぇのにどうやって。しかも徒歩かよ。

 しばらく歩いてなまえは公園に入った。住宅街から少し離れた、地元民しか知らないような寂れた小さい公園。ブランコが一組と鉄棒しかない、猫の額ほどのものだった。端の方は草がぼうぼうで、鉄棒の横に申し訳程度の砂場があるくらいだ。ブランコのそばには街灯がぽつんと立っていて、ブランコの鎖のサビを際立たせている。
 一体何はじめやがる気だコイツ。
 なまえは突然、くるりと俺の方を振り返った。

「はい! 今から海に行きます!」
「はぁ? 何言ってんだお前」

 なまえは、ふっふーんと小鼻を膨らませている。何かを企む時のコイツのクセだ。「せいっ!」という謎の掛け声と共に、なまえはいきなりTシャツを脱ぎ始めた。

「ちょ、おいっ! 何してんだよ!!」

 突然の奇行に焦る気持ちと、でもやっぱり見てみたいという気持ちがごちゃまぜになる。ま、男のサガだろ。
 ぺたんこのお腹におへそ、その上の......

「水着?!!」
「あははは! 期待した?」

 なまえは赤と白のギンガムチェックの水着を着ていた。お腹をはさんだ上と下で別々になっているやつだ。下のスカートはどうやら水着だったらしい。いや、これでも十分おいしいけど。

「今から海ごっこやろ」
「海ごっこ?」

 鬼ごっこなら知っているが、海ごっこなんて聞いたことがない。

「さぁ、洋一も脱げ!」
「ちょ何すんだ!」

 なまえは思いきり俺のTシャツを捲り上げた。くすぐってぇ、妙な浮遊感。とんだ痴女もいたもんだ。なまえという名の痴女に身ぐるみを剥がれ、俺はマヌケにも短パン一枚になった。一応水着に見えなくもない。

「はい、コレ武器ね」
「お? おう」

 なまえはエコバッグをゴソゴソあさり、俺におもちゃの水鉄砲を差し出した。駄菓子屋にでも売っているような蛍光イエローの安っぽいやつだ。

「そして私はこれ。ウォ〜タ〜ガ〜ン!」
「オイ、んだよこの差は!」

 なまえが持っているのは、デカイタンク付きの立派なウォーターガン。俺のとはえらい違いだ。

「はい、戦闘開始」
「っぶふぉ?!」

 言い終わらぬうちに俺の顔はびしゃびしゃになった。目を開けると、してやったりななまえの顔。んのヤロウ......。ん?

「......しょっぺぇな、この水」
「うん、リアル感を出すために塩水にしたから」
「妙なトコこだわんな、お前」
「まだまだたくさんあるよ」

 なまえはエコバッグから2リットルのペットボトルを二本取り出す。

「うし! 戦闘再開だコラァ!」

 俺はなまえの顔めがけて水鉄砲を打つ。

「うわっ」

 視界を塞がれたなまえは手当たり次第にウォーターガンをぶっ放す。俺はそれをひらりとかわしながら背後に回り、大きく開いた背中に打った。
 ヤベ。懐かしい、この感じ。昔団地のヤツらとよくやったな。

「くそー! 洋一待て〜」
「ハッ! 遅ぇよ!」

 俺は自慢の足を使って今度は正面に回り、なまえの無防備な白いお腹に打ってやる。
 なまえは、うひゃ〜、という奇声を発しながらのけぞった。

「ヒャハッ! 参ったか!」
「ヒャハハハ!」
「おいコラァ、マネすんじゃねー!」

 脚の細い遊具ばかりなので隠れる所もない。相手を狙ったらそのまま当たるので、俺達はただひたすら走って、打って、かわした。

「あ......?」

 トリガーを引いても水が出ない。

「チッ! 弾切れかよ!」

 俺が弾という名の水を装填していると、なまえが満面の笑みをたたえて近づいてきた。さながら獲物を追い詰めた狩人のようだ。

「今から洋一ご自慢のツンツンヘアーを崩しにまいります」
「おいっ! そりゃ反則だろ......っぶはっ!」

 毎朝早めに起きてセットする、俺のカッコ良く逆立てた髪が無常にもへたれていく。どうせもう寝るだけだからいいけどよ。

「ハハ、俺らバカみてーだな!」
「うん!」

 バカはもう中学で卒業したはずなのに、今こうやって地元から離れた東京でまたバカをやるのは実に不思議な気分だ。

 それから俺達はブランコに座って、なまえの持ってきた溶けかけのソーダ味のアイスを食った。汁が垂れて手がベッタベタだ。

「よし。一通り遊んだトコで今度はイマジネーションの時間だよ。洋一、さっきの行動から、頭にホントの海を思い浮かべて」
「ハァ? なんじゃそりゃ」
「イメージだよイメージ。私を見ながらホントの海をイメージしてみて」
「ったく......。へいへい、わーったよ」

 俺はなまえの水着姿を一旦目に焼き付けた。そして静かに目を閉じる。イメージ、イメージ。

「......どう? どんな海が見える?」
「あー、......扇風機、茣蓙」
「せ、扇風機?」
「......焼きもろこし、唐揚げ......かき氷」
「な、ちょっと! それ海の家じゃん!」

 俺はパッと目を開けた。。

「ま、だいたい食ってるイメージだな」

 なまえは「洋一め〜」と文句を垂れながら俺の腕を揺すった。おい、あんまり水着で近づくんじゃねぇ。

「じゃあ私もイメージしてみる」
「おう」

 なまえの瞼がゆっくり落ちた。俺のイメージの海ってどんなだろう。
 そばの街灯が切れかけていて、なまえの顔に時々暗い影をつくった。
 それからなまえは、小さく口を開いてぽつりぽつりと言葉を落としていく。

「......暗い、暗い夜の海。少し寂しい感じ」

 心がざわっと波立った。コイツに夜の海の話なんてしたっけか。
 なまえが静かに目を開ける。俺はなまえの暗い空洞のような目を見つめた。そこが入口になって、俺の意識は二年前の夏の、寂しい夜の海へとぶ。
 地元のしけた海の匂い。引きずりこまれそうなほど深く淀んだ水面。ド派手なバリバリとやかましいバイク。運転するアイツのTシャツに染み付いたタバコの匂い。正体不明の、ぶつけようのないやりきれなさを吹き飛ばすために、よく後ろへ跨った。

「夜中にダチのバイクの後ろ乗って、海まで行ったことあったな......」
「へぇ、どんな海? 銚子マリーナ?」
「そんないいもんじゃねぇよ。近所のしょぼい海岸だ」
「ふぅんそっか。......いい友達だね」

 なまえはそう呟いたあと「♪盗んだバイクで〜」と静かに歌い出した。古い歌知ってんなコイツ。

「ダチはちゃんとバイトして買ったんだからな、バイク」
「うん。でも、そんな十五歳の夜だったんでしょ?」
「まぁな......」

 しばらく二人でブランコを立ちこぎした。ブランコなんていつぶりだ。振り幅が大きくなると共に、全身に心地よい風を感じた。キィキィという金属音が、夜の闇にまぎれていく。

「あ! そういえば甲子園のそばにも海あるんだよね。確か甲子園浜だっけ?」

 暗く傾いた空気を吹き飛ばすようになまえが言った。それに反応するみたいに街灯の明かりが持ち直す。俺達はブランコをこぐのをやめて座った。

「あ〜、中継見てたらよく浜風って言ってんな。そっから吹いてんのか」
「うん。浜風ってホントはただの海風なのにさ、甲子園では浜風って言うの。なんかいいよね、そうゆうの」
「あー......なんかトクベツってことか?」

 コイツは時々えらく感覚的なことを言うので理解に困る。

「うん、そんな感じ」

 シングルヒットってとこか。

「浜風って、数々の甲子園での試合を演出してきたんだってね」
「うまく浜風に乗ってホームランとかだろ?」
「逆に浜風に押し戻されてただのフライとかね」

 その時、なまえの後ろからさわっと風が吹いた。その風は少し潮くさい気がして、今のは浜風だったんじゃねぇかと思う。さっきのイメージの続きか?
 なまえは視線を落として、地面に伸びる二つの影を見つめた。

「......洋一、ニセの海でごめんね」
「いや......スゲー楽しかった。ありがとな」

 なまえは満足そうに笑った。

「本物の海、行きたいね。この近くの海でもいいし、洋一の地元の海でもいい。遠出して甲子園浜だってさ......」
「......ああ、行こうぜ。えーと」

 『いつか』と続けそうになって思い留まる。当分野球に忙しくて約束できないから、俺はこの言葉を使おうとした。だが、『いつか』という言葉の持ついい加減さを、俺は嫌というほど知っている。
 なまえは首を振った。

「『いつか』でいいよ。約束なんて、しなくていい」
「......は」

 『いつか』なんて、いつ来るかもわからない未来を待つなんてよ。不覚にも目の奥が熱くなって、慌てて首を振る。今のは前髪から滴る塩水が目にしみただけだ。
 ふいに遠くの方で波の音がした。
ニシシと歯を見せたコイツの笑顔の向こう、どんな海にも繋がってる気がした。


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