カンナヅキ

「おかえり」
「おう」

 お昼休み、御幸はスコアブックを抱えて教室に戻ってきた。昨日の試合のデータを確認するためだ。今は秋のブロック予選の真っ最中。
 教室に戻るなり窓ぎわの席で御幸は、それをいの一番に開いて熱い視線を向ける。今日は昨日に引き続き天気が良く、窓から差し込む光がスコアブックに落ちる。
 私はいつも御幸の前の席に勝手に座り、文庫を広げるか携帯をいじるかのどちらかで、付き合いはじめてからの日課だった。
 ただ今日はほんの気まぐれで、私は普段からの疑問を御幸に問いかけてみた。

「スコアブックってそんなにおもしろい?」

 何気なく言ってから「しまった」と思った。今の私の言葉の端々に、不満の色が少しでも滲み出てしまったかもしれない。
 けれど御幸は特に気にする様子もなく、スコアブックから視線を上げて私を見た。

「ま、これもキャッチャーの仕事だからな。試合の反省と今後の課題点も見つかるし大事なモンだぜ」

 御幸は、相手の弱点もな、と付け加えてニヤリと笑った。我が彼氏ながら、なかなか性格が悪そうな顔だ。

「ここ見てみろ」

 御幸は、スコア上のある一つの欄をすっと指した。

「これは試合の日付。こっちはこの日の天気と風向き」
「うん」

 そこには昨日の日付と、天気は「晴れ」風向きは「右→左 強風」と記入されている。

「ああ、確かに昨日は風がきつかったね」

 私は一瞬、昨日乱暴に髪を巻き上げた強い風の感覚を思い出した。

「んでこっち」

 今度は細かい正方形のマスの一つを示す。そちらは意味不明な記号と数字で埋め尽くされている。私にはさっぱり理解できない。
 指の先のマスの中にはダイヤのマーク。右下に「8」の数字。

「さて、この数字はなんでしょう?」
「うーん」

 マス全体では、1〜9の数字が使われている。なんとなくいつもグラウンドで見慣れているような......

「あ!選手の背番号!」
「そ、正確。厳密に言うと守備番号だけどな」

 ニッと笑って解説をはじめた御幸は、どこか楽しそうに見えた。

「上の数字はイニング数。......例えば九回裏のウチのこの攻撃。この回哲さんは逆転サヨナラホームランを打ったろ?『8』だからセンター方向。んで、ホームランの記述はこう、マスをダイヤで埋める」

 その長い指がすぅっとダイヤの形に動く。

「そっか!塁を全部回るもんね!」
「そうゆうこと。まぁ細かく記号とか解説してったらキリねーけどな」
「なるほど......じゃあ、御幸のこの五回裏の攻撃」
「......おう」

 私はそのマスを指でトントンたたいた。

「『7』はレフトで、この山型の記号は?」
「......フライだな」

 苦い顔の御幸。

「あ〜、そういえばフライ打ってたね。真ん中のUは?」
「ツーアウト」
「じゃあ御幸は五回裏レフトフライでツーアウトになったのか。えーと......、その前の増子先輩は出塁して、ない。あ!スタンドのみんなが言う『あいつはランナーいねぇと打たねぇ』ってのはこういう事か」
「うるせぇな。ま、認めてっけど」

 と不満そうに唇をとがらせる。私は頬杖をついて改めてスコアブックを眺めた。

「ってことはさ、この薄い紙の上には昨日の試合が全て再現されてるんだね。なんか壮大だなぁ」
「んなロマンチックなもんか?」
「............」

 御幸はプレイする側だから、これをあくまで冷静にデータとしてしか見ないんだろう。けれど私は、昨日五回裏でレフトフライに打ち取られて悔しがる御幸を思い出せただけで少し嬉しかった。私は試合展開なんていちいち細かく覚えていないからだ。不謹慎、かな。

「でもこのレフトフライのあと、7番の人がスリーベース打ってるんだよね。その次の8番は......SO?」
「スイングアウト。空振り三振だな」
「う〜ん、こうやって改めて見ると悔しくなってくるなぁ。だって御幸たちが打ってたら、このスリーベース生かせたって事だもんね」
「まぁそうだな」

 御幸の顔が少し陰ったので、私は慌てて付け加えた。

「ああごめん、責めてるんじゃなくて!御幸のこのフライの記号を消して、ヒットの記号に書きかえてやりたいなぁって。それで、ちょちょいと運命を変えてやりたい......」

 私はフライの記号を指しながらにらみつける。やはりここは、ホームランを書きたいところだ。

「ははっ、なんだよそれ。結果は結果だろ?」
「そうだけど......。御幸たちが練習がんばってるのは知ってる。でも、試合ってそれだけじゃない時ってあるじゃん?運とか勢いとか。だから私が神様になって、ほ〜んの少しの運を後押しするの。だってほら、今は10月だし」
「10月?10月って何かあんの?」

 私は、よくぞ聞いてくれましたとばかりに手帳を開いて10月の下の文字を示す。

「これ、これ見て」
「......神無月?」
「そう、だって10月は全国の神様が出雲に集まるんでしょ?だから今は東京に神様がいない分、私が神様になれたらって......」
「へぇ〜。けど、お前が神様だったらとんでもないミスしそうだな」
「え〜、失礼な!」
「あとそれって確か、ちゃんとした根拠はないはずだぜ?」
「そうなの?!」
「おう」
「知らなかった......」

 ずっと信じていた私の中の常識が覆されてしまった。いつもそうだ。御幸の方が一枚上手なのだ。
 御幸はくつくつと笑いながら頬杖をつく。私たちは互いに同じポーズで向かい合った。御幸は笑うけれど、私は本気でこの人の神様になりたいって思う。

「でもお前が神様だったら、俺の彼女にはなれないんだぜ?」

 御幸は私を試すようにニヤニヤ笑いを浮かべる。

「あ、そうか......。う〜ん、御幸の神様になりたいけど、彼女になれないのも嫌だ。困ったなぁ」
「いや、そもそも神様なんてなれねぇんだし本気で悩むなよ」
「え〜?」

 半ば本気で考えこむ私の頭に、御幸はそっと手を伸ばした。

「......なまえ」

 一瞬だけ私の髪をくしゃっとして、すぐに引っ込める。

「御幸......?」

 私に無言で笑いかける御幸の顔は、窓からの穏やかな陽の光を受けてキラキラ輝いていた。まるで後光のように。
 それを見た瞬間、ああ敵わない、って思った。触れただけで、私に深い安心をくれる。たった一つの仕草で、私をすっかり変えてしまう。
 神様はこの人だ。
 私は複雑な気持ちで御幸の顔を見つめた。あーあ、神様の神様になるなんて普通の神様になるより難しいじゃないか。思わず絶望的な気持ちになり、広げたスコアブックに突っ伏した。こんな紙の上の世界ですら支配できない私は無力だ。

「もう。御幸は......」
「なんだよ」

 それでも私は、御幸の神様になる事を願わずにはいられない。けれどもう一度だけ、私の何もかもを救ってくれるその万能の右手で、もう一度だけ触れてほしい。
 神様の硬くて大きな手は、ひだまりの匂いがした。





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