夏の夜話

 真夜中、小さな叫び声が聞こえた気がして目が覚めた。
 クーラーが壊れた八月の室内は、網戸にしていてもむっとするような暑さだ。窓からは風鈴を揺らすわずかな風が吹いていた。私はタオルケットを蹴とばして、のっそりと起き上がる。そろりと足を忍ばせて階段を下りた。まるで自分の家へ泥棒に入っているみたいだ。
 玄関の履き古したビーチサンダルをつっかけて外へ出る。玄関のドアを閉めたあと、少し迷ってもう一度ドアに手をかけた。玄関の隅に立てかけてある二本を見つめる。家人のものだ。
 木製 と 金属。
 わずかに泳いだ私の右手は、木製を掴んだ。今度は振り返らずにそのまま通りへ出る。真夜中二時の道路には、ひとっこひとり見当たらない。ガキ大将が木の枝を振るように、私は木製バットを前後にぶんぶん揺らす。
 しばし歩いて角を曲がり、土手をゆっくり上がって一本道に出た。その道の先には、野球部専用の“青心寮”がある。

「せいしんりょう......」

 ぽつりと呟いてその響きをかみしめる。なんともまぁ、青い心を持った若人たちが住む寮にはこの上なくふさわしい名前だ。私は木製バットをカロコロと引きずって、そちらに歩を進める。土手から聞こえる虫の鳴き声は、意識し始めると余計に大きく響いた。
 その時、土手からザッと草を踏みしめる音が聞こえた。私は咄嗟にバットを竹刀のようにして構える。土手を上ってくるシルエット。バットを握った手のひらが汗ばみ、喉がヒュと鳴った。
 頭のてっぺんから、徐々にその全貌が露わになる。その人物は背が高くがっしりしていた。相手の持った長い棒が鈍く光る。どうやら同じ武器を持っているようだ。
 私はそっと後ろを見て退路を確認する。

「みょうじ?」

 なんとなく聞き覚えのある声だった。目を凝らして、じっくりとその人物を確かめる。

「御幸......?」

 真夜中の二時。バットを持った男女が道でばったり遭遇する。これほど間抜けなシチュエーションも他にないだろう。

「なにやってんだ?こんな時間に」

 クラスメイトの御幸は眉をひそめながらこちらを見る。

「い、一番!素振り練習。二番!青心寮を襲撃しに!」

 私は指を御幸の顔の前にピッと突き出した。
 照れ隠しで言ったクイズ形式に、御幸の眉間の皺が更に深くなる。それから「はっ」とひとつ笑ってニュートラルな表情になった。

「三番。ただの散歩。お前んちこの近くだったよな?」
「......見事、正解です。なんか急に目が覚めてさ」

 さすが心理の読み合いに長けたキャッチャー、素晴らしい洞察力だ。御幸はTシャツにハーフパンツ、簡素なサンダルを履いていた。右手には金属バット。

「つーかなんで木製バットなんか持ってんだ?お前、野球とかしねぇよな?」
「え、えーとこれは......」
「そういや、お前んち金属もあるって言ってたな」
「............」

 まさか現役野球部員を前に、護身用にバットを持っていましたなんて言えるはずがない。眼鏡の奥の涼しい瞳は、私の手元のバットを捉えていた。

「まぁ大体わかったけどな。そっちの方が殺傷力は弱いし、ある意味安心だもんな?」

 御幸は意地悪く笑う。ぐうの音も出ない。この眼鏡はなんでもお見通しのようだ。

「御幸こそこんな遅い時間に何してるの?」
「俺はまぁ、あれだ。素振り」
「ふ〜ん」

 御幸は言葉を濁したけれど、なんとなくわかってしまった。御幸は、きっと眠れないからバットでも振っていたんだろう。
 クラスメイトの御幸とは、最近席替えで隣同士になり、以前より話す機会が増えた。御幸は適度に明るく、人当たりは良い。けれどその飄々とした性格は、どこか他人を深く踏み込ませないような雰囲気を持っていた。ただこれは私の印象であり、御幸と深い話をする程親しくはないので、本当のところはよくわからない。
 最近、野球部の主将になったと聞き、主将っぽくないなぁと思ったくらいだ。

「キャプテン御幸は色々と大変?」
「いや、その呼び方、某サッカー漫画みてぇだから」

 私たちは話しながら自然に土手へ腰を下ろした。向かい合った誰もいないグラウンドはどこか寂しい。座ったせいで虫の大合唱が先程よりよく聞こえる。夏特有の、草むらのむっとするような青臭い匂いに包まれた。短パンを履いたむきだしのふくらはぎに、草がチクチクとこそばゆい。

「ま、慣れねぇ事してるって実感はあるかな」
「やっぱりキャプテンっぽくないって言われてるんだ?」
「まぁな」

 そう言いながら御幸は近くの草をプチプチとむしる。何気なく目をやると、そばに御幸の脛が見えた。こんなイケメンでもやっぱり脛毛はあるんだなぁと、真剣な話をしているのに割とどうでもいい事を考えていた。

「前のキャプテン哲さんって言うんだけど、哲さんがやると自然に思えてた事が、自分がやるとなんか照れくさいっつーか、嘘っぽいっつーか」
「ああ、なんかうさんくさい感じはわかるかも」
「......人に言われるとムカつくな」

 一見、自信の塊のように見える御幸がこんな事に悩むんだなと、少し意外な気がした。
 本来私たちはこんな込み入った話などする間柄ではないのに、今はそうする事が自然と思えるような空気があった。御幸も私に話しても害がなくて、後腐れもないから言っているんだろう。私だって気の利いたアドバイスができるなんて思っていない。

「けど、その性格押し通すしかないんだろうね」
「ああ」
「チームの数だけキャプテンの性格があるんだし、性格悪いキャプテンなんて珍しくないって!ドンマイ!」
「お前な......」

 私は呆れ顔の御幸の背中をどついた。鍛えられたキャプテンの背中はびくともしない。
 御幸はわずかに視線を下げた。

「ははっ、まぁそうだよな」
「うん!」

 あいかわらずコオロギやらの鳴き声がすごい。それを聞きながら、私たちはしばしの間目の前のグラウンドを眺めていた。誰もいないグラウンドは広々として静まり返っていた。選手たちが休むように、グラウンドも休んでいるのかもしれない。

「戻るか......」
「そうだね」

 尻についた草をパンパンとはたきながら立ち上がった。
 御幸は心が強そうだから、きっと人に相談なんかしなくても自分で解決できるだろう。けれど、どうしようもなく自分の中のものを吐き出したい時は誰にだってある。
 私たちは土手を上り、互いにバットを持って道の真ん中で向かい合った。

「また明日」
「おう」

 木製 と 金属。互いが交わることはない。
 明日学校で会ったとしても、きっと私たちは今日の事なんてなかったかのように振る舞うだろう。
 けれど、なぜか今日、私のもとに御幸の小さな叫びが届いた気がした。きっと夏の虫たちが、不思議な風に乗せて運んだのかもしれない。





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