初めて夜を共にした。とても神秘的な時間だった。彼女が俺だけのもので、俺が彼女だけのもの。互いが互いを求め、欲し、愛を囁く。この夜を越えればもう不安など無くなるだろう。例えば、彼女が俺の元から離れ、どこかへ行ってしまうのではないかとか。例えば、彼女が俺以外のだれかを愛しているのではないかとか。そんな心配など要らなかった。彼女は俺を受け入れてくれた。全て杞憂だったのだ。俺は嬉しかった。君も嬉しいと言った。俺は彼女以外、必要ないとさえ思った。





けれど、翌日の学校で奇妙なことが起こった。


「おはよう、なまえ」

「………」

「…なまえ?」

「………」


彼女は俺の挨拶を無視して、下を向いて走り出した。顔面蒼白という感じで、ただ事ではない。すぐに追いかけたが、女子トイレに駆け込まれてしまっては、なす術がなく。俺はなまえの行動に後ろ髪を引かれながら、教室に戻った。もちろん授業なんて、頭に入らない。なまえに何があったんだろう。どうしたんだろう。投げすてたはずのものが、また戻ってきた気がした。





「…なまえ」


放課後、俺はなまえに会った。約束したわけじゃない。メールも電話も無視された。だから待ち伏せして、彼女が下校するのを待っていた。


「………」

「なまえ、どうして俺を無視するんだ?」

「…どいて」

「どかない」

「どうして」

「どうしても」


じっと彼女の眼を見つめていると、じんわりと水分が満ちてきた。俺が驚いて、たじろぐ隙を付き、彼女は走り出す。一瞬、腕を掴んで引き止めようと思ったけれど。彼女の顔を見ると、できなかった。彼女は苦しそうに泣いていた。





「鬼道」

「遅いぞ。もう練習が始まる」

「その…」


もごもごと口を動かした。練習を休みたいなんて言いづらい。しばらく黙っていると、鬼道が俺の肩に手を置いた。


「わかっている」

「え…?」

「いい、行ってこい。なまえが心配なんだろう?総帥には俺が言っておく」

「な、なぜ、」

「お前の顔だ。鏡で見たか?物凄く情けない顔をしている。なまえも罪な女だな」


にやりと鬼道が笑った。俺はすまない、ありがとうと伝え、なまえの家に向かう。もう放さないし逃がさない。たとえお前が俺を嫌いになったとしても、もう見たくなくなったとしても、話し合うべきだ。結果がどうなろうと構わない。とにかくなまえを解放したい。もし苦しませているのが、俺だとしたらなおさら。走りながらなまえの気持ちを考えてみたけれど、何も分からなかった。


「なまえ」

「………」

「俺だ。…源田だ」

「………」

「聞こえているよな?どうして俺を避けるんだ。俺が怖かったか?けだものだと思ったか?…全部、あの夜のせいか?」

「………」

「すまない、俺のせいだよな。俺が…全部…」


扉に向かって語りかける姿は、滑稽だろう。でも俺は必死だった。なまえがなにかを返してはくれないかと、耳を澄まして神経を尖らせ。しばらくして、急に扉が開いたとき、本当に驚いた。目をぱちくりとさせなまえを見ると、少し笑った気がした。


「入っていいよ」

「あ、あぁ…」

「てきとうに座って?」

「あぁ…」


おどおどしながら腰をおろすと、その向かいになまえは座った。最近来たばかりなのに、随分来ていなかった気がする。懐かしい甘い香りがした。


「で、」

「え?」

「何か用?」

「そ、れは…」

「………」


言いたかったことを懸命に頭の中でまとめようとした。けれどできない、まとまらない。言いたいことがいっぱいあって、頭の中がぐちゃぐちゃだった。口を開いて出てきた言葉たちは、頭の中で考えていたものとは違う、感情まかせのもの。


「お前の態度がおかしい、から、俺のことが嫌いになったん、じゃ、ないか、って…」


話しているうちに、自然と涙が零れた。なまえの向こうに立て掛けてある鏡に写る自身は、情けなくて見ていられなくて。あぁ鬼道、またなまえに格好悪いところを見られたよなんて考えた。なまえは相変わらず俯いていて、最悪の結末しか脳裏をよぎらない。


「やっぱり…俺が、」

「…大好きだよ」

「え?」


思いもよらない返答に顔を上げると、なまえも泣き出していた。苦しそうに声をだしているのがわかる。そんな思いさせたくないのに。


「大好きなのに、だめなんだ」

「駄目?なにが?やっぱりあの夜、俺が…」

「違う!幸次郎は悪くない。私が、悪いの」

「どうして?何が悪いことがある?お前は…」

「妊娠したの」

「え?」

「妊娠しちゃったの」


彼女は顔を手で覆い、わーっと泣き出した。俺は冷たい感覚を振り払って、すぐに彼女の肩を抱く。彼女の体は震えていた。


「それは確かめたのか?薬は?」

「…使ってない。買うの、恥ずかしくて」

「…そ、うか、わかった。俺が買ってくる。それで検査しよう、な?すぐ、買ってくるから」


彼女は小さく頷いて、ごめんねといった。すぐに俺は鞄を持って走り出す。本日何度目かのダッシュだった。





「幸次郎」


しばらく廊下で待っていると、部屋の中から声がかかった。絶望に満ちた声ではなかったから、少し安心して返事をする。


「どうだった?」

「だいじょぶ、だった…」

「そうか、入るぞ?」

「…うん」


扉を開けると、辺りに包装紙が散らばっていた。ベッドの上には説明書が。きっとこれをみながらたどたどしく検査したのだろう。検査の結果をまじまじと見つめながら、安堵した表情を浮かべる彼女に、俺も安心した。


「なぁ、なまえ」

「えっ…?」

「どうして妊娠したなんて言ったんだ?どうして俺を避けた?」


俺が聞くと、またなまえは俯いた。そして、最近気分が悪かったこと。食欲がわかなかったこと。調べたら妊娠の症状に似ていて不安になったこと。そしてそれは俺に迷惑をかけることになるかもしれないと思ったこと。それらをぽつぽつと語った。


「私のせいで退学とかになったら、私は構わなくても、幸次郎はって…」

「別に構わない。…お前がいればそれでいい」

「でも、サッカーは?」

「サッカーなんてどこでもできる。それに鬼道にいえば、サッカーくらいさせてくれるさ」


にこりと笑うと、彼女も微笑んだ。ほら見てみろと、なまえを促して二人で見た鏡には、


「なさけない顔だよな」


目を真っ赤に腫らした男女が写っていた。そのとおりだねなんて、笑う彼女に、あの夜本当は最後までしていないんだと言うのはいつが良いだろうと考えた。次の日の学校で、病院にいってみたらただの夏バテだったよと語る彼女の笑い声が、心地よく響いていた。




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