ローシェンナ トレード マリア 2
見張りに誘いをかけること3回。ついに逃げ出すことに成功したが、ここがどこなのかわからない。
船に乗せられて、イタリア内のどこかの島に連れてこられたことしかわからない。
走り疲れ、女は足を止める。木に背をつけ、足を投げ出した。
座ってしまってから、もう立てないんじゃないかと思ったが、すぐにどうでもよくなった。
女にとって重要なのはフランスに行かないことで、このままここにいることも、捕まって殺されることも同じくらいの意味しかもたないからだ。
閉じていた目をうっすら開けて、女はびくりと体を強張らせた。
目の前に足があったのだ。
『畜生』
毒づいた。もう逃げられない。
『大丈夫ですか?』
柔らかい声に、女は弾かれたように顔を上げた。そして目を見開いた。
自分を見下ろしているのは追っ手ではなく、女だった。
夜目にも美しいとわかる女だった。濃い茶色の髪は乱れ、服は汚れ、裸足という自分とほぼ変わらない格好でも、それでも彼女は美しかった。
心配そうに自分を見る女の顔が、どう見てもイタリア人でないことに気付き、女は苦笑を浮かべた。
『あんたも逃げ出してきたのかい?』
そう問うと不思議そうな表情を向けられる。アジア人の顔だった。
自分と同じ中国系だろうか。
『あんたも混血かい?見たことなかったけど…違う部屋にいたのかね…』
『私はユキ。日本人よ。ねぇ、貴女はカッペッレェリーアに捕まっていたの?』
ユキと名乗った日本人は、滑らかなイタリア語で問いかけてくる。
女は唇を噛んで苦く言う。
『そうさ。逃げ出してやったんだ。あの糞共からね』
『他に捕まっている人達は?どこにいるの?』
この女…なんでそんなに必死に訊いてくるのだろう。
なんとなくおかしくなりながら、自分が来た方向を指差す。
『どっかの貴族から借りた物置だってさ』
笑わせる。外観だけなら、前いた娼館よりも立派な建物だ。
だがベッドどころか毛布一枚も与えられず、同じ部屋の数人の女達と床に寝る毎日。
島に面倒なファミリーのボスが現れたとかで、フランスへの出航が延びていたのは幸いだった。
フランス行の船に乗せられてしまえば、自分に戻る術はなかったから。
ユキはその物置について詳しく聞きたがった。
おかしな女だと思ったけれど、だいたいの大きさ、自分がいた部屋にいた女の人数、見張りの人数と現れるタイミングなど、質問されるままに、覚えている限り答えた。
ユキがとても必死だったから。
『あたしが覚えてるのはこれで全部だよ』
『ありがとう。…ねぇ貴女、まだ歩ける?私の仲間がいるところまで行ける?』
ユキの声はとても心地よく耳に届いたが、首を横に振った。
『あたしはもう長くないんだよ』
あいつらに殺されるのは真っ平だから黙っていたが、捕まる前から病んでいた。
日に日に体力はなくなり、心臓が痛み、手足が言うことを聞かなくなった。
母と同じ病だったから、怖くはなかった。
娼婦だった母。中国系の客に惚れ、父そっくりのあたしを産み、捨てられ、それでも育ててくれた母。
母が死んで、自分も病んでいることがわかった。
娼館で体を売って、最期は野垂れ死にでもよかったが、イタリアから出ることだけは嫌だった。
死ぬなら母の故郷で、自分が育った国で死にたかった。
ユキはそんな独白を、静かに聴いていた。
同じアジア系の顔の綺麗な女。
最初は自分と同じ捕まった女かと思ったが、そんな風には見えなかった。
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