恋物語番外編 | ナノ


花に凍り人に融ける 1


 なまえが最初に違和感を覚えたのは、思えばボスと守護者の自室があるフロアの廊下を歩いているときにだった。

 替え終わったシーツが入った籠を持ったまま、周囲を見渡すが誰もいない。部屋の持ち主たちは全員、食堂で朝食後のコーヒーを飲んでいるはずだ。その間にシーツを替えるのがなまえの朝の仕事のひとつである。

 首の後ろに何かを感じ振り返ると、今朝早くに水を換えたばかりの花瓶があった。暖色系でまとめられた花は美しく開いているが、なまえは眉を寄せて籠を置き、花瓶に近づいた。

 黄色のガーベラをメインとした組み合わせは気に入っていて、活けたのは自分だが、何かがおかしい。廊下のどこからでも花が正面に見えるようにしたつもりだったのに、今はすべての花が真正面を向いている。正確にはなまえの方を。


『んー…』


 首を傾げて花を活け直してから、なまえは籠を持ち直してその場から離れようとした。

 だが、何かの気配を感じ、再び顔を向ける。


『あれ?』


 先ほど直したばかりの花が、動いていた。すべての花がなまえの方を向いている。

 不思議に思ったが、もう少し綺麗に活けられるよう練習しなきゃな、とそのときのなまえは気に留めることなく階段を下りたのだった。





* * *





 おかしい。

 それから2時間後、なまえは花瓶の前に立っていた。

 それは自室のあるフロアの花瓶ではなく、一階の食堂のものだが、同じ現象が起こっている。花の向きが変わっているのだ。全部が同じ方向。もっと言えばすべてがなまえのいる方向に。

 確かに窓やドアを開けたりして空気の入れ替えはしているが、今日は比較的穏やかな天気で、花瓶の花の向きが変わるほどの風は吹いていない。

 一輪挿しならともかく、花瓶いっぱいに活けた花がなぜ動くのか。

 自分を一斉に見つめている花たちを見据え、なまえは唸った。屋敷の中の7つの花瓶とだけならまだしも、雨月の自室の生け花まで動いている。

 直してもまた動くのだ。しかもすべてなまえがいる方向に顔を向ける。正直に言って気味が悪い。

 先ほどなど、談話室に飾ってあるラトゥールの花の絵さえもがこちらを見ている気がしてぞっとした。記憶の中とは違った方向(つまりなまえがいる方向)に花が向いている気がしたが、絵が動くわけがないのでさすがに気のせいだろう。

 結局三回直して、背中を向けたあと振り向くとこちらを見ている花たちに根負けして、なまえは仕事に戻る。

 実害はないが、気にはなる。ただ向きが変わっているだけならまだいいが、自分の方を向いているのが気になる。気のせいだと片付けるには、すでに回数が二桁を超えた。


『なまえー』


 間延びした声が聞こえた。顔を上げると、ランポウがあくびをしながら階段を下りてくるところだった。


『今テラスに行ったら鳥が洗濯物を咥えて飛んでいくのが見えたんだものねー』

『えええっ! ど、どっちに行ったの!?』


 確か南ーという声を背中に聞きながら、なまえは走って外に飛び出した。というか、見てたならもう少し気合を入れて知らせてほしい。

 とりあえず洗濯物を干している場所から南に走る。干していたのはシーツだけなので飛んでいればすぐに気づくはずだが、相手が鳥なので微妙だ。そもそもランポウの言葉が正しいかも微妙なところだ。

 敷地内の小道を走り、立ち止まって空を見上げる。手でちぎった綿菓子のような雲が浮かぶ、穏やかな空だがシーツを咥えた鳥は見当たらない。


『洗い直し決定だなー』


 溜め息をついて下を向き、なまえはぎょっと目を見開いた。足元に咲いている小さな雑草が、その白い花をなまえに向けていたのだ。茎部分がS字に曲がっている。ありえない。


『え、え…何……?』


 背筋が寒くなり、周囲を見渡す。

 足元に咲いた黄色や白の小さな花はこちらを見上げ、上を見るとエゴノキに咲いた小さな白い花はすべてこちらを見ている。

 言いようのない恐怖に、舌が貼りついたかのように声が出ない。


 ぴちちちっ


『! や、いやあっ!』


 小さく聞こえた鳥の声に我に返ったなまえは、悲鳴を上げて走り出した。





 気のせいじゃない。見間違いじゃない。


 なんなの? わからない。でも怖い。怖い!







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