恋物語番外編 | ナノ


帽子を捧ぐセレナータ 4


 深緑のベレー帽には、濃い金色の糸で刺繍を。

 大きめの山吹色のキャスケットには、藍色の縁取りと、同じ布で作ったくるみボタンを。

 そして真っ白なシルクハットには、緑色の太いベルベットのリボンを。





 最後の仕上げの準備を終え、ふっと息をつく。

 あの夜から、帽子屋の怪我は問題なく回復したようだった。自分はあれからずっと部屋に籠っていたので見てはいないが、見た目ほど酷い怪我ではなかったらしい。


(何故、私はあんな男のことを想っているのだろう)


 溜め息が出る。顔を殴っておきながら、そのことは忘れてしまったかのように手のことを心配するような男なのに。

 元々わかっていたことだが、帽子を作れるということしか価値がないのだと、宣言されたようで胸が痛んだ。


『……仕上げよう』


 口に出して、針を手に取る。帽子作りに取りかかりさえすれば、その間は帽子屋のことを忘れられる。

 本当に、私は帽子屋のことを好きなんだろうか。帽子作り始めれば、簡単に忘れてしまえるのに、本当に好きだといえるのだろうか。


『なまえ』


 ノックもせずにドアを開けたのはエルバだった。いつものことではあるが。

 私がまっすぐエルバに顔を向けると、驚いた顔をされた。帽子を作っている間は、近くで声をかけられるまで反応しないのが常だから。

 エルバは僅かに眉を寄せた。この男は普段は弱気なくせに、私の前では強気な…まったくノヴィルーニオらしい男だ。


『カッペッレェリーア様が2時間後にイタリアへ発たれる。長期だ。1〜2ヶ月ほど』

『イタリア…?』


 驚いた。イタリアには、売春を禁忌としているマフィアが多いと聞く。

 そんなイタリアに、帽子屋自らが向かうことなどない。長期ならなおさらだ。

 疑問が顔に出ていたのだろう。エルバが唇を笑みの形に歪めた。


『女の移送とイタリアの顧客の拡大が目的だが……もしかしたら大きな獲物をとることができるかもしれない』


 楽しそうな様子は伝わったが、なんのことかはわからなかった。

 2時間以内に今作っている帽子を仕上げることができるかと訊かれ、頷いた。それが用事だったらしい。


『余計なことは考えず、帽子を作っていろ。新しい帽子をカッペッレェリーア様に捧げることができなくなっても、お前の代わりはいくらでもいるんだからな』


 そう言い捨てて背を向けるエルバをぼうっと見て、考えた。なぜ帽子屋は、私を選んだのだろう。

 フランスのそれなりの有名店で働いていたが、私より腕のいい帽子職人はいた。

 相手があの帽子屋だから、夜の相手もさせられるのかと最初は怯えたが、拍子抜けするくらいそんな様子はなかった。そんなことを強いられたら、絶対惚れたりしなかっただろう。

 本当に、帽子を作る以外に私に価値はないのだろう。帽子が作れなくなれば、私は娼館行きか、最悪死だ。

 娼館行きになれば、抱いてもらえるだろうかという考えが再び過ぎって苦笑する。随分と、このファミリーに毒されてしまったようだ。


『おい』


 声をかけられて顔を上げると、エルバがドアに手をかけて、首だけをこちらに向けていた。とっくに出て行ったと思っていたので、首を傾げる。


『カッペッレェリーア様が庇った帽子のことだが…』


 小さく心臓が跳ねた。

 セルリアンブルーの小さめのシルクハット。つばの部分に、子どもの拳ほどの大きさの、同じ色のシルクハットの飾りをつけた、お気に入りだった。きっと帽子屋にとっても。


『あの帽子は無事だ。汚れひとつなかったよ』


 仏頂面で告げられた言葉に、安堵した。

 下を向いて長く長く息を吐いている間に、ぱたん、とドアが閉められた。





* * *





 ノックの返事がなかったが、ドアを開けると帽子屋は部屋にいた。

 ソファに横たわって眠っており、伏せられた瞳と同じ琥珀色のハンチングを被っていた。

 足音を立てないように近づいて、床に膝をついて顔を覗き込む。

 きらきらと輝くプラチナブロンド。それより少し濃い睫毛が、頬に影を落としている。

 波打つ毛先から、尖った顎まで、顔のひとつひとつを見つめる。

 完璧な美貌。見ているだけで心がざわつき、落ち着かない。幸せな気持ちになるとか、どきどきするとは違う。





 どこか不安げな、それでも……恋だ。





 思えば、この恋は劇的なものではなかった。

 拒否権もなく連れて行かれ、自分には過ぎた衣食住を与えられ、帽子を作る日々。

 そんな中で、手放しで褒められ、喜ばれて嬉しかっただけだった。

 まるで拾われた捨て犬が懐くように、私は帽子屋に惹かれたのだろう。

 そんな、それしか道がないかのように始まった恋だったのだ。


『私の名前を、呼んでください…』


 消え入りそうな声で呟いた。

 マフィアでなくても、帽子屋がもう眠っていないことくらいわかる。寝たふりをする気さえないことも。


『忘れてしまったのなら、何度でも名乗りますから…』


 名前を呼んでくれるだけでいい。そうすれば、私はその幸せを胸に抱いて帽子を作り続けることができる。

 貴方の心を手に入れたいわけじゃない。ほんの少しだけ、幸せを与えてくれれば、私は貴方のためにもっともっと素晴らしい帽子を作るだろう。

 それだけは、確信できるから。





『嗚呼…必要ありませんよ。……なまえ』





 静かに、とても静かに目を開けた帽子屋が、私に笑いかけた。

 ふわりとした、柔らかな微笑だった。