帽子を捧ぐセレナータ 3
エルバに続いて入った部屋で見たものは、広いソファに座る帽子屋だった。
ぐったりとソファの背にもたれ掛かる帽子屋は、肩と腕に血が滲んだ布を巻いており、その顔はいつも以上に白かった。
青い顔で駆け寄ろうとしたエルバを、帽子屋の傍で治療をしていたノヴィルーニオの医者が手を振って制した。
何ごとか言われると、エルバは渋々と言ったように頷いて、医者と共に部屋から出ていった。
『帽子を庇って怪我をされるなんて…カッペッレェリーア様らしいですが』
耳に微かに届いた言葉に振り返ったが、扉はパタンと音を立てて閉まった後だった。
目を見開いて立ち尽くしていると、伏せられていたプラチナの睫毛が震え、帽子屋が唇を噛んで呻いた。
きつく眉を寄せ、痛みに耐える表情など見たことがなかった。こめかみに滲む汗さえ、彼には縁のないものだと思っていた。
呻き声に突き動かされたように、ようやく足が前へ出た。
ソファに近づいて膝をつくと、帽子屋が僅かに目を開けた。いつもより濃く見える琥珀色の瞳が、一瞬不思議そうに揺れた。
『ん…? 嗚呼…貴女ですか。起こしてしまいましたか…?』
『いえ…起きていましたので』
なんとか答えると、そうですか…と微笑を向けられた。
笑顔を向けられたことに喜びを覚えたのは一瞬だ。帽子屋にとって、笑顔を向けることは条件反射でやってしまう癖のようなものでしかないから。
『帽子を庇って、お怪我を負われたと……本当なんですか?』
問いかける声が、少し震えた。
彼の頭の上には、光沢のあるセルリアンブルーのシルクハット。
普通のシルクハットより二周りほど小さいそれに手を伸ばすと、帽子屋に払われた。弱い力であったが、触れるなという確かな意志があった。
『体がつい動いてしまったのですよ。大丈夫、貴女に直してもらう必要はありません』
笑顔で言われた言葉。それを聞いた瞬間かっと頭に血が昇った。
『そういうことじゃありません!帽子を庇って怪我をするなんて、何を考えていらっしゃるんですか!?』
突然大声をあげた私を、帽子屋は目を丸くして見てきた。
『貴方が怪我をしたら、困る人が、悲しむ人がたくさんいるじゃないですか! エルバだって……私だって』
風が吹いたら消えてしまいそうなくらい小さくなっていった声。唇を噛んで、下がりかけた顔を上げる。
『貴方が怪我をするのが嫌なんです! 帽子が壊れたって私が直します。私がいるから、だから、帽子を庇って怪我したりしないで……ッ!』
言い終わる前に、強烈な衝撃と共に体が傾いだ。
右手を床についたが、衝撃が強すぎて自分の体を支えきれず、そのまま床に倒れ込んだ。
頬を張られたとわかったのは、じんじんとした熱い痛みを感じ始めてからだった。
半ば呆然して顔を上げると、ざっと体が冷えた。血の気が引いたのだ。
腕と肩から血を流す帽子屋の、琥珀色の両目がこちらを見下ろしていた。
冷たい、冷たい瞳だった。まっすぐ自分に突き刺さる、彼の怒り。
帽子屋はゆっくりと体を起こして座り直し、頭の上のシルクハットを軽く手で押さえた。
怪我をしているのに、その動きは惚れ惚れするほど優雅だった。
『この帽子は…否、私の帽子はすべて私のもの、私の体の一部です。庇おうがどうしようが私の自由』
恐怖で、頬の痛みが消えた。
視線だけで殺されそうなのに、逸らすことができなかった。
『貴女はこの帽子を作ったかもしれませんが、すでに私のものになったものについて口出しする権利なんて持っていないはずです。……違いますか?』
彼の笑顔を、初めて怖いと思った。
冷酷なノヴィルーニオの幹部。フランスで一番、敵に回してはいけない男。
そのことを、私は人から聞くだけで、目の当たりにしたことはなかった。
『その通りです…。カッペッレェリーア様…』
かろうじて答えると、すぐ後ろで靴音が聞こえた。
いつの間に現れたのか、私の横を通り過ぎたエルバが、帽子屋に礼を取った。
『カッペッレェリーア様。傷に障りますのでもうお休みください』
側近の言葉に、帽子屋ははっと目を瞬かせて、慌てたように私の傍に寄ってきた。
『嗚呼、大丈夫ですか?』
優しく抱き起こされると、どっと疲労を感じた。頬の痛みが再び襲ってくる。
顔を上げると、心配そうに眉を寄せる帽子屋の美しい顔。
『倒れたときに手をついたでしょう? 痛めてはいませんか?』
帽子屋はきっと腫れ上がっているだろう私の頬など、まるで視界に入っていないようだった。
頬とは別のところが、泣きたくなるほど痛んだ。
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