帽子を捧ぐセレナータ 2
『なまえ』
『エルバ』
夜。寝付かれず屋敷の中を歩いていると、廊下で背後から声をかけられた。
帽子屋の側近・エルバは、苛立ったようにこちらを見た。
『勝手に動き回るな。お前はカッペッレェリーア様の帽子を作るためだけにここにいるはずだ』
あからさまに敵意を向けられたが、笑顔を返す。
『えぇ、私はただの帽子職人。けれどカッペッレェリーア様は、部屋に籠ってばかりでは良い帽子はできないことを承知してくださっているわ』
すらすらとそう言ってやると、嫌そうに眉を寄せられた。
エルバを含む、帽子屋の直属の部下は彼にひどく心酔している。私のような女が勝手に屋敷を歩くのを良しとすべきでないと思っているのは知っていた。
『それでも、カッペッレェリーア様のいない日は部屋から出るな。ここは他の幹部もやってくることがある。問題でも起こしたら……』
『カッペッレェリーア様…今いらっしゃらないの?』
遮って問いかけると、盛大に舌打ちされた。
エルバの不機嫌の理由がわかった。帽子屋がどこに行ったのかはわからないが、連れて行ってもらえなかったことに苛立ちを覚えているのだろう。
『娼館の視察か、どこかの貴族に女を世話してやっているのだろう。きっと明日の昼までお戻りにならない』
『そう…』
明日の昼。それは背中が冷たくなる言葉だった。
側近であるエルバがそう言うときは、帽子屋は女を抱いている。彼の仕事か、はたまた付き合いで。
美しい帽子屋。女を抱くときでさえ、彼は帽子をとることはないのだろう。
そういうとき、帽子屋がどんな帽子を選ぶのか想像がついて、心臓の辺りがぎゅっと痛くなる。
『なまえ。お前…カッペッレェリーア様に抱かれたいのか?』
びっくりして顔を上げると、エルバが目をすがめてこちらを見ていた。無意識に掴んでいたシャツの胸元から、慌てて手を離す。
なんて訊き方をしてくるんだと思ったが、突き詰めて考えると自分の望みはそういうことなのだろうかと思ってしまう。
帽子だけでなく、私を見て欲しい。
私は知っている。彼が、私の名前をとっくに忘れてしまっていることを。それを不便だと、微塵も思っていないことを。
沈黙を肯定ととったのか、エルバは呆れたように息を吐いた。
『カッペッレェリーア様に抱かれたかったら娼婦になると言え。そうすれば、選定のために一度は抱いてもらえる』
投げやりな言い方だったが、頭の中に側近の言ったことを実行するイメージが渦を巻いた。
よほどのことがない限り、ノヴィルーニオで娼婦になりたいと言えば、帽子屋の手がつくことは間違いないだろう。自分が知らない女を管理するのを嫌う、奇特な男だから。
『娼婦になるのなら、先にその手を潰して使えなくするんだな。そうすれば、カッペッレェリーア様はお前に興味をなくすだろう』
言われて自分の両手を見下ろす。帽子を作るための、自分の両手。
この手を潰して、娼婦になりたいと志願して、帽子屋に抱かれる。おそらく、一回きり。
『うん…。割りに合わない』
こみ上げる笑いを隠すことなく呟くと、エルバが肩をすくめた。
わかりきっていることなのに、本気で実行しようと…一瞬でも思ってしまった自分におかしくなる。
そうでもしないと、帽子屋は私に触れない。
彼に触れてもらえるのなら、両手さえも捨ててしまおう…なんて。
『エルバ様! エルバ・エパティカ様! どちらにおられますか!?』
慌てふためいているような大声が響き、びくりと顔を上げる。
廊下の先から足を縺れさせながら、帽子屋の部下がエルバに向かって駆けてきた。
『エルバ様! カッペッレェリーア様がもうすぐ御到着されます。賊に襲われ、お怪我を負っております!』
最後まで聞き終わる前に走り出したエルバの背中を見て、そこでやっと体が震えた。
足は動いたが、頭の中からは何もかも消えていた。
先ほどまで浮かんでいた、帽子のイメージさえも。
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