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見たことがない男だった。洗いざらしのようにばさりと降りた黒髪と、黒い瞳、何より目立つ黒の刺青の男。 刺青男までの距離があるためはっきりとはわからないが、男にしてはあまり背が高くない。だが整った顔立ちの、なかなか良い男だ。現にこの場にいる女性の大半が、突然現れたそいつに目を奪われている。 (で、誰?) 竜胆が心の中で問うのとほぼ同時に、刺青男は浴びせられた視線を気にした様子もなく扉を閉めて歩いてくる。黒板に貼られた紙の前で立ち止まり、懐から紙切れを出したとき、竜胆達の中で男が試験官である可能性は消えた。 「おい」 先ほどまで委員長に群がっていた三人のうちの一人が、野太い声を刺青男に掛ける。男の、紙に向けられていた黒の双眸が動く。声を掛けられたことに驚いたようだ。 「お前、卒業生だろ?」 決めつけるような言い方と嘲笑に、刺青男は軽く眉を寄せ院生達ははっとした表情を浮かべた。 【卒業生】とは、真央霊術院を卒業はできたが入隊試験には落ちてしまった者の呼称だ。現役生は皆制服を着て試験に臨もうとしているが、男は違う。鉄紺色の袴と生成りの上衣は、色は男子用の制服に似ているが一目で違うとわかる代物だ。 見下した顔を向けられても、刺青男は小さく首を傾げているだけだった。三人は標的を委員長から変えたらしく、男を取り囲む。やはり刺青男は三人より頭半分ほど小さかった。俺ともそのくらいの身長差だな、と竜胆は呑気に思った。 「何期生だ?」 「見たことねぇ顔だ。一年や二年の差じゃねぇだろ? 何回落ちてんだ?」 「初試験の俺達に教えてくださーい先輩」 口々に言って、三人はげらげら笑う。刺青男の表情はほとんど変わっていないが、馬鹿にされていることにはさすがに気づいているだろう。僅かに眉に皺が寄っている。 みっともねぇ奴らだな、と竜胆は口の中で呟いた。卒業生を馬鹿にするのは勝手だが、自分も同じ道を辿る可能性は考えないものか。三人の実力を知っている竜胆は溜め息をつかざるを得ない。 「無視してんじゃねぇよこの落第野郎!」 反応がないことに苛立ったのか、一人が刺青男の胸倉を掴む。まったくガラの悪い連中だ。試験直前の行動とは思えない。竜胆が呆れている間も、困ったように眉を寄せていた男はそのままの顔で胸倉を掴まれていた。動じた様子はない。 すると、刺青男の着物をまじまじと見ていた一人が、胸倉を掴んでいる男に言う。 「随分と上等な着物だ。こいつ貴族かも」 「確かに」 「貴族ぅ?」 「貴族なわけあるか」 三人の言葉を否定したのは委員長だった。眼鏡を押し上げ、きつい表情で刺青男を睨みつけている。 「貴族が顔にそんなものを入れるわけがない。そんなのは下賤の者がすることだ」 刺青を指して吐き捨てる委員長に、男は少し眉を下げて右頬の大輪の花を指で引っかいた。確かに、貴族が顔に刺青を入れるなんて考えられないことだ。納得したのか、三人は鼻を鳴らして刺青男に向き直る。 「貴族じゃねぇにしても瀞霊廷の人間ってことだな。流魂街になんか入ったこともないっていうお坊ちゃんだろう」 なんとか言ってみろ、とがなり立てられて刺青男は顔を顰めた。その表情の意味がわかって、笑ってしまう。うるさい、だ。 「確かに、流魂街には数回しか行ったことはありませんが」 「ぶはっ」 吹き出してしまって反射で口を塞ぐ。周りの席の院生にしかわからなかったようだ。まぁ、ばれても問題はないが。 高くもなく、低くもない声。喧嘩を買ったも同然の言葉に、売った側三人は一気に頭に血を昇らせた。 「言いやがったなこの野郎!」 「ふざけやがって!」 何言ってんだか、と竜胆は呆れ返る。突然現れた男に言いがかりをつけ、勝手に劣等感を覚え、怒る。馬鹿のすることだ。何とも愚かしい。 竜胆は机に手をついて立ち上がる。軽く伸びをしていると、近くの席の女生徒がほっとしたような顔を向けてきたので、笑顔を返す。 胸の前で手をぱんっと打ち鳴らす。音は室内に響き、全員の注目を集めた。 「そこまでだ」 込みあがる欠伸を噛み殺しながら言い、三人とそれに囲まれている一人に近づく。 「竜胆、でもよ…」 「うるさい。試験前に面倒を起こして受けられなくなってもいいのか? 俺は親切で止めてやってるんだ」 反論しようとした奴の言葉を一蹴し、刺青男の胸蔵を掴んだままの手を離させる。こうなるまで止めようとしなかったくせに、という委員長の呟きは無視した。 不満気な顔の三人の前に立ち、懐から紙を取り出す。教本の頁番号が書かれたものだ。 「俺がさらに親切でよかったな。ここに今日絶対試験に出ると思われる問題が載ってる。今から確認すれば間に合うんじゃないか?」 「本当かよ竜胆!」 「すげぇ! 見せてくれ!」 「おい教本出せ教本!」 顔を輝かせた三人は物凄い速さで席に戻り、教本の頁を捲る。その周りに委員長以外の院生も集まり始める。あーあ、試験直前に売りつけてやるつもりだったのに。 「まぁいいや。で、俺の同級が悪かったな」 「あ…いえ」 男がぽかんとしたまま言うのを見て、竜胆は薄く笑う。右手を差し出すと、男は不思議そうに見下ろした。 「立石 竜胆だ」 「どうも。自分は…」 右手を伸ばしてきた男の手を竜胆は避け、反対の手にずっと持っていた紙切れを奪い取った。黒板に貼られた紙と照らし合わせて、驚いている男に笑いかける。 「よろしく。五〇八番、十崎 鈴」 (席はあそこだな。あの眼鏡の斜め後ろ) (はぁ…ありがとうございます) |
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