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一輪目

 空が真朱に染まる暮れ六つ、廓の一角に看板を掲げる、揚屋【朝里屋】。その中でも一等高級な座敷で、遊女が注いだばかりの酒を舌に載せる男が三人。


「D様が今日はお泊りにならないと仰ったので、雨でも降るかと思ったのでありんすが…」


 置屋【旭屋】で三本の指に入る花魁・蔓薔薇は真っ赤な唇の端をわずかに上げて、隣に座す馴染み客に流し目をくれた。

 D・スペードはお猪口を口につけたままひょいと肩を竦め、蔓薔薇はくすくすと微笑みながら自分の向かい合わせに並んで座っている、金髪の青年二人に目を向けた。


「お友達を連れてのお越しでしたら、最初に申し付けてくれたらもっと人を集めましたのに」

「いや、気にしないでいい」


 蔓薔薇に答えたのは、二人のうち少し濃い目の金髪の青年だった。橙色の瞳が柔らかく細まり、緩やかな笑みが口元に表れる。


「騒がしいのは嫌いだと言う珍種ですからねぇこの二人は。働いてばかりいる上司に息抜きでもという私の心遣いですよ。あぁ、それと蔓薔薇、この二人は友達ではありません」


 青藍の髪をかき上げて薄く微笑む青年・Dは、静かに酒を飲む二人に芝居がかった仕草で手を向けた。

 空になったお猪口に酒を注ぎながら、薔薇はころころと笑い声を上げる。


「そうでした。『盆碁霊屋』の御当主と番頭様でありんしたね」

「仕事を下っ端達に任せきりの無駄飯食らいに、集ってやりに来たんだよ」

「アル…。仕事のやり方に関してはお前も人のことは言えないぞ」


 肴には手をつけず先ほどからずっと酒をあおっている裏番頭・アラウディに、いくつもの揚屋、料理屋、旅籠等を経営する大店『盆碁霊屋』の当主・ジョットは苦笑を向けた。

 ジョットの突っ込みを軽やかに聞き流し、空になった徳利を床に転がすアラウディを横目で見た後、Dは蔓薔薇に向き直った。


「そういえば、そろそろ貴女の新造の初見世が近いらしいですね」


 にっこりと微笑んだDに、蔓薔薇は小さく眉間に皺を寄せた。


「うちの女将が喋りんしたか。あたしの口から話そうと思ってたのに」

「ヌフフッ、いいじゃないですか。一緒に来ているのでしょう?ここに呼べばいい」


 姉女郎が付いた新造や禿は、付き人のように遊女の行くところに同行する。

 『朝里屋』にいるであろう新造を呼べというDに、蔓薔薇は口をへの字に曲げる。


「うちの妹分は初見世を控えた身。床にはつけられないでありんすよ」

「かまいませんよ。花魁・蔓薔薇が手塩にかけて育てた新造を見てみたいんです」

「…番頭様はこう言ってますが、よろしいんで?」


 蔓薔薇はDの肩に乗せた頭を少しだけ上げてジョットを見る。

 Dは馴染み客だが、今夜の主賓はジョットだと聞いていたからだ。

 ジョットは蔓薔薇に向かって小さく微笑んだ。柳染の袷が美しい。

 そういえば、呉服屋も商っていたはずだ、と蔓薔薇がぼんやり思ったところで、耳に声が届く。


「かまわない。呼んでやってくれ」

「ついでに、新しいのを追加してよ」


 違うのがいい、と空の徳利を振るアラウディに小さく頭を下げて、蔓薔薇は襖の向こうに声をかけた。

 数刻はかかると思っていたが、思いのほかすぐに襖の向こうから声がかかり、ジョットは肴をつまんでいた箸を膳の上に置いた。


「蔓薔薇姐さん…」


 ふわりとした声に、ジョットはつい、と顔を上げた。凍りついたように、襖から目が離せなくなる。

 少しだけ困惑の色を含んだ、高すぎず低くもない、少女の声。

 こんなにも離れているのに、耳元で囁かれたような錯覚を起こした。


「お入りなんせ」


 するり、と襖が開き、床についた手と、下がった頭がまず見えた。

 蔓薔薇に促されて、ゆっくりと頭が上がっていく。珊瑚色の櫛、空色の着物に朝焼けのような白藤の帯。

 伏せた睫毛が僅かに震え、真っ直ぐに視線がかち合った。





「穹風《そらかぜ》と、申します」





 膳から箸が転げ落ちたが、気に留めることもできないほど、魅せられた。





* * *

穹風…恋物語主人公
蔓薔薇…ローザ

国籍とか史実とか廓のシステムとかいろいろ無視しています。
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